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日本で再び『夢』や『憧れ』を語りたい

前回のエントリー


前回のエントリーで、米国の消費者に新しい価値を創出した存在としての、アップル社のスティーブ・ジョブズ氏およびスターバックス社のハワード・シュルツ氏に言及したのだが、市場にそれまでになかった価値を創出することの難しさと、それが天賦の才に頼るところが大きくなってきている状況について述べた。そして、天才が社会に飛び出して活躍できるかどうか、社会の許容度の日米差について論考してみた。



日本ではもう新価値創造は難しいのか


だが、日本の新価値創造はどのようにすれば可能なのだろうか。特に「大きな物語」は終わってしまって、若者を中心に消費すること自体に背を向け始めているとさえ言われる今の日本の消費者を相手に、あらたな物語を語り、新価値を創造することは本当に可能なのだろうか。


この目的で、補助線となるべき素晴らしい考察を展開している本がある。マーケティングコンサルタント(元博報堂)の山本直人氏の『電通リクルート』である。

電通とリクルート (新潮新書)

電通とリクルート (新潮新書)



日本の消費者マインドの変遷


マーケティングというのは、広告宣伝、販売促進、プロダクト・プランニング等を総合的に含む概念であり、対象ユーザーによって使い分けていく。だが、取り敢えずこの中でも広告宣伝、特にテレビのようなマス広告宣伝に着目すると、高度成長期以降の日本の市場/消費者マインドの変遷を克明にたどることができる。



心の辞書の書換え


広告宣伝の役割が、人々の心の中にある「辞書」を書き換えること、という山本氏の説く定義は私自身まだ社会人として駆け出しのころに先輩から教わったことと符合する。(懐かしい!)本書で挙げられている歴史的にも名高い例からいくつか引用すると、あのころの広告宣伝の醸し出す熱気のようなものを同時に思い出してしまう。


サントリーの「金曜日にはワインを買いましょう」(1972年)


このキャンペーンでサントリーは二つの言葉の意味を書き換えようとしていたという。一つは金曜日。単に「木曜日の次の日」という意味に加えて、「ワインを買う日」という定義を増やそうとした。もう一つは「ワイン」だ。「ぶどうを発行させて作る果実酒」に加えて「金曜日に買って家で家族と飲むもの」という定義の付加を目論んだという。


結果、見事に成功して、サントリーはワインの販売を大幅に増やしたわけだが、加えて「ワインを家庭で家族と週末に飲む」という習慣/文化を日本に普及させたとも言える。当時生成されつつあった新しい「家族」生活への憧憬を刺激することにもなった。


この種の「心の辞書の書き換え」の古典的な例にはバレンタインデーがあるし、本書にも例として挙げられているが、JR東海の「クリスマス・エクスプレス」など、私もリアルタイムである程度覚えているので、当時の異様とも言える熱気を実感を持って思い出すことができる。

このような、広告による意味の書き換えの一つの頂点が、JR東海の「クリスマス・エクスプレス」だろう。身も蓋も無い言い方だけれど、新幹線自体は昨日までと同じように、東京と大阪を行ったり来たりしていたのだ。それが、一夜にして「恋人たちを結ぶ列車」となった。  JR東海は就職人気企業の上位にランキングされ、山下達郎の曲はクリスマス・ソングの定番となった。広告が新幹線の意味を変えたのだ。
同書 P34

広告宣伝が演出する『憧れ』


今やこんなことが実際に起きるなんて信じられないと感じる人も多いだろうが、当時の街はこんな魔法であふれていた。クリスマスは恋人達が二人で過ごす神聖な夜になったし、高額な『消費』が惜しげも無く行われていた。皆、広告宣伝にすっかり翻弄されて、胸いっぱいの『憧れ』と両手いっぱいのプレゼントを持って街に繰出した。広告宣伝と言えば、魅力的でクリエイティブな、芸術家の行う活動、という感じだった。広告宣伝マン自体、憧れの対象だった。


中でも自動車は恋人達に無くてはならないアイテムだったから、数多くの魅力的で刺激的な自動車とクリエイティブの境地とも言えそうな広告宣伝が次から次へと現れ出ては消えた。そこでは考えられる限りすべての『憧れ』を表現しつくそうとでも言うかのように、有能なクリエイター達が技を競っていた。



『憧れ』の消失


ところが、山本氏も指摘するように、いつの間にかこうした広告は本当に少なくなった。今でも同種の試みは完全に失われたわけではないが、もう広告だけで心の辞書の書き換えを行うことは至難の業だ。少なくともかつてのような『憧れ』を喚起することはほとんど不可能になったと言っても過言ではない。自動車がまさにその典型であり非常にわかりやすい。今や自動車は憧れではなく、よくも悪くも「現実」そのものだ。

どのCMも現実に対して正直なのである。そこには承認された嘘も無ければ、憧憬もない。クルマってそういうもんだよね、というある種の見切りがある。


94年の一連の広告は「ありそうな現実感=リアリティ」を描くよりも、「そこにある現実感=リアリティ」を描くよりも、「そこにある現実=リアル」を描くようになった。それは、人々が消費という行為やそこから得られる満足に対して「この程度のものだろう」という「見切り」とつけ始めたからではないだろうか。そして、自動車という「消費の王様」が、真っ先に自らを「見切りの対象」として位置づけ直してしまったのである。
同書 P154


戦後日本の生活者の『夢』や『憧れ』が盛り上がり、ピークに達し、燃え尽きて萎んでいった様が、広告宣伝の推移を見ていると写し鏡のようにわかる。本当にある種の感動を覚えるほどだ。



