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自分をいつも一個の『動態分析装置』としておくこと

消費をしない若者


昨今の若年層の消費離れ、特に自動車等の耐久消費財離れの傾向は、短期的/一時的なものではなく、中長期に渡る構造的な現象であると考えざるを得ない。その兆候は各所でますます顕著になりつつある。世界的に見ても、今回の不況の発信源となった米国ではもちろん、リーマンショック後の今でも世界の経済成長を牽引する中国でさえ、『消費しない若者』の存在が指摘されている。

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記号的な消費


食欲等生理的な欲求が満たされた先進国では、商品の使用価値よりも記号的な消費に移行して行くことについては、日本ではいわゆる『現代思想』が大流行した80年代初めごろから盛んに喧伝されたものだ。その後時代はバブルに突入し、記号自体も際限なく膨らんで終いには蕩尽してしまった。ただ、使用価値を超えた記号消費という意味では、その原則は基本的には今でも変わらない。経済成長一辺倒の時代よりも今のほうがある意味もっと複雑なコードの解析が必要な時代になって来ているとも言える。


かつては消費者のライフサイクル/パターンは比較的はっきりしていた。帰属共同体も(会社共同体を含めて)ほぼ固定化していた。この固定した共同体の共同幻想の中での立ち振る舞いは半ば強制的なものも少なくなかった。文化コード、消費コードも大方決まっていて、人々が感じる幸福感もほぼパターンが決まっていたとさえ言える。そして、その幸福のシンボルとして商品があった。だから本人が属するグループ内では、欲望のパターンにほとんど個人差がなかった。

このような消費社会では、年齢、年収、性別、地域、階級等による消費者グループによる括り(マーケットセグメント)や、競合商品グループとの生態的な競合力分析等が実に効果的だった。だが、共同体が解体され、TV等の巨大メディアによって提供される共通の話題もなくなり、個々に分断された島宇宙化してきている現代では、こういう手法自体が陳腐化している。


かつては、人々は自分の属するグループの持つ価値観に強い影響を受け、ライフサイクル(入学→就職→結婚→子供の誕生等)に応じた消費のパターンによって、いわば欲望を強要されていた。これに伴う儀礼的な消費も確固たるものがあった。帰属するグループが違えばほとんど気にならないのに、帰属するグループ内では、微細な差異も意識過剰になり、商品(自動車、電化製品、住宅等)という記号によりグループ内で自分の力や能力を見せびらかし、そのことで自分自身のアイデンティティーを確認する。その記号的な差異が過剰に強調され、しかもそれが消費とダイレクトに結びついたのがバブル期ということになるが、この社会構造が残存している限りは、マーケットトレンドの変化や消費性向の変化等を分析し把握することはさほど難しい事ではなかった。欲望を喚起する法則も明確で、景気による上下変動はあるにせよ、法則そのものが変わることはなかったと言っていい。



社会と個人との関係の変化


帰属する共同体がなく、共通する価値観がないとき、いわば、自他の差異を感じることがないとき、消費に対する欲望はどうなるのだろうか。もちろん、試験管の中のような完全に差異がない状態という理論空間は現実には存在しないだろうが、少なくとも今本当に問われる必要があるのは、ここのところだろう。日本の『消費しない若者』が増えている原因として、昨今の不況や一時的な流行としてのエコ等による節約志向があることは間違いないが、耐久消費財のようなものが全般に欲望されなくなったり、飲酒をせず、旅行もしなくなっているようなマクロ現象の背景には、やはり社会と個人との関係が大きく変化したことがあると思う。


