ソーシャル・メディアは日本社会/経済の救世主になれるだろうか

震災後のソーシャル・メディア


NECビッグローブの調査によれば震災前には一日平均約1,800万件あったTwitterにおける一日のツイート数は、震災当日に約3,300万件まで急増した後も、平均約2,200万件を超えていて、震災前の平均値の1.8倍にまで増加しているという。しかも、その増加数以上に非常に興味深いのは、ツイートの中味の方で、震災前はエンターテインメントが全体の60%(内アニメ関連が26%!)だったのが、震災後は地震や交通等が80%にも登り、ドラスティックな変化が起きていることがわかる。


巷間言われているように、Twitterに加えて、USTREAMニコニコ動画等の中継等、情報収集ツールの多様化が一気に進んだ実態を裏付けるデータだ。またTwitterは不安定な電話回線に代わる情報交換ツールとして利用されただけでなく、被災地内での有用情報の交換等のコミュニティ的な利用も(必要に迫られたという事情はあるにせよ)急拡大し、定着していったと考えられる。


震災前後でツイート内容に大きな変化、東日本大震災におけるTwitterの利用状況 - GIGAZINE



大幅な行程短縮


その結果、政府公報や大手マスコミ情報を大量のTwitterUSTREAM情報が相対化することになり、福島原発事故に象徴されるように、従来日本人が信じきっていた政府公報や大手マスコミ情報がしばし間違っていて、本当に知りたい情報は不足しており、しかもタイムリーとは言いがたいという評価を多くの人が下すことになった。もちろん、従来の情報のすべてが間違っていたり、陳腐化したという訳ではないにせよ、明らかに『バイアス』がかかっているケースがあるということをもはや疑う人はいないだろう。しかも、生活に密着した情報(地域情報等)は、コミュニティ内の情報のほうが、タイムリーできめ細かく、しかも本当に欲しい種類の情報が多いということもあらためてはっきりしたと思う。ソーシャル・メディアの浸透は震災前からすでに日本社会の底辺を広範囲に揺さぶっていて、その影響が大きく顕然化することはもはや時間の問題だったが、今回の震災はその行程を大幅に短縮することになった。



想定外


昨今の日本は社会や経済に係わる従来の仕組みの老朽化が来るところまで来ていて、様々な『権威』が崩壊過程にあったわけだが、今回原発事故により露呈した権威の崩壊はその中でも最大級と言えるものだろう。信頼にたると皆が無条件で信頼していたはずの権威およびそこから出てくる情報がもはや手放しでは信頼できない、これは旧来の日本人にとって驚天動地と言っていい出来事のはずだ。今や大手マスコミ情報も、Twitter等で流れる情報も、共に正しい情報もあればデマもある、ということになると、情報を取捨選択するための『情報リタラシー』が必要不可欠になる。本音のところ大抵の日本人はこんなものが本当に必要になるとはそれこそまったくの『想定外』だったのではないか。



従来の日本人の『安心安全』


従来の日本人の『安心安全』の源泉は、どこかの『村』に安定的に属することで保証された。企業村、官僚村、政治家村、マスコミ村など、何(どこ)が正しいかより、どこに所属できるかで『安心安全』の内実が決まる。同じ企業に入るなら、できるだけ大きな企業グループの主要な会社にいるほうが安心の度合いは明らかに上がる。そういう企業は、政界や官界、マスコミを併せた巨大な村を構築することができるからだ。


だから、一旦どこかの村に所属したら、その村の公式見解に反すること、その結果として村八分になることが何より恐ろしい。その村の公式情報が正しいかどうか、社会的正義や公共善にそうかどうか、そういう意味での情報感度や理解力、情報リタラシーは不要で、むしろ有害になることさえある一番大事なのは『村の空気』を読むことで、そのためのリタラシーは万難を排して高めておく必要がある


だから、今ここに至っても、原子力発電に関わる議論など典型的にそうだと思うが、将来の日本の公共善にとって何が一番大事なのか、ということをめぐって言論が交わされるというようなことはついぞ起きて来ない。それぞれの陣営の空気を代表する言説やデータが散漫に出てくるだけだ。議論が噛み合ないのではない。噛み合う事はむしろ恐ろしいのだ。それぞれに陣営の空気に反するような意見を認めざるを得なくなることは何より避けるべきことだからだ。



すでに行き詰まっていた


だが、問題はこの構図がもはや機能不全になり、構成員が個を殺して一生懸命努めても、村が構成員を守ってくれなくなってきていることだ。そもそも震災がなくても、企業村に代表される日本の組織はもはや維持不能なところにまで追い込まれていた。すでに存在理由を無くしているのに、存在することだけを目的に徘徊する『ゾンビ企業』、起業家が既存の枠組みをやぶって活躍できる環境を整えるどころか、既得権益に執着するあまり、新しい物なら何でもつぶそうとする『官僚主義』など、日本は震災がなくても地滑りと共に海溝に沈みつつあったとも言える原発事故を巡る『人災』もまったく同じ構造からなる問題であることは始めからはっきりしていた。


