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当代最高の禅師?内田樹氏の公案に打たれてみてはどうか

禅の公案


臨済宗禅宗)の修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題は『公案』と呼ばれていて、ほとんどが普通の常識や論理では答えられないような(解答が見つからないような)ものばかりだ。部外者にとってはまさに『禅問答』、わけがわからない問答と言える。例えばこんな調子である。

隻手声あり、その声を聞け。(両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのかそれを報告せよ。)


江戸期に活躍した、臨済宗中興の祖と称される白隠禅師が修行者の前で問うた、『隻手の声』という有名な公案だ。論理的に考えればそもそも片手では音がしないはずなので、まったく解答の糸口がない、初めから答えのない問いかけということになるだろう。だが、公案は論理的な解答を求めることが目的ではない。むしろその外に出ることを目的としている。



時代の求めるツール?


言葉や概念を使って対象を本来不可分な全体から分離して、独立的かつ分析的に考えて問題を解決しようとするのは現代人(近代人)の性のようなものだが、そもそも言葉や概念自体に問題がないのか、全体から分離したこと(=分離した部分意外は無視していること)そのものに問題はないのか。昨今のように、最も疑うべきは『常識』であるような時代には、意外に重要なツールなのではないのか。



まるで公案のような内田樹氏の問いかけ


今やブロガーとしてもすっかり著名な存在になった内田樹氏のブログやエッセイを読んでいると、まるでこの『公案』を次々に投げかけられているのではないかという気がしてくる。私のような浅学の徒にしてみれば、浅はかと薄々気づきながらもしがみつくしかない論理や旧態依然とした常識を全く無化するかのような飛躍的な問いかけ、それはまさに『公案』としか言いようがない。駆け出しの禅の修行者のごとく、圧倒的な存在を前に自らと自らがしがみつく固定観念のあまりの無力さに茫然自失するしかない。



典型的なトピック『教育論』


内田氏の関心領域は、深淵な哲学から漫画に至るまで広大だが、氏の議論が『公案的』に感じる典型的なトピックの一つは『教育論』だ。ベストセラーになった『街場の教育論』*1など次のような驚くような『問いかけ』であふれている。

「教育について熱く論じるのは、よくない」ということを熱く論じている本なのであります。(変な本ですね。)「政治家や文科省やメディアは、お願いだから教育のことは現場に任せて、放っておいてほしい」というのが本書が申し述べるほとんど唯一の実践的提言です。同書P2

文科省も要らない、教育委員会も要らない、親も要らない。むろん、地域社会も教育の必要条件ではありません。(中略)メディアも要らない。 同書P38〜39


教育の重要性は常日頃から感じていて、それゆえに『誰もが無関心にならないで、それぞれの立場で真剣に考え議論を交わすべきだ。』というような考えを漠然と抱いていた私など、いきなり頭をガンと殴られたようなショックを感じたものだ。では、どうすればいいのか?



低下した学力


昨今の教育が問題だとする人たち(私もその中の一人ではあるが)が教育の成果を嘆く理由はおそらく大方同じだと思われる。いわゆる『学力』が目に見えて落ちてしまったことだ。以下は多少古い事例になるが、今でも同種の事例は少なからず耳にする。

中学生の半数近くが「円すい」と「三角すい」を混同し、小学生では、子孫(しそん)を「こまご」と読んだり、小4の半数がかけ算のひっ算ができない。

http://focus.allabout.co.jp/contents/focus_closeup_c/1447/66165/index/?from=dailynews.yahoo.co.jp


記事ではゆとり教育の問題とするニュアンスがあるが、それだけの問題ではないことは(もっと根本的な問題があることは)、皆薄々感じるようになってきている。そして、基礎学力がこれだから専門知識なども残念ながら国際市場で戦う企業戦士予備軍というにはほど遠い。(興味深いことに、学力の国際比較でみると、2006年くらいをボトムに若干の歯止めがかかったように見える。だが、今でも学生の専門能力/知識が上がったようには見えない。 図録▽学力の国際比較(OECDのPISA調査) )



教育にも持ち込まれた市場原理


しかも2000年代というのは、市場でのグローバルな競争を誰もが意識させられた時代だから、『市場で勝てる人材』『専門教育重視』『儲からない学力より儲かる学力を』というようなスローガンが飛び交っていた。どの領域でも市場の自由競争が強調され、当然の結果として、教育にも市場原理と競争を持ち込んで成果を上げるべき、というような意見が燎原の火のごとく広まった。