『草食男子』『半径1m以内で生活したがる若者』『出世に関心のない若者』等、いわゆる大人の側が若者に貼るレッテルは、あきらかに大人の側の価値観で若者を判断しているから、それ自体多分にネガティブだ。少なくとも、大人の側の困惑やとらえどころのない苛立ちがありありと感じられる。大人の側から見ると「立身出世」「旺盛な消費」「独立自助の勤勉な労働」というありかたが、「国家の経済成長」「経済成長の成果としての高福祉」「共同体からの承認を通じた自己実現」という成果に繋がっていくから、現状の若年層に対する失望感は強いし、場合によっては倫理的退廃とまで断じる人も少なくない。しかしながら、これを若年層から見れば、誤解もいいところだろう。中高年者が想定する社会環境はもはや崩壊過程にある。しかも、環境制約/資源節約という観点から見れば、環境を破壊して資源を枯渇させ地球温暖化をここまで進めてしまったのは中高年の責任だろうと考えて不思議はない。かつて日本の立身出世の頂点にあった国家官僚は、今や停滞と腐敗の象徴のようにさえ見える。経団連も若者から見れば頑迷な既得権益集団にしか見えないかもしれない。



何が取って代わろうとしているのか


では、この若年層を新しい市場として商品販売なりサービス事業構築なりを展開したいと考える側からは、どういう理解をして何を仕掛けていけばいいのだろうか。


歴史の教えるところを信じるなら、人間は『社会的存在』であることを完全にやめることはないと考えておくべきだろう。(無縁社会と言われるくらいに関係が希薄になったとしてもだ。)それまでの社会が解体されれば、それに何らかの社会が取って代わる。とすれば、今最も近いところにあるのは、インターネットに介在された『ソーシャル』だ。すでに日本にも深く浸透していて、若年層を中心としたコミュニケーションの質を変え、ありとあらゆる価値観のありようを支配し初めている。


『携帯ばかり見ている』『旅行や外出をしない』『会社の上司と飲みに行くのを嫌がる』『物を買うときは口コミを最も信じる』『会社のヒエラルキーより個人のスキルを重視する』等々、最近の若年層を表現する言説は、ゆとり教育の影響やら、豊かさの代償等、伝統的な分析で語られることも少なくないが、よく見ると、インターネットに介在された『ソーシャル』およびそこでのコミュニティーやコミュニケーションで特徴的な傾向であったり、その影響によると考えられる事象のほうがずっと多い。しかも、この『ソーシャル』はFacebook等米国のほうが先んじていることから、米国の状況を観察していると非常に興味深いインターネットの『ソーシャル』の特性を見ることができるわけだが、そのエッセンスの幾つかの特徴は、日本の『ソーシャル』にも十二分に見て取れる。もちろん、日米の文化の違いによる超えられない壁は存在すると言わざるをえないが、価値観や振舞などで共通する部分も少なくない。『参加者相互がフラットな関係であること』『自由を重視すること』『コミュニティ形成に時間と空間が制約にならないこと』『すべてが非常にスピーディーであること』等は皆そうだ。



『ソーシャル』の影響の甚大さ


今の日本では、インターネットの『ソーシャル』の影響の甚大さに気づいていない人がまだ多い。それは市場の変化に最も敏感であるべきマーケターでさえしばしそうなのだから無理もないとも言えるが、早晩この『気づき』の有無が、ビジネスに限らず社会のあらゆる場所で巨大な差となって現前することは間違いない。もっとも、難しいのは、こうしている今この時も大変なスピードで変化がおき、新しいものが出現していることだ。日本でmixi等のSNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)が急拡大し、若年層を中心にコミュニケーションのあり方が変わった、という話題が盛んになるその時にはもうモバゲータウンを中心に据えるもっと若い世代と、mixi世代との違いが取りざたされ、そうしている間にtwitterが急激な浸透を見せて新しい現象を生み、さらには個人でも簡単に動画配信ができるUstreamの影響がいつの間にか大きくなって来ている。ある時点で現象を止めて静態的な分析を行って一時の断面的な現象を知ったところであまり有効な対策が導きだせない。むしろ、個々の現象の背後にある『構造』を把握して、今起きつつある『今ここ』に最大注力して、動態的な分析をすることのほうが有効であるようだ。


では、『消費しない若者に』どうやってものを売ればいいのか。私自身の見解は、別途あらためて語って見たいと思うが、しかける側/ものを売りたい人/サービスをやりたい人にできるアドバイスがあるとすれば、古いカビの生えた分析装置には早く見切りをつけて、自分自身をいつも一個の『動態分析装置』としておくこと、これしかない。是非実地にこれを試してみて欲しい。得るところは多いはずだ。