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節電を機に見直してみるべきこれからの日本の社会像

もう梅雨入り?


大変驚いたことに、関東地方が早々と梅雨入りした。平年より12日、昨年より17日も早く、記録が残る1951年以降2番目に早いという。そうかと思うと、今度は巨大な台風が北上中だという。異常気象にはもはやさほど驚かなくなっていたつもりだが、あらためて本当に何が起こるかわからないと思う。つい先日、今年は猛烈な暑さだった昨年のようなことはなかろうとの予報が出て胸をなで下ろしていたところだったが、どうなることやら。節電が課題の今年は例年以上に夏の暑さが気になるところだが、昨年並みということもありうることを想定しておいたほうがよさそうだ。



当面電力は節約すべきもの


発電量という点では、全体の7〜8%程度を占める水力発電も、水が不足すると想定能力どおり稼働しない可能性があるという意味で、不確実と言わざるを得ない。私は原子力は暫時縮小するのが賢明という立場ではあるが、全部直ちに止めるべきという意見に必ずしも賛成してこなかったのは、夏の暑さも水力発電のための水量も予測が非常に難しくなっている現実に鑑みてのことだ。しかしながら、原発は13ヶ月ごとに定期点検のために止めることが義務づけられており、再稼働時には地元の同意は事実上不可欠で(法的な許認可権減は国にあり、地元の首長の同意は要件ではない)、すでにチェルノブイリを超えるとさえ言われ始めた福島原発の状況を横目に簡単に地元の同意を得る事ができるとは考えにくい。実際、福井の西川知事のように原発の再稼働は認めないと宣言する首長も出てきている。この状況を冷静に受け止めれば、この夏だけでなく当面日本では『電力というのはできるだけ節約すべきもの』であることを前提と考えておくことが懸命というべきだろう。



重要不足から供給不足への転換


発電量は電力の最大の需要家である製造業をはじめ、あらゆる生産活動に影響を与えその規模を左右する。よって、当分は日本経済は生産活動の制約により供給不足基調を前提ととせざるをえない。バブル崩壊から、特に直近10年くらいは需用不足が最大の問題になってきていたし、すでに人口減少は始まっていて、中でも人口構成のゆがみから最も大きな需用母体の生産年齢人口が今後急減することがわかっているから、これからも需用不足こそ最大の問題であり続けるであろうと考えられていた。それがここに来て一気に逆転するわけだ。頭を切り替えるのは簡単ではない。だが、切り替えないといけない。この供給不足基調の中、復興需用が来る。 現早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問である野口悠紀雄氏が指摘するように、 本来供給が十分であればレバレッジ効果が働いて、経済成長が期待できる局面だが、今需用を増やしてもインフレになるだけで、物価が高くて雇用がないという状況を招き、社会的弱者が最も割を食うことになりかねない。そういう意味でも、今は不要な需用は抑制するほうが懸命な局面ということになる。『自粛で需用を抑制したら、経済が萎縮して金が回らなくなり復興にも悪影響を及ぼす』と巷間言われているわけだが、今は需用を抑制しなければ、インフレになって、より望ましくない形で需用が抑制させられてしまう。繰り返すが、何とも頭の切り替えが難しい局面だ。


