創造力ある個人の出現なくして経済成長を語ることの欺瞞について

参議院選挙戦による議論


参議院選挙が近くなってきて、経済政策に係わる議論も活発になってきている。日本は2大政党制に舵を切ったはずなのに、なんと沢山の政党が思い思いに政策を語っていることだろう。しかも、政権政党である民主党も必ずしも一枚岩とはいかないようだ。そういう意味では、さまざまな対立軸が浮かび上がってきていて、一見大変にぎやかだ。

だが、よく中身を拝見していると、少々鼻白む気持ちにさせられる。どの政党を支持すればいいのか、そもそもこんなレベルの議論でどこを選べというのか、という気持ちにさせられる人は少なくないと思う。様々な議論があるようでいて、肝心なことはあまり語られない。というより、ますます本質的な問題が置き去りにされて、表層的な問題ばかりが取りざたされているようにしか見えないのだ。もちろんそれは、政治家とか官僚だけの問題ではない。ビジネスの現場にいても、近頃では、議論もそれを語る言葉もいかにも貧困と言わざるをえない。



『経済成長』に疑問を持つ若年層


すでに色々な人に何度も語られて、手垢がついた感じの議論ではあるのだが、やはりそれでもどうしても一言語っておきたくなる問題がある。『経済成長』についてだ。


若年層に『経済成長』を語れば(若年層だけではないかもしれないが)、『どうして成長する必要があるのか』『成長しなくても楽しく過ごせればいいのではないか』等、否定的な見解が出て来ることがすごく多いバブル崩壊からおよそ20年が経過しようとしていて、その間、GDP等の名目値を見れば、そこそこ経済は成長していたとも言えるわけだが、その果実は若年層にまわるどころか、実際には自分たちは一貫して収奪されて窮乏化してきたというのが実感だろう。崩壊したと言われて久しい年功序列や終身雇用も、団塊世代を中心とする中高齢従業員を守る『壁』としては今でも相当に機能していると言えるわけだが、それはあくまで『正社員』に限定されていて、そこからはみだしてしまうと、年々雇用条件は悪化し、将来設計もままならない。そのような『非正規社員』比率は若年層で特にうなぎ上りである。企業は、この労働コスト低減策により競争を生き伸び、それを合算した結果として、『経済成長』はある程度実現された。だが、その果実がまわって来た実感に乏しい若年層が、『経済成長』を肯定的に感じる理由はどこにも見つからない。むしろ、低い収入という現実を受け入れ、余計な欲望を持たずともよいような生活への対応力を身につけ、『低欲望社会』とでも言うべき状況をつくりあげつつある。



競争による成長は不可避とする年長者


一方で、年長者、政治家、官僚、経営層からすれば、かなり様相は違って見える。東西冷戦が終わって、資本主義社会へ参入する国家国民が急増し、新興経済勢力と言われる、中国やインド等の競争力の向上は目覚ましい。グローバルな競争に世界が組み込まれた現在、競争条件は劇的に厳しくなった。日本がその強みを発揮して外貨を稼ぎまくった製造業など、労働コストが低く、技術力の向上著しい新興国が台頭してきて、これに対抗するには、日本でも労働コストを下げなければ競争にならない。製造工場の海外移転と同時に、日本国内の労働コストの低減は企業が生延びる為には必須の条件であり、生き残りに失敗すれば、仕事がなくなり、日本の労働者は窮乏せざるをえないのだからその現実を受け入れるべきだ、ということになる。そして、ユニクロに代表されるような、海外の低い労務コストという条件を最大限利用して、日本国内に非常に安価で高品質な商品を提供する企業こそ、もっとも賞賛されるべき優等生で、これからさらに競争は激化するのだから、それに振り落とされないよう、若者も生きる残るためにどん欲で旺盛なマインドを持って経済成長に貢献するべきだ、というのが大方の意見と言っていい。



デフレスパイラル


若者は窮乏化し、将来への展望をなくし、働く意欲をなくし、欲望そのものもなくして、物を買わなくなった。一方、企業は労働コストを下げるため、リストラをすすめ、非正規社員比率を上げ、労働分配率を下げることで生き残りをはかる。労働者の賃金は低くなるから、ますます需要は減って行く。その環境で経済成長しようとするとさらなる労働コスト低減しかなくなる。比較的お金に余裕がある中高齢層も、若年層の数が減り、労働意欲をなくしている若年層を見れば、年金制度維持が風前の燈とも見えようから、蓄えを消費に回すことはますます考えなくなる。まさにデフレスパイラルの構図が見事なまでに出来上がっている。



抽象的な『経済成長』を語るむなしさ


このような状況下、『経済成長』という抽象的な概念だけが前面に出て来ても、『何がどう良くなるかわからない』、『合成の誤謬そのものではないか』、等の意見が出て来るのも当然とも言える。そうまでして勝つ競争の結果得るのもは一体何なのか。そもそも日本という国では、すでにさまざまな指標が示すように、生活の満足度は低く、働きがい/生きがいも感じられなくなっているのに、生残ることだけが目的で人はついて行けるものだろうか。



産業構造の変革こそ不可避


このような形で痛んだ経済と社会で、増税することに本当に問題はないのか官僚主導の、まるで戦後の成長期のような経済政策が成功するのか。どう見てもこのままでは難しいと言わざるをえない。今のデフレ構造の一番の原因は、産業構造を変えずに、新興国とまともに競り合うしかないような状態にあることだ。かつて自動車王国だった米国が、経済の主力を自動車からIT産業にシフトして再生して行ったような構造改革が日本でも実現されなければ、労働コスト低減競争に日本が生残れるはずもない。すでに歴史的な役割を終えているような産業、企業を政治的に温存するようなことで、どうやってデフレ構造を脱却できるというのか。官僚機構も、企業も、政治も、構造改革なしにはこの『敗北のフォーミュラ』を抜出すことはできはしない。IT利用は官僚機構でも企業でも、世界で最も遅れた部類に入ってしまっているのが今の日本だ。企業も多くは老人支配の下、現状の体制を温存することに執着して、低付加価値な構造は温存される。こんな状態でどうやって高付加価値事業を生み出すことができるというのか。



強い個人の出現こそ鍵


今本当に必要なのは、若者に限らないが、優れた個人の圧倒的な創造力/構想力/実行力だ。過去にないものを生み出す強い個性だ。社会の未来を語る哲学と理想だ。それだけが、痛んだ経済と社会を再生する可能性を託せる力だ。前回の私のブログエントリーで述べたように、佐々木俊尚氏はITを力の源泉としてそういう強い個人であれと言い、楽天の三木谷氏は、英語を武器として国際的に渡り合える個人であれと若者を鼓舞しているように私には思える。それは、古い組織に執着したまま、補助金やバラマキで経済成長を、というような欺瞞に満ちた物言いとは一線を画すものだ。武器を手にして、組織を当てにせず、個人として立ち、創造力と活力のある社会を取り戻そうという意見に一人でも多くの意欲ある若者が賛同してくれることを期待しているわけだ。



歴史観と哲学


IT、英語に加えて、私が是非加えて欲しいと思うのは、歴史観と哲学』だ。なぜなら、今何より必要なのは、従来の社会の価値観に疑問を抱かず埋没する旧来の優等生や善人ではなく、それに疑問を持ち、新たな価値観を切り開く『狂気』にも似た個人の出現だからだ。これこそ時代の要請だと考えるからだ。政治の一番の役割はこういう個人を一人でも多く現出させ働くことができる環境をつくることだと思う。願わくばこういう意味での自覚と開き直りが選挙を機に広がって欲しいものだ。