さらにシニカルな若年層


もっとも、自動車離れを指摘される若年層は、このあたりの事情はもう一段複雑で根深いのかもしれない。物語は終わり、目標とできる対象が次々と崩壊していく中、参考にできるロールモデルも無いのに自分探しを強要され、彷徨に次ぐ彷徨のあげく、結局挫折してしまったのだ。彼らのシニカルさは他の世代に倍するものがあるのは当然だろう。曲がりなりにも『憧れ』が喚起した消費を多少なりとも味わった自分たちより上の世代と違って、受取るものが何も無いままに煽られるだけ煽られた上で落とされた彼らの冷えた心の辞書を書き換えるのは、如何に有能な広告宣伝マンといえども至難の業だろう。しかも、正社員にもなれず、将来設計一つできないのでは、どんな物語を語ればいいのか途方に暮れてしまうはずだ。


そうしているうちに、インターネットの波が押し寄せ、彼らを電脳世界に取組んで行く。消費においても「合理性』が支配し、自ら情報を取捨選択する側にこれほど便利なものはない。もはや他人に自分の心の辞書を書き換えてもらう必要などないかのようだ。インターネット広告の将来を語るにあたり、その表現力の向上とともにインターネット広告においてもかつてのTVのような表現力とクリエイティビティ溢れる広告が増える可能性を説く向きもあり、私もその一端の可能性を感じない訳ではなかったが、こうして考えてみると事態はそう単純ではなさそうだ。



それでも人はおとぎ話を望む


ただ、山本氏によれば、物語の時代は終わり、消費を合理性が支配するようになっても、それでも人々はおとぎ話を望んでいる、という。

広告は徹底してリアルな情報を整理して、人々に届けることが使命となりつつある。しかし、気の利いたクリエーターであれば、実は人々がおとぎ話を望んでいることを知っている。だとすれば、価格や新モデルの情報をおとぎ話のフレームに包んで届けてやればいい。それをうまく仕上げたのがソフトバンクの「白戸家の人々」であり、トヨタの「子ども店長」なのである。どちらのCMも、憧憬は存在しない。メッセージは価格などのリアルな情報である。ところが、CM全体の構造はおとぎ話になっている。
同書 P168

近代以降の日本の夢と憧れへの幻滅


この見解が正しければ(正しいと私も思う)、日本の消費者は物語自体に興味がなくなったのではなく、従来語られてきた物語に嫌気がさしたということになる。バブルが煽った「憧れ」の陶酔や、自分探しが煽った「夢」は、もう見たくもない、向き合いたくない嫌悪の対象になってしまっているということだ。だから、それとは関係ないファンタジックな物語等は今も求められている。


おそらく、ナイーブな戦後民主主義という物語り、さらに言えば、世界の一流国に追いつけ追い越せという近代日本の物語りまで遡って、すべてまとめて幻滅し振り返りたくないトラウマと化してしまったのではないか。近代日本に生まれた夢と憧れにすべて幻滅してしまったのが、今の日本人であり中でも若者なのだろう。そう考えれば、宣伝広告における徹底したリアルか、現実を忘れるファンタジーはとりあえず廃れていないことにも納得がいく。



大変革期の『夢』や『憧れ』


このような事実をあらためて振り返ると、「今の日本人からは夢も憧れも消えてしまって、もうそれを喚起することはできない」とする意見はやはり結論を急ぎすぎているのではないかと思える。むしろ、あまりに強く憧れた結果裏切られたために幻滅の底も深いとはいえ、それは近代日本という架空の現実に積み上げられた『夢』や『憧れ』だからであって、今生起しつつある、世紀の単位で語るべき大変革の時代のあらたな『夢』や『憧れ』が始まるまでの過渡期がまさに今の時代なのではないか、ということだ。とすれば、大変革の時代の本質を理解したビジョナリストには再び夢や憧れを語ることができる時代がもう目前に来ているという見方もできるはずだ。



シニカルな近未来像


もっとも、物語の終焉というのは、日本にだけ起きている現象ではなく、「後期近代」と定義される時代に突入した先進国に共通しているというのが定説とされている。この果てにある近未来像の一つが、作家の橘玲氏の最近のブログで語られている。

私の理解では、伝統的な政治空間(共同体)はグローバルな貨幣空間に侵食され、「家族」という最小の共同体まで解体されていく(家族が失われれば、あとは裸の個人が残っているだけだ)。その先にあるのは、砂粒のようなばらばらの個人が電脳空間でつながるまったく新しい社会空間かもしれない。
ぼくたちが望んだ無縁社会

想像力/創造力の欠如?


この未来像で語られるように、伝統的な「家族」の物語は終わりつつあることは確かだが、電脳空間でつながる新しい社会空間に夢や憧れが無いと言い切るのは、単に新しい社会空間を見通すビジョンと想像力/創造力が足りないことの証明でしか無いのかもしれない。機械に支配され、人間が機械のようになってしまう、シニカルな未来像を語る人も多いけれども、それこそ、想像力/創造力の欠如を先に問題にすべきではないか。簡単なことだとは思わないが、人間の文化の営為というのはそもそもずっと昔からこれを繰り返してきた。貧困な語り部には出る幕はないが、想像力/創造力溢れる才能には無限のキャンパスが広がる時代とも言えるはずだ。



再び物語りたい


昔の夢にしがみつかず、勇気をふるって未来の夢を再構築するべきだ。冷えた若者の心を相手に『夢』と『憧れ』を喚起する物語を語るべく、再び立ち上がるべきだ。自分自身をそう鼓舞する自分に最近気づくことがよくある。そしてそう考える私の見解に賛同いただける人も少なくないと信じている。