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コミュニティの進化と社会の進化

日本に鎮座する巨大な『不安感』


今の日本に改革が必要であることを否定する人はほとんどいない。今のまま変化しなければ、もはや日本が持たないことも知識や情報のレベルでは知っている人は多い。だが、一方、誰もが自らの身辺に変化が及ぶことを嫌がっている。本能的な拒否反応と言ってもいい程に恐れている。このギャップの背後には、どうやら巨大な『不安感』が鎮座している。この不安感ゆえに、日本ではあらゆる改革は進まず、本来最も豊かなはずの中高齢層の消費も進まない。団塊世代が引退すれば、巨大な消費母体となるというのも幻想であることはすでに明らかになりつつある。



『コミュニティ』という大問題


今の日本に蔓延する不安感解消のためには、すでに繰返し語られるように『年金』『医療』等の制度改革は必須だが、ある意味で、それ以上に危急の課題は『コミュニティ』の再構築だと思う。前回のエントリー中で書き切れなかったこの『コミュニティ』の問題ついて、今回はまとめて書いておきたい。これは、中高齢層の最大の問題の一つであると同時に、若年層を含む今まさに目の前にある『日本の大問題』だと思う。秋葉原の連続殺傷事件等でも話題になったごとく、『コミュニティ』崩壊ゆえに日本人は暴走し自殺する。そこまで行かずとも、失業や資産の目減りを、諸外国と比較しても過剰な程恐れる。



アノミーによる自殺』激増?


戦前の日本では、天皇を中心に据える家父長的な『家』の制度が、日本人のコミュニティとして機能していた。戦後はそれは解体されることになるが、代わりに企業集団が受け皿となった。形は変わっても基本的なマインドはほとんど何も変わっていない。だから、日本では大抵の企業は合理的機能集団というよりは、家父長的な扶養共同体である。極論すれば『宗教集団』だ。 それはまがりなりにも日本人の『連帯』を担保する器として機能していた。今それが解体しつつある。一方で彼らを受け入れるべき代替のコミュニティが事実上機能していない。(教会やサロンといったようなものはほとんど機能していない。) では、彼らの『連帯』への希求は一体どうなるのか。 このままでは、まさに、社会学の祖、デュルケムが指摘していた『アノミーによる自殺』(社会共同体との一体感の厚薄が、自殺率と相関関係があるという説)の激増が避けられないのではないか。



コミュニティが崩壊する日本


そうして、何らかのコミュニティの再興や活性化が不可欠、という文脈になっていくわけだが、残念なことに、これがすぐに立ち上 がってくるように思えないところに今の日本の危機の深さがある。家族も地域コミュニティも崩壊の一途だ。他国のような宗教コミュニティ形成も期待薄である。一般人の宗教に対するネガティブ・イメージの強さは並大抵ではない。既存の宗教ではなく、日本人が自然に持つ宗教観や宗教意識 に訴えることも、それほどうまくは行かないように思える。


例えば、日本では大多数が仏教徒ということになっているが、実のところ、あらためてあなたは仏教徒? と聞かれると違和感を感じてしまう人がほとんどだろう。ただ、そういう人でも、葬式があればお坊さんを読んで仏教式の葬式をするだろうし、普段はほとんど顔を併せたこともないような親族が続々と集まって来たりする。葬儀の段取りが悪いと説教されたりもする。いきなり自分が親族コミュニティに所属していたことを思い出す。お盆になればお墓参りに故郷に帰る人も未だに少なくない。


だが、最近、直葬と言って葬儀をしないか、非常に簡単に済ませてしまう人が増えているという。東京圏内では、実に20〜30%にものぼるというデータもある。少なく見積もっても20%くらいは直葬かそれに近い葬儀だと言われている。これはもちろん、昨今の経済格差拡大に伴う、貧困階層の増加が主要な原因の一つであることは間違いなかろう。だが、見過ごすことができないのは、簡素な葬儀自体に価値を感じている人が明らかに増えて来ている点だ。形式的でさほどありがた味も感じないのにやたらに高額な従来の葬儀に価値を感じないという気持ちは私にもよくわかるが、だが、それ以上に、葬儀共同体/一族への帰属意識が稀薄になっていると考えられるケースも少なくないのは注目に値する。


