読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『飼いならされた感動』から『本物の感動』を志向する社会へ

ウインドサーフィン


私事だが、私はウインドサーフィンをやっている。事情を知らない人にそう言うとサーフィンと勘違いする人が多いのだが、セールで風を取って疾駆する姿はヨットに近いかもしれない。だが、最高スピードはヨットを上回る。上級者になるとヨットではとても対応出来ない強風と高波のコンディションでも出艇して、中には10メートル以上空を飛んで宙返りなどをしてしまう人もいる。サーフィンのように波に乗ることもあるが、風の力を借りる事ができるから、はるかにダイナミックに長時間乗っている事ができる。簡単な装備ながら、相当奥深い体験の出來るマリンスポーツである。

ウィンドサーフィン - Wikipedia
ウインドサーフィンのスクール ”逗子ウインドサーフスクール”



プレーニングによる不思議な爽快感


ウインドサーファーが最初に目標とする技術に、『プレーニング』というのがある。これは、一定以上の強風下で、ボードの接水面積を極端に少なくして、水面滑走状態で走行する技術だ。この状態に入ると体はハーネスラインというロープのようなものでセールにぶら下がり、ボードに装着したフットストラップに足を入れて固定するため、高速で走行しているわりには体にほとんど力が要らず、非常にリラックスした状態になる。このプレーニングの爽快感は他に比べようのない素晴らしいものだ。実際これを体験すると、大抵の人はウインドサーフィンに病みつきになり、風を求めて取り憑かれたように海に向かうことになる。(私もまあ、そうだ(そうだった))


ところが、実際にプレーニングの時に出ているスピードは普通はせいぜい時速30〜40kmだ。自動車で言えば、徐行とまで言わないまでも低速走行である。私は時々マウンテンバイクで山を駆け下りたりすることがあるが、その方がおそらくスピードは出ている。だが、いずれもプレーニングの爽快感とは比べものにならない。海上での体感速度は2倍とも3倍とも言われるから、実際のスピードよりスピードを感じていることは確かだが、プレーニングの爽快感はスピードだけの問題ではない。自由さ、開放感、沸き上がる喜び・・どうにも表現のしようがない。だが、神々しいほどの快適さを感じてしまう。思えば大変不思議なことである。



感動が連帯を生む


ある友人は言う。『プレーニングを知らなければ、金持ちだろうが、権力をもっていようが、一向にうらやましいとは思わない。むしろかわいそうなくらいだ。』私もその気持ちはかなりわかる。本当にそんな感じなのだ。そして、その境地を知る者同士には、これも不思議な連帯感を感じてしまう。言葉がなくても、わかりあえる気がするのだ。ウインドサーフィンは、他のスポーツに比べて難易度は高いと言われる。しかも、自然が相手であり、風が強くなければどうしようもないから、練習もままならない。そんなハードルを乗り越えてプレーニングを習得する人はそもそもそれほど数は多くなく、自身苦労を乗り越えた達成感があるゆえに、余計強い連帯感を感じるのかもしれない。この爽快感を感じるのに、何もドラッグを使ったりして体に無理をかけるのではない。むしろ、自然のマイナスイオンを全身に浴びて、時にはハードに体を使うこともあって、健康にも良い。



残念な思い


こんなふうに書くといいことづくめに見えるかもしれないが、そうとばかりも言えないこともある。ウインドサーファーに世間の目が暖かいかと言えばどうだろう。少なくとも私はそのように感じたことはあまりない。実は私はここのところにずっと日本社会の宿痾の構造と限界を感じて、長く残念な思いを抱えて来た。


『休日にウインドサーフィンをやります』というと、今でもたいてい『いい余暇(レジャー)ですね。活力が戻って月曜から仕事にいい影響が出ますね。』というような反応が帰ってくる。そう答えてくれる人にまったく他意はないが、正直なところ私はいつもゲンナリした気持になる。日本的な工業化社会の常識がいまだに社会の全域を覆っていることを感じてしまうからだ。しかも、この常識感の空気に期待通り反応しない人は、おかしな人の部類で括って対応を変えようという日本人の無意識が透けて見える。 『ウインドサーフィンに病み付き』とか言おうものなら、色眼鏡で見られることは確実だ。場合によっては軽度の村八分状態になることさえある。



