読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日本のWebサービスが世界を席巻する日


WISH2010


先々週の土曜日(8月28日)、AMN等の主催で開催されたWISH2010を覗いて来た。私にとっては久々のイベント参加だったのだが、大変面白くまた刺激を受けた。グリーの田中社長やmixiの原田副社長らのパネルディスカッションでのお話も大変興味深かったし、Webサービスのそれぞれのプレゼンテーションも大変意欲的なものが多く、沢山元気を頂いた。Webサービスに関わる関係者に(微妙ではあるが)マインドの変化が生じていることを感じることも出来た。

http://agilemedia.jp/wish2010/0902_01/


早速、パネルディスカッションでのお話に関する簡単なレポートを書いておこうと思ったのだが、審査員にジャーナリストが多く含まれていたこともあってか、早々に非常に整然と、しかもコンパクトにわかり易くまとめられた記事が沢山出て来たので、あらためて自分が何か書くことについて少々躊躇してしまった。そうしているうちに、忙しさやちょっとしたプライベートのトラブル等もあって、そのままになってしまっていた。


ただ、折角、面白い『観点』を教えていただいたこともあるし、何よりこのパネルディスカッションのタイトルが刺激的だ。『日本のウェブはいかにして世界を目指すべきか』というのである。私自身この数年来考えて来たテーマでもあり、記録を残しておく意味でも、やはり自分でも何か書いておこうと気をとりなおした。



Webサービスで成功するには


日本企業は、自動車や電気製品では世界を席巻することができた。だが、サービス、中でもWebサービスでは、世界での本格的な成功例はまだないし、もの言わぬ製品ではその製品自体の技術的な優秀さや品質の良さ等に語らせることができたが、製品という実体がないWebサービスでは『文化』や『言語』『習慣』等の要素が関わらざるを得ず、成功のための『ウイニング・フォーミュラ』はまだ見つかっていないというべきだろう。そもそも海外どころか、日本国内でさえ、 Webサービスは、マネタイズという点ではやっと黎明期を向かえたばかりだ。確かに、『ソーシャル・ゲーム』という金鉱が見つかった日本のSNS各社の業績は急激に好転したし、関係者の鼻息も荒い。日本での成功をステップに海外を目指そうと意欲的でもある。だからこそ、今回のゲストパネラーがグリーの田中氏やmixiの原田氏だったわけだろう。


ただ、それでも、日本のSNSを代表するお二人にしても、海外進出については手放しで楽観しているわけではあるまい。海外を目指すべく勇敢に取組むプレゼンターや会場を埋め尽くした参加者にしても同様だ。原田氏が言うように、日本発であれ、良いサービスや成長期待が感じられるサービスには、西海岸の投資家が金を出す可能性はあるかもしれない。(これ自体、正直少々驚いた。喜ばしいことであるが、本当にそうなのだろうか。日本企業に要求されるハードルはすごく厳しいという先入観もあるのだが。もっと調べてみる必要があるし、調べてみたいと思う。)だが、『文化』や『言語』『習慣』等に関わらざるを得ないWeb サービスは、如何に日本の制作者が自信を持ってサービスを作り、日本人に大いに受けたとしても、海外でも受け入れられるかどうかはまた別の問題だ。海外進出を企図しているグリーにしても、海外でも汎用的に受け入れられる可能性のある、『ゲーム』が当面の主戦力だ。



文化なしではもっと厳しい


では、文化や習慣等のバイアスが最小限ですむような、ソフトウエアの技術的な優位性、プラットフォームの支配力等で勝負すればいいようなものだが、これは事実上、シリコンバレーの巨人(GoogleApple等)や優秀なベンチャー企業とガチンコ勝負になるわけで、大抵の日本企業にとってもっと勝算が薄いと言わざるを得ない。


もちろん、個々の参入者には、是非狭き門を突破して欲しいし、今後『文化』や『言語』の壁を乗り越えて成功するサービスもあると思う。そういうサービスには原田氏の言うように投資家の資金も提供されるだろう。そのためのアドバイス・ビジネスは、今後もっと盛り上がって来そうな気もする。だが、マクロで見て、本当に日本のWebサービスに勝算はありうるのだろうか。


私の意見は、Yesだ。日本人の文化、感性を海外にサービスとして持ち込んで成功することに十分に勝算はあると考えている。そう私が考える根拠は、月並みだが、日本のポップカルチャー(漫画、アニメ、ゲーム、映画、アート等々)が世界に浸透し受け入れられていること、いわゆる『クール・ジャパン』現象だ。いまだに日本人自身が戸惑ってしまうことも少なくないこの現象の構造を理解し、世界に受け入れられるエッセンスを自覚的かつ戦略的に表現できるようになれば、ここにも巨大な金脈が眠っていることは間違いないと考えるからだ。



『日本のポップカルチャーが世界で受け入れられる理由は何なのか。そしてそれは今後とも発展して永続していく可能性はあるのか。』


このことを語るのに、東浩紀氏編著の、『日本的想像力の未来 クール・ジャパノロジーの可能性』*1を参照させていただこうと思う。(この本は、2010年3月5日と6日に、東京工業大学世界文明センターで行われた国際シンポジウムの記録がまとめられているのだが、本当にキラ星のように重要な概念が散りばめられた貴重な文献だ。)この中で、宮台真司氏の講演録として『1992年以降の日本のサブカルチャー史における意味論の変遷』というパートがあるのだが、上記の解答として、これ以上ない、正鵠を得た一文だ。以下、ここから一部を引用する。

