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原子力発電に関する私の意見

封印が解けてしまった


すっかり春めいてきて緑が目に鮮やかな季節になってきた。あれほど寒かった冬の気配も消えて、今日など長袖では汗ばむほどだ。ゆっくり木々が生い茂る小道を散歩すると穏やかさが全身に染み渡る気がする。一年でも一番好きな季節の一つだ。だが、今年に限っては、つかみ所のない不安感の塊を払拭できず、心から春の陽光に身を任せられないでいる。


その原因ははっきりしている。原子力発電問題(原発問題)に自分なりの決着がつけれないでいるからだ。学生時代に初めて環境問題および原発問題に取り組んでみて、その深刻さに震撼し、動転さえしたものの、その後就職して目先の忙しさにかまけているうちに、自分でも驚くほどあっさりとこの問題を封印してしまっていた。だが、とうとう自分の心の奥底に施した封印が破られて押さえつけていた魔物が蘇ってしまった。よもや自分の生きているうちに再びこの魔物と対峙することがあろうとは思わなかった。



原発問題も空気に支配されていた


地震発生直後から、原発問題はインターネット系のメディアでは非常に活発に議論されていた。だが、中には到底議論とは言えないような口汚い罵り合いも多く、原発賛成であれ反対であれ、何らかの旗色を少しでも明らかにしようものなら、びっくりするほどレベルの低い罵倒を受けたりする。私もTwitterで何気なく原発問題に言及するニューヨークタイムズの記事を含むあるつぶやきをReTweet(RT)したら、早速、『それがどうした!』『迷惑なんだよ!』『電気使うな!』というような反応が帰ってきて驚いてしまった。 自分でもほとんど意識していなかったのだが、それは原発反対のニュアンスを含むものだったのであろう 。一方、仮に私のRTが原発賛成のニュアンスを含んだものであれば、原発に反対している人から罵倒されたであろうことは容易に想像できる。


私はこの時、強い『既視感』を感じた原発問題に限らず、日本では利害対立を含む政治問題はほとんどが同じようなパターンにはまってしまう。そして、議論を尽くして解決するのではなく、利害関係者同士が利害や感情的な共感を通じた『仲間』をつくりその数の多さが問題の行方を決めていく。そこに責任者はいない。かわりに『空気』だけがある。連綿と続くこの日本的な問題解決法は日本の制度のあらゆる部分を蝕んできていることは何度も述べてきた通りだが、原発問題においても例外ではないことを見せつけられた瞬間だった。



『技術と社会』を語れるエンジニア


最近は、インターネットを通じて情報収集をすることが増えているわけだが、この言論空間ではやはりIT関連のエンジニアやIT関連を扱うジャーナリスト、学者、コンサルタント等の意見を普段から目にする事が多い。そして、彼らの個々の発言はブログやTwitter等を通じて沢山目にするため、その人物像をかなりのレベルまで突っ込んで知ることになる。『この人はエンジニアとしては優秀でもまったく社会性がない』とか、『この人は一見経済学に精通しているように見えて、実は視野が狭すぎて話にならない』と言った具合だ。これは発言する側にはとても過酷なことだが、情報が過剰流通するインターネット時代には、その発言/情報の価値を評価するにあたり、非常に重要な判断材料となる。


このような過程を経て、私が普段から、エンジニアとしての世評も高く社会的な発言もしっかりした思想の裏付けがあると考える二人の人物が、本人達は原子力は専門ではないと断りながら、いわゆる『理系的思考/判断力』を持って、今回の原発事故に触発されて原発全般を客観的に分析して、あいついで自らの見解を表明している。その二人は揃ってブロガーでもある。中島拓氏(ブログ名:アンカテ)と中島聡氏(ブログ名:life is beautiful)である。(期せずしてお二人の中島氏ということになった。)

原子力技術に詳しいと自称するエンジニアの多くが、実はその専門範囲が非常に狭く(原子力発電全般をカバーしているわけではなく)、しかも技術と社会の関わりを語る力量に欠けるがゆえに、頓珍漢な見解を乱発する場面にうんざりしている人も多いと思う。今は象牙の塔の専門性より、高度な『理系的思考/判断力』を持ちながら『技術と社会』について語ることのできる力量ある人の意見こそ貴重なのだと私は思う。



時期尚早


両氏ともほぼ同様の結論に至っているのは実に興味深い。

原発の稼働そのものの安全性もさることながら、私は、この「使用済み核燃料の処理困難性」ということがもっと注目されるべきだと思います。その根本的な原因を考えると、原子力(核力ベースのエネルギー)はまだ人類が手を出す段階ではない、ということになると思います。

燃料棒破損事故として福島原発事故を見る - アンカテ

原発のもうひとつの問題は放射性廃棄物である。日本の原発は、毎年1000トンもの放射性廃棄物を生み出すが、これが放射能を持つだけでなく、使用後も数年間熱を出し続けるというやっかいなしろもの。しばらくはプールに入れて冷やしておかないと上に書いたような溶融を起こして放射性物質をまき散らすし、熱が収まったあとも何十年も(場合によっては永遠に)、人が近づけない地中深くに埋めておかなければ危なくてしかたがないという危険物である。