『余暇』の功罪


ちなみに、「余暇」という言葉を辞書(大辞泉)でひくと、『余ったひまな時間。仕事の合間などの自由に使える時間』とある。


仕事が主、余暇が従、仕事に役立たなければ無駄、仕事にさしつかえれば悪、しかも想定されている仕事は規格化された工場やオフィスでの労働、という文脈だ。ちなみに、私は、『余暇』、『レジャー』という言葉が昔から嫌いだった。誰でも簡単に始められて、ある程度簡単に楽しめる。仕事に疲れた人々がそこから活力を得て、また仕事に元気よく向かうことができる。そのために、スポーツは本来の野生は飼いならされ、牙を抜かれ、パッケージ化され、マニュアル化される。決められた短い時間に効率よく楽しみたい/楽しむべき、というニーズに最大限答えるべく、商品化されていく。安易な気晴らしにはなるが、そのスポーツの持つ本来の奥深さ、深淵な魅力は無化されてしまうウインドサーフィンで言えば、プレーニングをはじめとする、不思議な、神秘的なまでの魅力や本来の奥深い魅力などどうでも良く、そこに到達するのに、何らかの苦労が伴うようなことは捨象されてしまう。そんなことをして一体何が楽しいのか。奥深い魅力を捨象して、あくびの出るような『余暇』に貶めるのでは、人々の目から本物の感動を覆い隠し、世界をあくびの出るような退屈な場所に変えているだけではないのか。



組織的無感動化


面白いことに、そのような気づきを得て、あらためて世の中全体を見渡してみると、あらゆるスポーツ、芸術、学問、どの領域においてもそのような『組織的無感動化』が覆い尽くしていることがわかる。あらゆる領域の活動をブルドーザーのように地ならしをして、『本物の感動』を根こそぎ刈り取って、後に残るのは、退屈な『余暇』と『気晴らし』と『安心安全』ばかりウインドサーフィンで言えば、弱い風でゆっくりセーリングをして気晴らしをするのはいいが、強風、高波で出艇して、安心安全を危うくしてはいけない、というようなものだ。さらに言えば、そんなにしてまで守りたかった『仕事』でさえ、同様に地ならしがされてしまっている。本来、仕事に全身全霊でコミットすれば、他のどんな活動にも勝る、奥深い感動があるものだ。だが、マニュアル化、標準化、官僚化の進んだ『お仕事』には、感動もなにもあるまい。仕事本来の、純粋な体験は本来他と比べることのできない一回限りの特異なもののはずだ。標準化された数値などで、代表できるはずのないものだ。如何に仕事が最終的に貨幣という標準化された数値で量らざるをえない性格のものだとしても、けして順序を間違えてはいけない。でなければ、イノベーションなどというものは金輪際期待しないほうがいい。



ソニーの設立趣意書


かつて1946年1月に、ソニーの創業者である井深大氏が起章した設立趣意書の「会社設立ノ目的」には、冒頭に下記のように書き記されていることはよく知られている。

真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設


ここには、仕事の本質的な、奥深い感動を自らの体験によって知り、後から来る人達に何とかこれを伝えようとする熱気と情熱が感じられる。そして、それを体現する本人である、井深大氏、盛田昭夫氏に率いられたソニーはかつてその趣意書に書かれた通り、素晴らしい製品を次々と世に送り出し、イノベーションで日本を代表する会社だった。そして、それは結果として貨幣という標準化された数値で見ても莫大な価値を生んだ。だが、そのような『標準化された数値』だけ先に与えられても、イノベーションが発動されることはけしてない。まさに不可逆な行程だ。だが、現代の日本社会はこの順序を逆転させたような、先ず『標準化された数値』ありきで溢れ帰っている。これでは社会から活力とイノベーションは消えてしまうのも理の当然というものだ。



本物の感動を志向すべき


今週末、本栖湖でそのウインドサーフィンをやりながら、そんなことばかり考えていた。『飼いならされた感動』から『本物の感動』を志向する社会になれば、日本人が本来持つイノベーションが活性化することは間違いない。どの領域であれ、本物の感動に出会った人なら、きっと賛同いただけるものと信じている。