だが、いかに村のおきてを守っていても、原子力の荒ぶる神は今も暴れ続けている。もしかすると、今後何年も、何十年も解決に時間がかかるかもしれないとさえ言われるほどの惨事が起きて始めて、もう村はその構成員を守ることができないのではないかと村民も気づき始めているようだ。しかも、村民でさえ、もはや自分の村の広報や大手マスコミの情報だけに頼らず、ソーシャル・メディアで発信される情報等を含めて総合的に情報を取捨選択し始めた。今やっと大転換が起きる可能性が出て来ているとも言える。そしてここで転換が起きれば、それは燎原の火のごとく他の場所にも広がって行くかもしれない。



厳しい経済環境と迫られる変化


先日、帝国データバンクから、東日本大震災から一ヶ月半経過した現時点で震災関連倒産が、阪神淡路大震災の3倍以上に登ったという発表があった。その主な原因の9割は「間接被害型」で、中でも消費自粛のあおりを受けた倒産が多いという。だが、おそらく本当に恐ろしいのはむしろこれからだ。部品供給元の多くを震災で失った自動車産業などを先頭に、日本の製造業者が負った傷は阪神淡路大震災とは比べることもできないほど大きく、これからその影響が日本経済全体に大きく及んでくることは避けられない。それどころか、そもそも労務コストが高く構造的な円高という問題を抱えていた製造業者に、東海地震等による潜在的な危険がリアルに感じられるようになった日本に部品供給工場を持つ理由をどう正当化できるのだろう。『製品加工輸出』という日本の成功パターンがすでに維持が難しいとあれだけ言われても、旧来の構造をどうしても変えることができずに長期停滞を余儀なくされていた日本に、まったなしの決断を迫っているのが今回の震災なのだとも言える。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110506-00000536-san-bus_all



日本には馴染まない種類のコミュニケーション


TwitterFacebookのような米国発のソーシャル・メディアは、見知らぬ人同士でもコミュニケーションを円滑にすすめるための『社交術』を補強するツールとして設計されている。それらは米国のように、ファーストネームで呼び合い、上も下もなく気軽にしゃべれる社会において最大限に機能する。一方、日本では、大抵の人はソーシャル・メディアの中においてさえ、まず先に相互の位置関係を知ってから場をつくり、その場の空気を読んで、その場に期待される自分のキャラクターを理解しないと発言できない。特に年齢が高いほどそういう傾向がある。だから、日本ではTwitterFacebookでも人間関係を限定的に絞っていくというような使われ方がどうしても多くなる。数年前から日本でも社内でこうしたツールを使ってコミュニケーションを活性化しようとする試みが盛んに行われたが、上下左右の関係が明確な日本企業で、アメリカ流フラット・コミュニケーションを体現するソーシャル・メディアがそのままで馴染むはずもなく、たいていは尻すぼみになってしまった。



日本でも始まっていた『フラット』で『フランク』なコミュニケーション


だが、それでも、少しずつではあれ、こうしたツールの本来の趣旨を生かした使われ方と、それらが持つ思想を受入れてネット内で活動する日本人が若年層を中心に増えてきているのも確かだ。Twitterの企業利用などでもそうで、朝日新聞だの日経新聞だの厳めしい企業名で発信されていても、受信者側から支持されるのは、『フラット』で『フランク』な、時に柔らかすぎるくらいの発信だ。また、日本の経営者の中で最も受入れられているTwitter使いはソフトバンク社長の孫正義氏であることに誰も異論はないと思うが、孫氏のつぶやきから旧来の日本企業の経営者の影を感じる事はほとんどない。実に『フラット』で『フランク』だし、だからこそTwitterコミュニティは孫正義氏を熱狂的に支持しているように見える。


個人の背後に何らかの『村』を背負った場合のコミュニケーションは大抵の場合村同士の利害調整や相互の関係を確かめ合う記号の交換ではあっても、双方が問題自体に集中して、利害や立場を超えた解決策を見つけて行くという種類のコミュニケーションにはならない。だが、日本のTwitter等でもやっと新しい時代のコミュニケーションと新しい『社会』の萌芽が見られると言っていいのではないか。そうであれば、日本ではなかなか望んでも得られなかった、イシュー(問題/政治課題)ごとの純粋な議論が進んで行く可能性がありうるし、積極的に育てて行く価値もある。(もちろん、まだ、誹謗中傷や村的コミュニケーションを仕掛ける人も多いことは認めざるを得ない。)



希望の燈


こういう動向を見ていると、もしかすると、日本の希望の燈は、ソーシャル・メディア内にこそあるのではないかとあらためて思えてくる。少なくとも、その燈を絶やさずに、力強い大火として育てるよう支援していくことは、皆が考えている以上に大事なことなのだと思う。だから、このブログでも、このことをメインテーマの一つとしてこれからも探求していきたいと考えている。