さらに進んで、『先祖代々の墓』『家』の墓に入ること自体をはっきりと忌避する人も増えて来ている。例えば、09年に冠婚葬祭の互助会「くらしの友」(東京都大田区)が団塊世代の女性たち(首都圏在住の59〜62歳の既婚女性)に葬儀観を聞いたところ、『自分の葬儀は宗教色のない花祭壇にお気に入りの遺影を飾り、夫の実家の墓には入らない』という意識が浮かび上がって来たという。(夫の実家の墓には入らない:36%)
葬儀観:団塊女性「自分らしく」 宗教色ない花祭壇、こだわりの遺影… - 納骨堂ネット


『家』『親族』というようなコミュニティには、前近代的な抑圧が伴うことは少なくないから、忌避したり嫌悪する人は実は昔から少なくはなかった。選択の余地なく従っていた人達が、自らの死を前に、せめて死後にはそのような抑圧的なコミュニティからは離脱したいと望んでいるということだろう。



『宗教集団』としての企業コミュニティ


企業コミュニティのほうも、右肩上がりの経済成長を前提にした、年功序列/終身雇用が維持できなくなって来た段階で、崩壊は進みつつある。だが、中高年層にとっては唯一と言っていい『連帯感』を感じることができる貴重なコミュニティだ。これが無くなってしまうと代わりがないことは皆わかっている。それどころか、日本企業は、個別のカルチャーを持つ『宗教集団』だから、自分の会社をやめて他の会社に行くことでさえ非常な苦痛が伴う。『改宗』が不可欠だからだ。そして『改宗者』は一段低く扱われることが多い。従って、自分の最初に入った『教団』のカルチャーから出たら生残ることができないというのは暗黙の共通認識と言っていい。実はこういう背景があるからこそ、『ゾンビ企業』と揶揄されようが、経済合理性がなかろうが、中高齢層(だけではないが)は企業存続(=カルチャー存続)自体に執着し、『改革』は強い抵抗を受けているとも言える。



圧力のコミュニティさえ無くなりつつある


少なくとも今までは、日本のコミュニティのほとんどは、個々人を束ねて集団を維持するために、『慣習や道徳の非人格的な圧力』が使われ続けて来た。その中にいると、『個』の自由は圧殺され、集団の成員でいることはしばし大変窮屈だ。個人の価値観や思想信条にまで、遠慮なく介入してくる。だが、それでも、集団の中にいる『安心感』『安定感』『連帯』を感じることはできる。逆に、この集団内で嫌われると、『村八分』という恐ろしい制裁が待っていて、これらを失うばかりか、生存さえ難しくなる。だから、今まで日本人は、この窮屈な圧力から脱して自由を得るか、個性を殺して安心感を得るかという究極の選択を迫られていた。だが、もはやその選択肢自体が無くなりつつある。



注目のインターネット・コミュニティ


そこで注目されているのは、インターネットによるコミュニティだ。日本を代表するSNSであるmixiの男性の年齢別構成比を見ると、さすがに40才以上は 18%程度だが、30才以上まで入れれば、40%まで跳ね上がる。遠からず、中高年と呼ばれる人達も、インターネットコミュニティーを利用することに今よりもっと抵抗が無くなって行くことが予想される。SNSで職場や近所などのコミュニティーの枠を超えた社交拡大の可能性もあり、使いようによっては、『救世主』となりうる潜在力を持っている。
図2-1●mixi、Twitter利用者の性年代別構成比



だが、コミュニティの場がインターネットであれ、『mixi疲れ*1が一時期大変話題になったように、『相互監視や義理コミュニケーションの圧力』がいつの間にか持ち込まれてしまうようだ若年層のメールコミュニティーにおける相互監視や返信強要圧力が堪え難い程の苦痛になっているという報告もある。中には誹謗中傷の場になってしまうケースも少なからず報告されている。最近では、はてなのコミュニティ設計思想が『性善説』で『楽観的』に過ぎて、あれ荒んでしまっているというというような指摘もある。何の制約や圧力もなく安心安全とはなかなか行かないようだ。
うごメモのはじまりで、はてなは終わる。 - ahaten is not hatena



まだ霧の彼方


こうして見ると、リアルであれバーチャルであれ、およそコミュニティと呼ばれる場では、『安心・安全・連帯』を得るには、『慣習や道徳の非人格的な圧力』を受け入れるしかないという選択を迫られてしまうという構図は基本的に変わらないように見える。インターネット・コミュニティでも、Twitterが誹謗中傷を生み難いクレバーな設計であることが指摘されるようになり、設計の工夫の重要性が再認識されている。だが、自由で気軽なコミュニティではあるかもしれないが、日本企業の社員同士のような熱い連帯感を求めることは難しいだろう。『コミュニティにあぶれた全ての人を包摂する理想的な受け皿』はまだ霧の彼方なのが実態だ。


