アート/芸術を評価できる鑑識眼が必要かもしれない『iPad』


『微妙』と評価されるアップルのiPad


予想された通り、1月27日のアップルのiPad*1の発表以来、まさに百家争鳴状態で、各所から非常に多くの意見、感想、分析、憶測等々が飛び交っている。今回特に興味深いのは、事前の期待が非常に大きかった反動もあるためか、iPad に物足りなさ、失望等を感じた人が多いと見られることだ。例えば、こんな感じだ。


マルチタスクができない」
「これでは画面の大きなiPod Touchにすぎない」
「画面が大きすぎて携帯できない」
「日本の出版社の交渉が難しそうで、日本の書籍が読めないから売れない」
Flash未対応は論外だ」
FlashもUSBもないiPad――Apple製品じゃなかったら売れない (1/2) - ITmedia ニュース
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いつの間にか売れてしまうアップル製品


一々もっともなご意見ではあるし、私も正直なところ、初めから爆発的に売れることはあまり考えにくい気がする。だが最近の日本市場でのアップル製品は、発売当初商品と市場の不整合があっても、ユーザーの認識の変化のための仕掛け、ユーザーの気づいていない商品価値のアピール、価格のコントロール、アプリやソフト追加による商品価値の変化(追加)等により時間の経過と共に様々に調整されていき、ふと気づくといつのまにか大きく普及が進んでいるというパターンが少なくない。同じような経過をiPodでもiPod Touchでも、iPhoneでも私達は繰り返し見せられて来た。その間、基本商品スペックはあまり大きく変えず、支出は最小限に留める。マーケターの小川浩氏によればこれもアップルの作戦の一つということになる。『段階的発展』と呼ぶ人もいる。私もiPadについても、何となくこのシナリオが一番ありそうという気がする。では、どうしてそう感じてしまうのだろうか。



芸術家としてのスティーブ・ジョブズ


少なくとも私(および私と同様に感じている周辺の関係者)の鑑識眼は、スティーブ・ジョブズ氏の、特にアップル社への復帰以降の輝かしい成功の履歴が醸し出す、『オーラのようなもの』に多かれ少なかれ影響を受けているのだと思う。だが、実際には、スティーブ・ジョブズ氏は、その履歴を過去に遡れば、成功と失敗が相半ばする。毀誉褒貶とはこの人のためにある言葉と言っていいほどだ。だから、合理的に考えれば、ここ数年の彼の大成功は、次の成功を保証しない。そんなことはわかっている。だが、短期的なビジネスの浮沈を超えて、訴えてかけてくる何かを感じさせてくれる。それは、『ビジネスマン』『経営者』というよりは、『芸術家』として評価するのが妥当な『何か』なのかもしれない。



スティーブ・ジョブズ氏と運慶


ブログ、『アンカテ』の最近のエントリー(2010年2月1日)を読むとessaさんが私とかなり近い見解の持ち主であることがわかる。
iPadとiPhoneのテイストの中にある絶対性 - アンカテ

essaさんはスティーブ・ジョブズ氏を鎌倉時代に活躍した仏師/彫刻家である運慶に喩えてみせる。

夏目漱石夢十夜で、運慶が切り出していた仁王のようなものではないかと思う。

「よくああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、

「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。
夏目漱石 夢十夜


まさに言い得て妙とはこのことだ。私が漠然と感じていたことがずばり表現されている。


スティーブ・ジョブズ氏が運慶*2のような存在であるとすれば、iPadも、『東大寺金剛力士像』を評価するような軸が必要になる、ということだ。それはサイエンスとしてのマーケット分析がほとんど通用しない領域である。(サイエンスの塊とも言えるiPadにサイエンスが通用しないというのも、何とも皮肉な話ではある。)運慶は、平安時代の女性的/貴族的な定朝様(じょうちょうよう)が支配的だった時に、台頭する坂東武士の荒々しいまでに男性的な気質を存分に吸い込み、圧倒的な作品を世に次々に送り出した。まさに新しい世界の開拓者であった。作品のテーストは違うが、このアナロジーは実に面白い。では、iPad はどんな世界を切り開いてくれるのか。