(中略)長くなってしまったが、エンジニアの眼から見て「今の原発は危険すぎる」というのが私の導き出した結論である。

Life is beautiful: エンジニアから見た原発

原発の持続可能性(sustainability)


CO2問題が盛んに議論されている最中、『持続可能性(sustainability)』という概念が喧伝された。これは、人間活動、特に文明の利器を用いた活動が、将来にわたって持続できるかどうかを表す概念である。化石燃料に依存する人間活動はCO2排出量が多い。CO2がある一定量を超えて地球の温暖化が進んでしまうと、それを元に戻すことはできず(CO2が温暖化の原因ではない、とする意見も根強いことはとりあえず保留しておく)、 しかも化石燃料の可採残量には限りがある。いずれの観点からも化石燃料依存(=火力発電等)には持続可能性がない、との大勢のコンセンサスを得て原発が火力発電に変わるものとして注目を浴びた。


だが、別の観点として廃棄物処理の問題がある。容易に自然に戻らない人工物質を廃棄し続ければ、人間自体の生活を脅かすことになり、持続可能とはいえない。原発が、処理困難な廃棄物を大量に生み出し、しかもそれが気の遠くなるような長い年月の間人の手で厳重に管理しなければいけない危険物だとすれば、CO2とは違った意味で環境負荷を不可逆的に大きくしてしまうということになる。『将来技術が進歩すれば廃棄物を安全に処理できるようになるに違いない』という意見は無責任と誹られてもしかたがないだろう。私達の子孫に大量の負の遺産を押し付けることになりかねないのだ。アンカテの中島氏の主張のとおり、『人類はまだ手を出す段階にはない』、というのが誠実な態度というべきだと私も思う。



生態系の外


さらにこの議論を思想的に説明するのが、宗教学者/人類学者の中沢新一氏だ。中沢氏によれば、原子力というのは歴史的に見ると『第7次エネルギー革命』に相当し、それ以前のエネルギーとは決定的な違いがあるという。それまでのエネルギーの最終到達点は、石油を頂点とする化石燃料だが、石油というのは、太陽エネルギーを吸収した有機物が土壌に体積していたものを取り出して使う、という意味で『生態系』を通ってくるもの、ということになる。したがって、人類が放りだしても、生態系が処理する事が出来るという意味では持続可能である。いわゆる化学式の操作程度の問題で、これは今の人類に操作可能だ(もちろんここに至るまでには人類の長い苦闘の歴史があった)。 ところが、原子力というのはそうではない。原子核の結合エネルギーを利用しようとするもので、ここから出てくる物質の中には生態系の中には存在しないものもあり、排出されれば生態系を壊してしまう。これを今の段階で人間社会のただ中に持ってきて、文明を動かすダイナモ(発電機)にしようというのは無思慮も甚だしいとする。

中沢新一さん“みどりの党(のような…)”で、内田樹さん“ご隠居さん生活”早くも終了ーっ?!の巻: #radiodays いま、日本に何が起きているのか 平川克美・内田樹・中沢新一 - Togetterまとめ


学生時代にこの議論を多少かじったことのある私としても、いくらCO2排出がないからと言って、原子力が環境に優しいという扱いを受けていることが不可解でならなかった。しかも、使用済み燃料の保持は非常に困難で環境に排出されないように厳密な管理を行うことには膨大なコストがかかるはずなのに、火力や水力、太陽光等による発電と比較する際の原子力のコストにはこの後処理の費用が換算されていないという。いくら何でもそれはアンフェアというものだろう。



原発国フランスの対応


それでもどうしても原発を推進したいなら、このような事実を白日にさらした上で、万が一にも事故が起きないように備え、事故が起きた際にの対応も万全に備えるべきだろう。現にフランスでは原発事故が起きたら5分間サイレンが鳴り、付近の住民はドア/窓/換気装置を閉めることが周知徹底され、半径10km圏の住人にはヨード剤も配布されているという。 一方、日本ではヨード剤のことを(おそらく付近の住民も含めて)今回の原発事故で初めて知った人が多いはずだ。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110408-00000006-pseven-int



言霊信仰の国日本


私は今回の事故でつくづく日本が『言霊信仰』の国であることを再認識した。
言霊 - Wikipedia

どんなに安全を徹底しようと人の作ったものに絶対はない。だから、フランスで行われているように万が一の事故を想定して備えておくのが当然、という思考は福島原発関係者の間では働かなかったようだ。東電の社員も『危険』『危ない』などと口にしたら、よってたかってそんなことを口にしてはいけないと嗜められたのだろう。それでもやめない社員は出世街道から脱落し、権力から遠ざけられる。場合によっては会社に居づらくなって退職してしまったようだ。典型的に『言霊信仰』が浸透している。