では、どうすればいいのか。簡便な解答があるわけではないが、解決への端緒がないわけではない。



『閉じた道徳』と『開いた道徳』


フランスの哲学者、アンリ・ベルグソンの主著の一つ、『道徳と宗教の二源泉』*2に、『閉じた道徳』と『開いた道徳』という概念がある。この解説書として、池辺義教氏の『ベルグソンの哲学』より引用しつつ、論点を整理してみる。

人間社会にあっても、あたかも物体に対する重力の作用のように、個々人の意志を同じ方向へと傾かせて、集団を凝集させる力が働いている。(中略)ここに成立する道徳は閉じた道徳であり、その社会は閉じた社会である。(中略)その道徳は閉じた社会に必然的にともなう圧力に基づく道徳である。その点で、昆虫社会に相似的であると言える。(中略)今日の文明社会もまた閉じた道徳の支配する社会である。閉じた社会はその成員が互いに支えあい、他に対してはつねに戦闘態勢にある社会である。 同書 P33


先に述べて来た、日本社会、日本のコミュニティはまさにここで言う『閉じた社会』であり、個人を従属させる圧力に基づく『閉じた道徳』の支配する社会であることがわかる。(あまりにピッタリなので唖然として二の句が継げない。残念ながら、日本社会はまだ昆虫社会に近い?)


これに対して、全人類を包容する道徳があり、それは『開いた道徳』であり、その社会は『開いた社会』であるという。



開いた社会と開いた道徳の可能性

社会は個人を従属させるのでなければ存続できないにしても、個人を自由にするのでなければ社会の進歩・社会の前進はない。同書P33


閉じた社会においては個体に個性はなく創造性もない。開いた社会においては、『愛の躍動』があり、愛の躍動に基づく生は歓喜(joie)の生であり、それに対して圧力の道徳(閉じた道徳)に基づく生は無事安易に日々を送る安楽(plaisir)の生だという。確かに、日本は典型的に『閉じた社会』であり、『閉じた道徳』が非常に強い圧力を奮い続けていると考えられる。安楽の生はあっても、『愛の躍動に基づく歓喜の生』にはほど遠い。正直なところ、これは私にも想像すらできない境地ではあるが、少なくとも精神的な意味での人間や社会の進化がなくては、日本はもうどうにも先に進めないところにいることはわかる。日本社会はテクノロジーのおかげで、身体だけはグロテスクなまでに膨れ上がったものの、あまりに弱体な精神は身体を持てあまりしている。この恐るべきアンバランスこそ、あらゆる問題の根源にあると言っても過言ではない。


では、ベルグソンは、閉じた道徳/社会から、どうすれば開いた道徳/社会へ移行することができると言うのだろうか。



優れた個人の人格力が鍵

開いた道徳は少数の選ばれた個人によってのみ切り開かれる。(中略)社会道徳は社会的圧力よるところの非人格的な道徳であるのに対して、人類道徳は憧憬に基づく人格的な道徳である。(中略)前者は圧力の道徳であるのに対して、後者は愛の道徳である。創造的個人は単にそこに存在するというだけで、他の人々を借って動かすことができる。同書P33−34


『優れた個人の人格力』が鍵というわけだ。私もこれは全面的に同意する。そして、そうであればこそ、今の日本にも生きのびるチャンスがあると考える。


システムとしてのインターネットは、器としての進化は目覚ましいものがあるが、それだけではコミュニティの進化は望めない。だが、これに『優れた個人の人格力』という魂が宿れば、非常に大きな影響力、変革の力を生む可能性がある。これは、米国のオバマ大統領が可能性の一端を見せてくれたように思う。『政治センスがよく、クレバーで、優れた人格力』を持つオバマ氏がインターネットの力を最大限に利用した結果、熱いコミュニティが形成され、従来の常識を大きく超えた『オバマ大統領』が生まれでて来たことを今では誰もが知っている。(もちろん、その反対に、非常にネガティブだが煽動力がある、アドルフ・ヒットラーのような人物が出てくると恐るべき影響力をふるう可能性もあることは忘れてはいけない。)


方向性に迷いはない。ただ、これをどう実現していくのがよいか。もうひと頑張りして、知恵を絞る必要がありそうだ。