供給ショック時の経済政策の目的は、総需要の抑制|野口悠紀雄 未曾有の大災害 日本はいかに対応すべきか|ダイヤモンド・オンライン



中長期的課題でもある『有限』へのパラダイムシフト


だが、冷静に考えればデメリットばかりとは言えない。これは本来中長期的にも検討が必要な課題だったからだ。グローバルな競争に巻き込まれ、一方で国内は慢性的な需用不足に悩まされてきた最近の日本では、需用の中味を見直すというようなニュアンスの発言をしようものなら、たちまち『アンチ資本主義』『原始生活回帰主義』というようなとんでもないレッテルを貼られて、まともな議論一つできない雰囲気だった。だが、そもそも環境問題が地球温暖化対応/CO2対策というような矮小化された議論にすり替えられているため事の本質が見失われているきらいがあるが、本当の問題は、地球の環境や資源の有限性をシステムの中に正しく据えることをせず(市場の外部性として)、無限発展/無限成長を前提としてきたグローバル・エコノミーに、今逃れようがない『有限性』が突きつけられていることにある。とりわけ巨大な人口を抱える新興国が従来の米国型の大量生産対象消費モデルに移行しつつある現実を前に、否が応でも問題に向き合い、世界全体で咀嚼していくしかないところに追い込まれている。中長期的に見ても、『無限』から『有限』へのパラダイム・シフトは不可欠だったはずなのだ。



結構いける?


震災以来、一貫して求められてきた『節電』活動が徹底して実行された結果、街や駅の構内の光量は抑えられ、無駄な電力消費を皆が見直すようになった。その結果、多くの人が、こう感じたはずだ。『結構行けるじゃないか。』 


夏に向けた省電力プランを見ていても、求められている前年比10〜20%を節減するのに、何も原始生活に戻る必要は全くない。リーズナブルなレベルの節電で意外に達成できてしまう。逆にこの節電分をひねり出すために、リスクを取ってでも原子力発電に頼ろうと皆考えるだろうか。リスクテークに見合う効用があるとはとても考えられないとする人がほとんどではないだろうか。私達は一体何を恐れていたのだろうか。



社会の健全性と物質生産の持続的増大

無限成長を前提としていると、とにかく何でもいいから需用/消費を拡大することが七難を隠すとばかりに、多少なりとも需用/消費縮小につながりかねないことは何であれ忌避されてきた。だが、そういう消費が生活の満足や充実につながっていたのかと言えば、これもはっきりとした因果関係は見られない。以前も私のブログエントリーで取り上げてきた通り、GDPの大きさと幸福度/生活満足度が従属関係にないことはすでに統計で見てもはっきりしている。物質生産の持続的増大は社会的な健全性や人々の幸福度/満足度や生き甲斐を必ずしも担保するものではない。(場合によってははっきりと逆効果ということもある。)


国際競争力やGDPより『幸福度』を上げることを考えるべきだと思う - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る



ガルブレイス氏再び


この点を議論する上では、前回のエントリーでも言及した、経済学者のジョン・ケネス・ガルブレイス氏を再び取り上げないわけにはいかない。ガルブレイス氏は、米国でそれまでまったく疑われたことのなかった前提、すなわち、物質生産の持続的増大が経済的・社会的健全性の証である、とする考えに対して最初に疑問を投げかけた人物とされているからだ。1958年の著書、『ゆたかな社会』*1では、生産者の宣伝によって消費者の本来意識されない欲望がかき立てられるとする依存効果を説き、1990年の『バブルの物語――暴落の前に天才がいる』*2では、過去の金融バブルを研究して、そこでつくられる需用は、非合理な錯覚に『レバレッジ』の魔法をかけて膨らましたものであることを看過した。日本でも、バブル期には、人々は宣伝によってつくられたブランドを記号として消費するいわゆる『記号消費』に浮かれ、魔法によって高額に膨れ上がった不動産を買いあさった。まさにガルブレイス氏の分析どおりであったことを認めざるをえない。さらには、大恐慌の再来と言われたリーマンショックでも、ガルブレイス氏の指摘通り歴史は繰り返された。


経済を活性化し、ダイナミックにし、イノベーションを生みやすくするためには、ある程度のリスクテークは不可欠で、投機的な取引も必要であることを認めるのはやぶさかではない。だが、歴史を振り返ると、このような需用はしばし限度を超えて膨張し、破裂して消えることで、社会に繰り返し大きな傷を残していく。内容を問わない需用や消費の無限の拡大は、資源や環境の制約とはまた別の意味でも社会を混乱させ、破壊する危険物となりうることは知っておく必要がある。



