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『集団的思考停止』はやはりもうやめにしないか

集団的思考停止を認めた!


先日(6月14日)の毎日新聞(ネットニュース)に非常に印象に残った記事があった。内閣府原子力委員会の14日に開かれた定例会議における専門家の意見聴取で、原子力案縁の専門家として知られる北村正晴東北大名誉教授から次のような発言があったという。

「巨大地震を、実際には起こりえないと決めつけた『集団的思考停止』があった」と認めた上で、「脱原子力を含めた今後の政策判断は、市民や意見の異なる専門家と真摯(しんし)な対話なしには展望は開けない」
http://mainichi.jp/select/science/news/m20110615k0000m040076000c.html


これには正直私は非常に驚いた。このような公的な場で『集団的思考停止』という彼らにとって一種の『忌み言葉』が出て来て、しかもそれが公の発言として認知されるというのは、そうあることではないと思うからだ。実際にそのような発言があったとしても、普通議事録作成時に削除されてしまう。それが政府系の委員会のような場に代表される日本の公的な場の無意識的な秩序感というものだ。だから、ついこれを蟻の一穴というか、大変化の予兆と深読みしてしまう自分がいる。この大変化は、もし本当に起きれば、長らく歪んだ事態が修正される可能性を感じさせるという意味では基本的には喜ばしいと思うが、一方そこに至るまでにはカオス的な混乱が避けられない可能性も非常に高く、いずれにしても、今後の推移や影響をよく観察しておくべきと強く感じた。



エリートの問題


この『集団的思考停止』は、『無知な大衆は何も考えていない』とか『バカな大衆の思考はいつも停止しているようなものだからエリートが判断しないと危ない』というような、大衆の無知を揶揄するものではもちろんない。むしろエリートの側の問題だ。日本のエリートが非常に真面目によかれと思って事に取組んで来たのに結果的に(というより必然的に)集団的思考停止が起こっていた、ということだ。エリートの側は、『贈収賄や悪意等がある場合はともかく、エリートが真面目に、真剣に問題に取組めば、根本的な間違いはしないもの。少なくとも起きている問題を見逃すようなことはしない』ということをかなり真面目に信じているものだ。だが、そうであればあるだけ、集団的思考停止が起きてしまうというパラドクスが問題の本質だ。そして、近代の日本の歴史はそのようなパラドクスが厳然として存在していることを教えているにもかかわらず、当の本人たちはそれに気づくことができない、あるいは気づいてもどうにもならない。だから、気づいても言わない。それが個人のレベルではなく、組織のレベルで強固に組み上がっているのが、伝統的公的機関の有り様だ。政府系機関だけではなない。伝統的大企業、特にしっかりとした組織を持つ企業であればあるだけ、面白いように同様の構造が見て取れる。



米国にも事例はある


日本のエリート集団内で、しばし集団的思考停止が起きることを端的に教えてくれるのが、すでに何度も私も述べて来たように、旧大日本帝国陸海軍、中でもとびきりのエリート集団である参謀本部、ということになるが、この集団的思考停止とはかなり構造が違うとは言え、もう少し拡大解釈すれば他国でも同様に起きている事例を見つけることが出来る。有名な例では、米国のケネディ大統領およびジョンソン大統領の政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラを中心として集まったエリート集団(最良の、最も聡明な人たち)が、後に『賢者の愚行』と歴史に裁断される泥沼のベトナム戦争に突き進んでいく過程(後にニューヨーク・タイムズの記者であった、デイヴィット・ハルバースタム氏によって出版された)など、エリート集団だからこそ起きてしまう思考停止の典型例とされている。 『エリートでも間違う』のではない。『エリートと自他ともに認めている集団』だからこそ間違い、しかもその間違いに修正がきかないのである。(ここのところは非常に面白いポイントなのだが、今回はこれ以上深入りしない。)