だが、内田氏の議論はここでも、強烈なアンチテーゼに満ちている。

教育を「商品取引」に類比して語るのは教育の自殺です。同書P61

競争を強化しても学力は上がりません。少なくとも、今の日本のように閉じられた状況、限られたメンバーの間での「ラット・レース」で優劣を決めている限り、学力は上がりません。下がり続けます。 同書P108

ベースにある裾野の広い人間理解


内田氏の教育論をここで解説しきるのは私の力量では相当骨がおれそうだ。だが、これだけは言える。氏の議論の背景には、裾野の広い人間理解とそのための人間観察がある。


教育に市場原理を持ち込もうと考える多くの人に共通する問題点は、人間の様々な能力や可能性や感受性の裾野のほとんどを無視し捨象して、物的生産効率を上げるために機能する部分を狭く限定して独立的かつ分析的にしか考えていないことだ。その結果としておこったことは私も普段から感じている『大問題』なので、内田氏の議論に大いに賛同するところなのだが、能率をあげようとして最も大事なものを毀損してしまったように思えてならない。学生が学び考える意欲をなくしてしまったのだ。さらには、本来教育の成果の一つとして欠かせないはずの、他者とのコミュニケーション能力を決定的に弱くしてしまった。急がば回らなければいけなかったのに、近道を焦ってかえって道に迷ってしまったようだ。このように説明すると、私が内田氏の問いかけが公案と感じられた理由に多少納得が行ったのではないだろうか。分析より全体性の把握が必要な局面では、狭い論理や分析が仇となることは少なくない。



教育論の本質


内田氏は教育論の本質について次のように語る。

「こことは違う場所、こことは違う時間の流れ、ここにいるのとは違う人たち」との回路を穿つことにあるからです。「外部」との通路を開くことだからです。同書P40


産業革命期に過酷な労働に苦しんでいたイギリスの子供達が学校に行けたならどう考えるだろうか。経済社会で成功して他の子供を収奪酷使する立場になるために機械工学や金融を学機械工学や金融を学んでぶことを望むだろうか。


内田氏は違うと断言する。

彼らはむしろ歴史や外国文学の方に惹きつけられるんじゃないかと思います。(中略)自分たちの上に大気圧のようにのしかかっていた価値観、そういうものにはうんざりしているので、できることならそれとは「別の人間、別の社会、別の価値観」に触れたい、というのがつらい目に遭ってきた子供たちのいちばん自然な願いではないでしょうか。同書P41


これには反対する人も少なくないとは思うが、最近の若者を見ていると、学習すること自体を潔しとしない価値観、頑張ることより願望のほうを捨ててしまうような傾向など、いわゆる『合理的経済人』とはほど遠い行動特性がそこら中で見られるようになってきている。少なくとも、今までの狭い論理と人間観に閉じこもっていては理解できない現象だと思う。そもそも学ぶ意欲自体をなくしてしまった若者が本当に多い。鳴り物入りで登場しながら(内田氏の予想通り)見るも無惨な状況になっているサイバー大学などのコンセプトもこの機会に読み返してみると、内田氏の指摘が身にしみる思いがする。



教育論だけではない


今回はたまたま内田氏の、それも教育論に限定して例に引いたが、実はそれはほんの氷山の一角、ただの代表例に過ぎない。日本でも世界でも、どの領域でも、今起きていることを理解しようと思えば、すっかり古びてしまった価値観や常識から一旦離れて、全体性を取り戻して真摯に取り組むしかないことを痛感する。それほど根本的にやり直さないと、もうほとんどすべての社会現象に太刀打ちできない地点まで来ていると思う。具体的な議論は後日また取り上げるが、環境問題や外交問題等、今の日本ではまるでもう誰も解けなくなってしまったかに見える難問も同様に対処するしかないと考える。まず、よってたつ論理や常識が発生した時点、それ以前の時点に立ち戻ることが不可欠だ。そのためにも、まずは、『内田禅師』の公案に思いっきり打ち飲めされてみることをお勧めしておく。

*1:

街場の教育論

街場の教育論