経済以外の価値が担保する社会と市場の健全性


社会の健全性には、経済の拡大が重要な要素であることは言うまでもないが、また公正、正義等、法律や政治/行政が担保し追求すべき価値、社会の道徳や追求すべき理想、自由で限界のない芸術や文化への探求等も欠くべからざる要素のはずだ。同時に経済価値を最大にするために必要な『健全で効率的な市場』は社会の健全性に依存する。狭義でも公正、正義、法律の遵守等が存在しなければ、近代の資本主義は成り立たない。 いつ寝首を欠くかれる無法な投機や詐欺ばかり横行する市場しか無ければ、健全な取引も行われず、結果経済自体が萎縮/衰退してしまう。


だが、米国でも日本でも、狭義の経済利得の論理のみ強調するあまり、他の重要な価値を毀損し、社会の健全性が失われて来ているのではないか。例えば、リーマンショックの分析で必ず引き合いに出される、サブプライムローンなど、高度な鼠講としか言いようがない。このように言うと必ず、元ライブドア社長、堀江貴文氏の活力ある経済活動を日本の保守主義者の正義感が潰してしまったのではないか、との反発をする人が現れるが、そうではない。まさにこの歪んだ『正義感』こそ問題で、既得権益という経済利得や自分たちのクローズド・サークルの利益に判断がゆがめられた典型例とも言える。本当に健全に大きく発展する市場をつくるためにこそ法の元での平等と公正さが不可欠だ。後だしじゃんけんが横行したら、真面目に市場にコミットする気にはならないだろう。後だしじゃんけんと言えば、かつて日本の株式市場では、大手証券会社が株式市場が暴落した際に、大手企業や機関投資家等の大口顧客に損失補填を行い一般投資家をないがしろにする行為ということで強い非難を浴びたが、これは市場を健全に発展させる経済行為とはとても言えないはずだ。


損失補填 - Wikipedia



誇りと気概をなくした日本の経営者


日本ではいわゆる誇りと気概のある経営者が非常に少なくなってしまっている。これも、目先の経済利得や既得権益にしか関心がないタイプばかりになってしまっているからではないのか。気概も信念も無いから、物語も伝説も生まれない。自社利益ばかりあさるように優先していることが見えてしまうから、発言が感動を生むこともない。一見、企業価値の最大化に貢献しているようで、むしろ企業価値を著しく毀損していることに気づきもしない。楽天の三木谷社長が経団連の脱退をTwitterでつぶやいて非常に話題になっているが、日頃三木谷社長に批判的な人でも内心喝采を贈る気持ちになったのではないか。


http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110528/biz11052811200031-n1.htm




7つの社会的罪


日本人から、気概のある人物がまったくいなくなったというわけではもちろんない。久々にそのことを感じさせてくれたのは、5月23日の参議院行政監視委員会に出席した京都大学助教小出裕章氏だ。その小出氏が発言の最後に、インド独立指導者のマハトマ・ガンジー師の『7つの社会的罪』を引き合いに出して、日本の原子力行政や学会の病弊について語っているが、私がまさにここまで述べてきたような危険な兆候が日本の経済社会を覆っていることを大変見事に照射している。


小出裕章参考人の全身全霊をかけた凄まじい原発批判がわかりやすすぎる!(文字おこし)

ガンジーの言う「七つの社会的罪 (Seven Social Sins)」とは? - GIGAZINE


7つの社会的罪とは以下のようなものだ。

・理念なき政治
労働なき富
・良心なき快楽
・人格なき教育
・道徳なき商業
・人間性なき科学
・犠牲なき宗教


残念ながら、今の日本にほとんどすべてが当てはまっているし、そもそも何故これが大事なのかわからなくなっている人も多かろう。節電を入り口に是非、もう少し奥の方まで思索と反省を広げて見てはどうだろうか。その効果は予想以上に大きいことはうけあってもいい。

*1:

ゆたかな社会 決定版 (岩波現代文庫)

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*2:

バブルの物語―暴落の前に天才がいる

バブルの物語―暴落の前に天才がいる