「なぜ、日本のポピュラーカルチャーがここまでポピュラーになったのか」理由はただ一つ。それは、現実の差異を、自己から無関連化する機能があるからです。こうした機能は、現実の差異が自己を脅かしがちな、流動的で複雑な社会では、とりわけ有用だろうと考えられます。だからこそ、日本以外の国々でも、現実の差異の無関連化機能ゆえに、日本的なポップカルチャーへのニーズが存在するし、今後もそのニーズが高まるのではないでしょうか。 (中略)


いわゆる「クール・ジャパン」のクールとは、簡単に言えば、この社会的文脈を無関連化する機能にあるのではないか。そこに焦点をあてて、人々が直感的に有用性を実感するからこそ、クール・ジャパンなのではないか。  同掲書 P208

『父性原理』と『母性原理』


欧米のキリスト教的な世界観では、とりわけ『善』と『悪』を明確にわけ、『悪』を徹底的に裁き、たたく。そこにあるのは、厳格で容赦ない父なる神のイメージだ。曖昧さが浸透する余地はない。いわゆる『父性原理』が主導的な世界/文化と言える。米国の文化は今では映画やテレビ等を通じて日本人にもすっかりおなじみになったから、この程度の説明でも、米国がまさにその典型であることに賛同していただける人は多いはずだ。そういう米国が押し立てる『正義』が、今では世界各国から疎んじられている。独りよがりで、押し付けがましく、融通が利かない、そう受け止められている。当の米国人の間でさえ、さすがに反省する気運が生まれて来ている。これが『オバマ現象』の背景にあることは既に各所で指摘されて来たことだ。


日本の価値意識をこれに比べると、古来伝わる神話から、最近のサブカルチャーに至るまで、多くは『善』と『悪』は曖昧で、はっきりと決着をつけることを良しとしない。日本の昔話は、多くはおじいさん、おばあさんが主役だし、一見戦闘的な『桃太郎』でも鬼を殲滅するわけではなく、懲らしめているだけだ。あやまればすぐに赦す。(もっとも桃太郎のストーリーには様々のバリエーションもあって多少曖昧であることは一応申し上げておく)ユング心理学者の故河合隼雄*2が繰返し主張したように、日本は『母性原理』主導と言えるだろう。



普遍的な『オフビート感覚』


本書から宮台真司氏の表現を借りると、日本のサブカルチャーは、善悪二元論から距離をとる『オフビート感覚』が伝統ということになる。『ウルトラマン』では怪獣は悪ではなく、しばしかわいそうな存在だし、宮崎駿監督*3の『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』等の作品群にも濃厚に見られる傾向だ。

ジェノサイド(全殺戮)を嫌い、シンクレティズム(習合)を志向する構えです。<
中略> 善悪二元論から距離をとって共存可能性を志向する『オフビート感覚』が、日本の映画にも長い間とても強く刻印されてきたと感じます。同掲書P90


普遍性、という観点では、最近大変話題になったジェームズ・キャメロン監督の映画『アバター*4のモチーフにもこの『オフビート感覚』に近い感覚が主題にあって、しかも米国でも(世界でも)受け入れられたことでもわかる通り、如何に父性原理が強く主導する文化にあっても、いや、強いからこそ、善悪二元論の自明性が無化される需要が強くなることは十分にありうるということだ。多種に渡る民族や人種を抱え、強い緊張感に日々苛まされる米国だからこそ、ということもあろう。



世界に通用する巨大な可能性


この『善悪二元論からの距離』に加えて、『日本的未成熟』『日本の大衆文化の幼児主義』、いわゆる『子供っぽさ』が日本のサブカルチャーを特徴づけるものとされるわけだが、日本で大きな成功をおさめているWebサービスである、『ニコニコ動画』や『2ちゃんねる』をあらためてふり返ると、『社会的文脈の無関連化』や『日本的未成熟』の要素を濃厚に持ち、また、かなりシニカルな表現方式ながら、これが存分に表現されたサービスであることを感じることはできるはずだ。特に『ニコニコ動画』など、どんな人や物が現れても、画面中に大量のコメントが溢れてそこに本来存在する社会的な関係や文脈はあっという間に無化され、あるいは無関連化されてしまう。そしてすべてがフラットになる。


『正義』や『成熟』の観点から評価すると、まったく腐れたサービスにしか見えないかもしれないが、このように見れば、日本のWeb世界にも、潜在する普遍性が、非常に未成熟でわかりにくい形とは言え、胎動していることがわかる。梅田望夫氏が失望してしまった日本のWeb世界も捨てたものではないどころか、世界に通用する巨大な可能性が潜在しているわけだ。



けして夢想ではない


潜在するからと言って、Webサービスとして受け入れられるものが簡単に作れることを保証するものではない。洗練された感覚と優れた技術が同時に必要であることは論を待たない。まだこの領域からは、村上隆*5 *6のように、『日本的未成熟』を確信的に、洗練された美的感覚で普遍的な作品に仕立て上げる力量を持った世界的なクリエータが現れて来ていない。おそらくすべてはこれからだ。大転換のチャンスは大いにあると思う。


大変遠回りの説明になってしまったが、日本発の普遍的なサービスに十分な可能性がある、と私が考える理由を多少なりとも納得いただけただろうか。第二、第三の村上隆氏がWebサービス業界からも現れて、沢山の日本のWebサービスが世界を席巻している未来は、けしてただの夢想ではないと私は確信している。