非合理排除の経営

エコノミスト誌の日本特集


前回、日本の人口推移と経済のことをテーマとした、『デフレの正体』*1についてエントリーを書いたわけだが、ちょうどタイミングよく、英国のエコノミスト誌の一連の日本特集記事が出て、この人口問題を真っ正面から取り上げ、大変話題になっている。論調は日本に非常に手厳しく、容赦がない。昨今言われる日本『ガラパゴス』論は、ガラパゴスどころかこのままでは『イースター島』になりかねないとまで断じている。

中国はガラパゴスで、日本がイースター島 世界第2位、3位の経済大国が向かう哀れな結末 | JBpress(日本ビジネスプレス)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4920
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4907
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4895



現実を直視する人たち


池田信夫氏等、日本の論客も本件を取り上げ始めているが、私の周囲でもこの記事を読んでいる人は少なくない。その中には、今の日本には乗り越えることが非常に困難な壁があること、単純な景気循環論で楽観的な将来像を描くことが非現実的であること等を、いやいやながらでも認めて、現実的な対処を模索し始めている人は確かにいる。



不都合な真実』から目をそらす人たち


だが、正味のところ、『不都合な真実』から目を背けずに自らの行動を変えて行こうとする人はやはり少数派で、大多数は真実/現実や『合理的な思考や行動』から目を背けていると言わざるを得ない。しかも、その『多数派=現実から目を背けて不合理な行動を続ける人』の区分は、教育とか収入や社会的地位等とは基本的には関係ない。現実が見えないから行動がおかしいというわけではない。現実が見えてなお、その現実を現実として認識せず、自分の仮説/思考/行動を変えようとしない人が多いのだ。



合理より非合理が支配する世界


思わず、『人々は合理的なこと、自明なことに、必ずしも従うわけではない』という近代社会学の共通前提を思い出してしまうが、日本の場合、その上に『空気』の支配という厄介な現実もある。人口問題に限らず、事実に気づいて会社の同僚や上司に語っても、それが如何に正しくても(時として正しければ正しい程)、合意を得たり、施策を変更したりすることが非常に難しい。(社会人経験が長い人なら誰でも経験則として知っているはずだ。)人は非合理な判断をする。だからこそ、特に日本の会社では、『体育会系宴会社員』はずっと重宝されて来た。



非合理が会社を潰す


会社を経営する側から見ると、これは大変由々しい問題だ。折角事実を突き止め、合理的な、『取るべき施策』にたどり着いていても、それが実行されるとは限らず、おかしな空気が支配していれば、とんでもない決定がなされてしまう。いわゆる日本的で、日本人にとって居心地のよい会社ほどこういう『非合理』だらけとも言える。もっとも、日本に支店を持つ外資系企業であっても、個々の社員のプライドや勢力争いが、本来の企業としての合理的な判断や行動を妨げている事例におめにかかることは本当に多い。会社の資産に余裕があるときは、その会社の『伝統』とか強弁してやり過ごすこともできるが、昨今のように大不況で経営が行き詰まる寸前だったりすると、不合理は不合理としてはっきりと浮かび上がってくる。だが、その不合理を正そうとした頃には、『時すでに遅し』であることが多い。



『非合理』を徹底的に排除する会社


私が最初に奉職した自動車会社は、一度は『日本一の企業』とまで言われるところまでのぼりつめただけあって、このあたりの『非合理』の排除が徹底していた。社内のオフィシャルな情報のやり取りは、全て『事実』に基づいて行うよう新人のころから繰返し教育された。もちろん、客観データの提出も厳密に求められたものだが、そのデータも、出所、入手時期、入手経緯、ソース等あらゆる面で徹底的に調べ尽くす必要があり、質問された時にすぐに答えられなければ、ひどく叱責を受けたものだ。データがない場合でも、論理の厳密さの検証はそれは厳しかった。可能な限り一次情報、現場の事実を取得して、その事実にのみ基づいて論理を組み立てることが求められた。二次情報でごまかそうとすると、その怠慢を徹底的に追及された。



忌み言葉


曖昧さの排除は、言葉遣いにも徹底されていた。オフィシャルな場では決して使ってはいけない忌み言葉が沢山あった。例えば・・

 『一応』『取り敢えず』『今のところ』『〜だと思う』『まだ検討中』『当面』・・・

『仕事』という『宗教行事』


確かに、ここまでやろうと思うと時間もかかるし、時には人間関係をひどくぎくしゃくしたものにする。普通の日本人の集団に自然にできる雰囲気とはかなり違う。他とは非常に違った独自のカルチャーができ上がっていて、なればこそこの違和感と強い緊張感のある『仕事』という一種の『宗教行事』が成り立っていた。これはもちろん自然にできたものではない。意図を持ってしかける側の人たちがいたし、システムがあった。まさに経営の産物と言える。



事実の元の平等


その後あの自動車会社を出てしまうと、窮屈でイヤだったあのころのことも客観的に見ることができるようになる。尖って切れ味鋭い『事実』は時に周囲との人間関係にも容赦なく傷をつける。仕事の成果はあがっても、職場が殺伐としてしまうことも少なくない。だが、仕事であるからにはこんなことは当たり前と当時は考えていたものだ。ところが、違う会社に入ってみると案外そうでもない。むしろ、『人間関係をおかしくしてまで得る仕事の成果など不要』という不文律があったりする。今となっては、このようなぬるま湯に時として耐え切れなくなることがあるから不思議だ。結局、このぬるま湯こそ、『なれ合い』、『談合』、『派閥』、『不合理な経営』の温床なのだから当然なのかもしれない。『事実』にこだわることは大変だが、『事実の元の平等』『可視化された公明正大さ』があったことは確かだ。若手のモラルも全然違うから、彼らの目の輝きも明らかに違っていた。



私のミッション


時代は変わって、今の時代にはあのような仕事の進め方には、様々な問題点も出て来ていると思う。さすがにスピードの前に多少の厳密さを加減したりすることもやむをえないことはあるだろうし、パートナーとの公平な関係を作る上では自分たちの正義ばかり押し付けているわけにもいかないだろう。だが、あの会社が追求しようとしていたコンセプトは時々思い出す価値はあるし、それは、歪んでしまいがちな自分のバランス感覚を取り戻すためにも重要だ。あの頃に学んだエッセンスを生かしながら、今の時代に最適なやり方を見つけることこそ、私自身のミッションであり、後の世代に伝えるべきことだと思う。

*1:

デフレの正体  経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

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