ムラ統治


ただし、これは東電や今回の事故に関わる政府機関に限るまい。日本のどの組織でも普通に見られる現象だ。私自身も何度もそういう場面に立ちあってきた。東電や政府関係者が無責任で隠蔽体質が過ぎると酷評されているし、私もさすがに酷いとは思うが、あのタイプの経営者は自分の経験の中でも繰り返し目にしてきた。昨今の日本の組織トップの典型例と言ってもいいくらいだ。そして、東電がそうであるように、批判側にまわりそうなそうな人や組織は利害関係に巻き込むか徹底排除する。政府や地方政府にロビーイングし、地元には多額の補助金を供出する。官僚には天下り先を用意する。大学や研究機関には多額の研究費を供与する。マスコミには多額の広告宣伝費を支払う。そうして『ムラ』の平和は保たれ、だれもが『安全』と口にしてくれるようになる。そして『危険』と口にしようものなら、袋だたきにあう。繰り返すが、これは東電だけがそうなのではない。日本企業なら、多かれ少なかれ、泥をかぶりながらこのようなことを推進する貴重な社員を抱え、出世させている。これが典型的な日本の組織の『ムラ統治』だ



さすがにひどい


この『安全言霊信仰』の極地が、『プルトニウムは安全だよ!』とプルトニウムの安全性を説く『プルト君』のアニメだ。これは原発を推進するキャンペーンの一貫で、動力炉・核燃料開発事業団が作成したものだそうだが、さすがにプルトニウムを飲んでも大丈夫ということでプルトニウム溶液を飲み込む場面には、背筋が凍る思いがした。いくら何でもやり過ぎだ。国際的な批判をあびてすべて回収されたというが、外圧を借りなければ自分たちだけではこのような恐ろしい代物を回収できないほど、日本人の感性と判断力が麻痺していたことになる。

「プルトニウムは安全だよ!」と言い聞かせるプルト君が話題 | ガジェット通信



君子危うきに近寄らず


ことほど、日本の組織の『ムラ統治』は時として非常に恐ろしいことを是非思い出すべきだと思う。アメリカと戦争をやれば必ず負けると誰もが合理的には知っていたのに、戦争に突入させたのも他ならぬこの『ムラ統治』だったわけで、結果として広島と長崎の人々に大量の放射能を浴びせることになった。今またそれは福島の人たちに大量の放射能を浴びせようとしている。だから、従来の組織、従来の延長の組織体制、ムラ支配が残る日本的な組織体制のままでは、本来合理性と科学知識の粋を結集して運営してなお人知の手に余るような原発を扱わせるというのは如何にもこころもとない。科学の先端がまだ原発の廃棄物を扱いかねている現段階ではあえてこれ以上の深入りはしないと決断することこそ、『君子危うきに近寄らず』というものではないか。



イデオロギーとしてのエコロジーの危険性


ただ、原発を進めることが時期尚早だからと言って、今すぐすべての原発を止めろなどと言うつもりは毛頭ない現代の日本の全体像をつくってきた責任の一端は日本人の一人として私自身も逃れることはできないとも思う。エネルギーと文明のあり方を真剣に考えずに、しかも原発をいきなり止めることで起きるインパクトを考慮せずに極端な決断をするのは別の意味で責任ある態度とは考えられないからだ。先に引用させていただいた中沢新一氏が別のところでこう述べている。

イデオロギーとしてのエコロジーが自然を語る場合、ある意味で言うと技術を抑制するものとしての自然のイメージが全面に立ってきます。これはキリスト教が科学を抑圧したのとよく似ている。どこまでも自由な知的探求を信仰でもって抑えるというわけですから。いま起こっている状況では、エコロジーとかつてのキリスト教が人間の知性に対して加えた抑圧とが、よく似通ってしまっている。

『日本人は思想したか』*1 P40


私もそう思う。地動説を主張したガリレオ・ガリレイを抑圧したローマ教会のような存在を現代に持ち込むようなことは大反対だ。そういう意味で私は反技術に組するつもりは毛頭ない。技術悲観主義でもない。現段階での実用化は時期尚早だとは思うが、技術を改良して問題をすべて解決すべく原発の研究に取り組む有為の研究者が自由に研究を進めようとするならそれを止めるべきではない。



日本の役割と使命


技術開発について言えば、原発立地にそもそもあまり適さない地震国日本こそ、自然に還元できない廃棄物を出さない、太陽光発電等の徹底した研究/コスト低減等を目標に据えて、圧倒的な技術開発を行う事で再び世界を驚かせることこそ今目指すべきことではないのか。かつて日本の自動車会社は米国(カリフォルニア州)に当時絶対不可能と言われた自動車の排ガス規制を押し付けられながら、見事にこれを成し遂げて、その余勢をかって米国の自動車産業を制覇した。そのような栄光の歴史と先人の誉れを今こそ思い出す時ではないか省エネルギーで世界一と言われる日本なら、省エネルギーならぬ省電力社会をつくるための技術で世界一になることこそ日本にふさわしいと思うのだがどうだろうか。それはまた原発事故とその後の対応ですっかり世界の信頼を失った日本が再びプレゼンスを拡大し、しかも世界に貢献する敗者復活戦になるはずだし、そうなるよう奮闘すべき義務も責任もあると思う。

*1:

日本人は思想したか

日本人は思想したか