コンピューターの新しい未来


次の記事で展開されるビジョンはその有力な回答の一つに思える。

http://wiredvision.jp/news/201002/2010020322.html


タブレット機に否定的な人たちは、フォームファクター、人間工学、ユーザー・インターフェースなどを理由に、iPadは失敗すると予想している。しかし、もっと重大だった問題がいまは消えている。これまでは、あえてタブレット向けにコンテンツを開発する人がいなかったのだ(ウェブアプリ、ネイティブアプリを問わず)。

Steve Jobs氏が率いるApple社は、市場を生み出す会社だ。コンピューティングの世界を新しい方向へ強引に突き動かすタブレットがあるとすれば、それはiPadしかないだろう。



アップルは市場に適応するのではなく、市場を生み出す。世界を新しい方向に強引に突き動かす。(まさに運慶のように) では、それはより具体的にはどんな世界なのか。


コンピューティングというものを考えるとき、子供や高齢者のことは見落とされがちなのだが、iPadは、こうした「社会的格差」を解消する初めての製品になる可能性がある。『iPad』は、幼児がゲームで遊び、学習もできるコンピューターになるだろう。そして、おばあちゃんは電子メールを送り、ウェブを閲覧し、写真を編集するだろう。iPadは、現在市場にあるパソコンを駆逐するわけではないが、重要な新しいカテゴリーを生み出すマシンになると見られる。こういったマシンが社会に与える影響のことを考えると、「単なる大きな『iPod touch』にすぎない」と評されがちなiPadが持つ、より大きな意味が見えてくる。それは、「みんなのためのコンピューター」だ。米Apple社が長年取り組んできた理想でもある。


そして、それはまさにアラン・ケイ*3が夢想したアイデアでもあるのだという。

テクノロジーの歴史を知っている人にとって、子供が使いやすい超軽量コンピューターというアイディアは、先駆者Alan Kay氏が米Xerox社で40年ほど前に唱えた『Dynabook』のコンセプト(以下の画像はそのスケッチ)を思い起こさせるものだ。


時代を超えて、アップルによって理想のマシンがいよいよ実現して、コンピューターの新しい未来が開かれて行くのではないか、というわけだ。



草の根の感想


次のブログ記事も、同様の感じ方をもっと率直に語っているように読めるのだが、どうだろうか。


オトンと妹にiPadのプロモビデオを見せてみた | fladdict

今日、オトンと妹にiPadのプロモビデオを見せて意見を聞いてみた。結果は超絶賛。即座に我が家にiPadが3台導入されることが決定した。オトンはまったくのPC音痴。妹はYoutubeとインターネットを嗜む程度。別にプログラムもしなけりゃ、フォトショップも使わない二人にとっては正に夢のようなマシンっぽい。「iPadが微妙」といっているクラスターは、おそらくPCで仕事をしていて、「iPadがラップトップの代替機になるかどうか?」という軸で評価をしている層だと思う。でもおそらくiPadはコンピューターのプロフェッショナルの為のデバイスではない。 PCというインターフェースの出来が悪すぎるせいで、今までインターネットを使うことができなかった層への入門機に近い位置づけではないか?

サイエンス偏重からの脱却


経営学者のヘンリー・ミンツバーグ氏によれば、マネジメントの成功は、アートとクラフトとサイエンスがそろったときに生まれるという。(アートは構想力、クラフトは職人的スキル、サイエンスは分析力のシンボル)おそらく、これからの商品企画やマーケティングもそうだ。サイエンス偏重の従来の方式では、レベルの高い経験価値提供で勝負が決まる市場の声なき声を拾うことはできなくなってきている。この機会に、自分の価値尺度を棚卸ししてみてはどうか。