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どこにでも見られる集団的思考停止


翻って、自分たち自身の周囲を丹念に見渡すと、これはもう『集団的思考停止』の事例が驚く程溢れていることに気づくはずだ。特に日本社会の場合には、どの集団でも考えたり言ったりしてはいけないことがあると、それを腫れ物に触るように恐れながら忌避するのではなく、それがなかったかのように皆でふるまい、そうしている内に本当にそんなものはなかったかのような集団催眠のような暗示にかかってしまうというところに特徴がある。震災後、日本の原子力行政について典型的な集団的思考停止があったことについては、すでに様々な人たちが堰を切ったように語り始めているから、私がここで書くことにもはや新鮮みがないことは十分承知している。


面白いことに、そのこと自体(今まで誰にも語られなかったのに、いったん誰かが口火を切ると一斉に皆が語り始めること)がこの集団的思考停止の特徴をよくあらわしている。原子力政策のような特殊な事例でなくても、合理的に考えて行くとおかしいことは社会にいくらでもある。だが、それを深堀すると所属する団体の秩序が維持できなくなるような場合には、皆でなかったことにする。そしてそのことに言及してはならない、という『空気』が生まれ、時に『王様は裸だ』『原子力は危険だ』というような口にしてはならないようなことを口にするものが現れると集団内で徹底的な制裁を受ける。(イジメ、村八分、左遷等々)



いいこともある


集団的思考停止には独特のメリット/効用もある。何らかの矛盾した問題、原理的に解決が不可能な問題(神様と仏様の同居等)が集団内で起きても、しばし集団内の秩序は保たれる。世界的にはおよそサーカスのような曲芸であっても、日本では可能になることがままある。それに、地震津波のような天災が繰返し起こることを前提とせざるをえない日本では、『日本的諦念』とでも言うべき心性が意識下にしまい込まれてていて、起きてしまったことを過度に悔やまず、あまり過去にとらわれない。このような心的態度は日本人なら多かれ少なかれ見られるところだ。これがまさに今回の震災で見せた日本人の冷静さの背後にあり、世界の人達を驚かせたのだと私は当初から思っていた。普通なら このような時に自暴自棄になって、お互いに争ったり、犯罪を起こすようなことがあっても不思議はないとすれば、ある 意味これは日本人に特有の非常に高い精神性の発露と言っていいはずだ。そして、どうやらこれを問題解決ソリューションの極意とする日本人は何らかの問題が起きたときに、原因を究明して、責任者を明確に割り出して追求するより、問題をふわっと曖昧にして、本来人間に原因があるような問題でさえ、さも天災や神の仕業のごとく誰にも責めることができない問題のカテゴリーに納め、水に流し、すっきりと忘れて恨みっこなしにする傾向がある。責任の所在が勝手に曖昧にされてしまうから、特にこの構造が理解できない外国人からすればとんでもない無責任と怒ってしまうことになるわけだが、一方で、一度抱いた恨みを何世紀に渡って持ち続ける中国人やユダヤ人の一部の人たちのことを見るにつけ、日本的ソリューションが一方的に悪いとは私には思えない。いいところもあるし、だからこそ簡単には消えてしまわないとも言える。



だが見直すべきとき


だが、それでも敢えて言う。今は、見直してみるべき時期ではないのかと原発事故に典型的に見られるように、問題がなかったことにしてみても、実際に事故が起きてしまうと、取り返しがつかないほどの大きな事態を巻き起こして対処不能になってしまう、そういう問題は世に数多存在する。平時に秩序を維持するためには優れたソリューションでも、老朽化した秩序自体を改革しなければいけない乱世では、そのソリューションに捕われること自体が問題を難しくすることもある。それに、なかったことにして集団で思考停止することによってしか集団の秩序を守れないのでは、今や、『なかったことことにしなければならないこと』が多過ぎて、社会が萎縮/縮小するばかりだ。世界との不整合も拡大する一方である。ここいらでこの負のループを断ち切らなければ、この高い精神性を培って来た日本という集団そのものがなくなってしまいかねない。世界に誇ることのできる精神文化が日本に存在することを私はまったく疑う者ではないし、むしろ何としても後代まで伝えるべき文化資産だと考えている。だからこそこの危機の時代を必死に工夫して生延びることで、日本人の精神をさらに成熟させ、一層高いバランスでこの精神文化を存続させていくべきであると思う。