もう少し語っておきたい『服装問題』

エスカレートする『服装問題』


バンクーバー冬季五輪スノーボード日本代表の国母和宏選手(21)の服装がだらしないと批判を浴びた、所謂『服装問題』が、かなり大掛かりなバッシングにエスカレートして話題になった。日本オリンピック委員会(JOC)は開会式への参加を自粛させ、川端文部科学相は「こういうことは二度とあってはいけない」と厳しく批判し、母校の東海大でも、国母選手が在籍する札幌キャンパス(札幌市南区)で予定していた応援会の中止を発表した。いったん終息するかに見えたこの問題も、海外メディアが取り上げたり、国母を擁護する論調も出始め、まだ余波は広がり続けているようだ。


この種の騒ぎは、日本では過去何度も繰り返し起きており、さほど珍しくもない。服装/言葉遣い/態度等、規律の乱れを嘆く『大人』の意見を背景とした国母選手へのバッシングは、日本では典型的とも言える反応だ。だが、このような問題についてメディアを巻き込んで賛否の応酬が相次ぐことが、海外メディアから好奇の目で見られることからもわかるように、多分に日本に特徴的な出来事とも言えそうだ。確かにそういう観点で、飛び交う意見に注目していると、様々な意見の背景に日本人の深層意識、価値基準、およびその変化等が見え隠れしていて非常に興味深い。



不毛な感情的対立?


オリンピックのような伝統あるスポーツイベントでは、そこで要求される規律はしばし非常に厳格で、もちろんそれは日本人だけの問題ではない。服装コードを含む規律を守ることが、イベントの背景にある伝統精神への敬意の現れと言うことになる。オリンピックとは違うが、個人の自由や個性が尊重される米国でも、建国の精神を体現する国旗は神聖視され、令を尽くすことが求められる。それ自体を冷静に見れば、伝統精神に理解と尊敬の足りない若い選手に、経験豊富なベテラン選手や元選手が理路整然と諭せばすむ話とも思える。だが、今回の騒動を見ていれば誰もが感じる通り、本当の問題、対立構図はそれほど単純なものではない。国母選手の服装や態度を非難する側も、その非難に反発する側にも、強い感情的な反応が見られ、時にファナティック(熱狂的)ですらある。お互いの立場を理解して、異なる意見を尊重しあい、双方とも相手の真実を共有して学びあう、というようなことはまったく期待できない雰囲気だ。いったいどうしたことだろう。これでは、不毛な双方への敵視と感情対立しか残らないではないか。



規律遵守重視の根拠/由来


そもそも、服装コード等、規律遵守を非常に重視する日本人の心理はどこに根拠や由来を持つものなのだろうか。大雑把に言えば、3つのカテゴリーがあると考えられる。


1.伝統的な思想/芸能


武道、華道、茶道等々、日本の伝統的な芸事の多くは、様式を重んじて、厳格に形式を守るところから始まる。特に初学者に選択や議論の余地はない。厳格に決められた様式を守って修行することを強要される。そうして修行を進めていると、いつしかその様式にとらわれることのない、融通無碍の心境を得て、芸風にもその人の深いレベルからの個性が発現するようになる。日本的な『禅』思想の影響が及んでいることもあって、大抵議論や理屈は出る幕がない。そもそもそういうことを超越することが修行の目的だからだ。ゆえに、その道の熟達者も、黙して語ることは少ないが、そこには非常に高度で芸術的とも言える『非言語コミュニケーション』の昇華された形が現れることも少なくない。こういう意味での『以心伝心』の極地には、普通の人が考えるよりはるかに強い影響力の磁場がある。



2.国/社会/産業が求める必要性


江戸末期〜明治初期のように、列強の植民地主義に飲み込まれかねないような環境では、一刻も早くそれに対抗できる軍隊の編成が必要とされる。そのような時に最も必要な要素の一つは『規律』である。秩序だった規律で統御された集団である近代的な軍隊は、個々の武勇を誇る武士団を圧倒する。(日本では西南戦争*1がその典型例と考えられている。)また、戦後〜高度成長期を支えた、『輸出型工業立国』に必要とされるのも、時間や規律を厳守する優秀な労働力である。海外の生産工場を訪問するたびに痛感するのは、日本人が如何に規律正しいか、それが工業生産に如何に有利な条件なのかということだ。そういうニーズが強い場合、道徳や倫理観の上位に、『規律遵守』が登ってくることは、なんら不思議なことではない。一人の規律違反が、戦争に負けたり、生産効率を低下させてしまいかねないのである。



3.閉鎖社会の秩序維持


辺境の島国という環境もあり、比較的同質な民族で言語も統一され、しかもかなり長期に渡る鎖国を経験した日本は、中の人々が安定した関係の絆を強化することで、その内部では安心していられる環境を築き上げた。そのために部外者を排除し、かわりに長くつきあう人達とは濃厚で長期的な関係を気づくことを最重要視した。そういう村的な共同体では、他人と違う個性が突出するより、個性を抑え、和を大事にすることが道徳の根幹となる。(場合によってはヒステリックなまでの規律遵守が説かれ、時に陰湿ないじめの温床になったりもする。)


高度成長期くらいまでの日本には、社会秩序に影響を及ぼす上記のような要素のベクトルが一致し、日本を世界的な『輸出工業生産国』へ押し上げた。当然、日本人のマインドは他国から見る非常に特殊で、しばし理解しがたいものだったろう。だが、如何に閉鎖的/没個性と非難されても、間違いなく日本なりの『成功フォーミュラ』だったことは確かなのだから、大人たちが説く倫理や道徳にもそれなりの権威があったとも言える。(しまいには、『日本的経営』を普遍の真理と信じて、放漫になる手合いさえ現れるようになる。)



変化できない日本


だが、時は流れ、冷戦が終わり世界の枠組みが大転換したのに、日本は工業中心の産業基盤を転換することができなかったため、新興工業勢力(韓国、中国、台湾等)に追い上げられ、輸出競争力を大幅に落とし、経済だけではなく、社会全体が膠着状態にある。先進国の一つとして、今後ともある程度の経済的な豊かさを維持しようと思えば、イデア/ソフト/イノベーション等を競争の源泉とできる国にシフトしていかなければ、もうどうにもならないところまで来ているリーマンショックから一年余、本来世界的な金融バブルの悪影響をあまり受けず打撃の少なかったはずの日本経済は、世界との比較で言えば、むしろ最も深刻な被害を受け、逆に経済危機の原因を作った米国でさえ、競争力のあるIT企業等に引っ張られて回復軌道が見えて来ている。今回の経済危機を通じて、最大の勝ち組企業の一つとなった、ユニクロの柳井会長がウオール・ストリート・ジャーナルのインタビューで語る現状の日本の評価は、大変厳しいが、覚悟を決めて受け入れざるを得ない『真実』だと私には思える。

柳井氏:日本企業は今までうまくいき過ぎた。毎年毎年同じことをやっていてもそれで成長できた。でも世界は変わった。ベンチャービジネスなど新しい企業も成長してきた。その中で日本企業はひじょうに動きが鈍いので、変われなかった。売れているのは日本国内だけ。それではだめ。ビジネスに国境がないとしたら、世界中で売れる商品、世界中で売れるマーケティングをしていかないといけない。

 日本企業は技術、製造に頼りすぎ。いまだに日本の製造業が世界で復活すると思っている人もいるが、僕は復活しないと思う。いかに良い商品をつくったとしても、品質だけでは売れない。コストの問題もあるし、それよりもお客様がその商品を本当に欲しいかどうか。日本の製品は技術の押し売り。オーバースペックで、コストがものすごく高い。だったら売れない。アップルのように、産業構造を変えるような存在が出てこない。 / WSJ日本版 - jp.WSJ.com - Wsj.com

カジュアルがカッコいい


シリコンバレーを代表する企業である、アップルのスティーブ・ジョブズ氏は、オフィシャルな場でもセーターにジーンズといったようなカジュアルな服装で現れる。シンプルだがセンスがよく、その物腰は自信に満ちあふれ、颯爽としている。シリコンバレーに限らず、私の知る米国西海岸の企業の経営者は、センスの良いカジュアルを着こなしている人が多く、服装にとらわれない自由さを誇りにしている感さえある。一方、大変残念なことだが、今の日本企業の経営者の多くは、高額だが没個性な背広一色で、原稿片手に背中を丸めて決まりきったことしか口にしない人達だ。この人達がイノベーションやクリエイティブな発想を先導するようにはとても思えない。むしろ、社内改革の根強い抵抗勢力だったりする。国母氏の服装問題に事寄せたブログ記事を読んでいると、『服装の自由を認めない大人たち』=『既得権益者/改革を阻む抵抗勢力という文脈が非常に多い。今回の服装問題について、服装の自由を認めない人達に対して、強い批判を展開する一人に、元ライブドア社長の堀江貴文氏がいる。氏は『服装原理主義』と呼んで不快感を露にする。BLOGOS(ブロゴス)- 意見をつなぐ。日本が変わる。


さらに言えば、20世紀的な工業化社会は、大量生産→大量消費→環境破壊という連想であったり、旧ソ連のような人間性軽視の管理/監視社会というような、ネガティブなイメージを背負うようになった。『企業一家』と言われた、企業による閉鎖的な(村落共同体的な)コミュニティーをつくりあげた戦後の日本社会は、結果として、少子化=日本の企業社会の生命原理軽視』、というイメージさえつきまとうようになった。



自分自身を振り返る糧にすべき


たかが服装だが、されど服装で、今回の服装問題も、背景にある思想や慣習等の根深い対立構図を代表してしまっているようだ。その証拠に、繰り返すが、今回の服装問題への意見を逐一読んでいると、話合いより罵倒合戦、理性的な議論より感情的な応酬になっているきらいがある。服装問題を前に、自分が本当のところ何に反応してしまっているのか、それが感情的だとすれば、どうしてそういう反応が出てしまうのか、ということに気づくための機会にするのが、もっとも賢明なあり方だと思う。服装問題への賛否はどうあれ、感情的な反応をしてしまうというのは、自分自身整理がつかないままに先入観や偏見にとらわれてしまっている証拠であることが多い。そんなことでは、発想を自由にしてイノベーティブかつクリエイティブになることも、自分の意見に反対する人を説得していくことも望み薄というものだろう。いずれにしても、大変化の時代を乗り切ることはできない。


一旦自分がいつのまにかとらわれてしまった先入観や偏見から離れることができれば、次に自分自身のあり方を自分で決めればよい。米国流を真似るのがすべてでもない。日本の伝統思想や芸能の神髄を見直して現代に甦らすことも悪くない。厳しい環境を跳ね返して、21世紀の日本の製造業のあり方を再構築するのもいいだろう。今回の騒動のおかげで(雨降って)地が固まったと、早く一人でも多くの人が感じることができるといいと衷心から思う。