日本という『巨大な不幸増幅装置』をどうすれば解体できるのか

勝間和代 vs 香山リカ


昨年秋のAERAでの対談記事以来、テレビの特番、そして本としてまとめられることになり、大変話題になったのが、勝間和代氏と香山リカ氏の対談だ。私は、この対談本は読んでいないし、どのような帰結になったのか実は余り詳しくは知らない。ブログ記事等から間接的になんとなく経緯を知っているだけだ。ただ、リーマンショックから民主党への政権交代へ世が流れていく中で、この構図、すなわち、勝間和代氏に、『小泉竹中改革』『新自由主義』『悪徳ファンドマネジャー』等、今回の不況の原因となったと巷間言われる『行き過ぎた資本主義』の悪役イメージを被せ、それに対して物申すという構図は、読者や視聴者の強い関心を引きつけたことは想像に難くない。なにせ、この背後にあるのは戦後初の選挙による政権交代という劇的な結果を生んだ日本人の大きな不満のエネルギーだ。


しかも、この両者を並べることで喚起される問題は、広範囲かつ奥深い。様々な対立軸を(実際の二人の考えや思惑を超えて)深読みすることができる。
「リバタリアリズム vs リベラリズム(またはコミュニズム)」「自民党 vs 民主党」「新自由主義 vs 福祉国家」「コンクリート vs 人」「現代女性の生き方」等々・・ (あまり書き連ねると少々悪のりの感がないでもない。)


ただ、この対談の結果は、『物申すはずの香山リカ氏の追求が不徹底/迫力不足』『結論が出ない議論』等、消化不良とする人(感想)が多いようだ。そもそも両者は共存関係で、そこそこに議論が盛り上がることが一番良く、どちらかが決定的に傷つくようなことな結論に持って行くはずもないという大人の見解もある。
http://npn.co.jp/article/detail/96619394/



消化不良感


この『消化不良感』は、今民主党に国民の多くが感じ始めた感情/感想、すなわち今日本全体を厚く覆いつつある感情と同種のものだろう。実際、この両者を通じて読者や視聴者が見てしまうであろう、対立軸や問題点のほとんどは、結局のところ何一つ解決されてはいない。どちらが『生きやすい』生き方なのか、という本来の争点に絞っても同じことだ。所詮は個人の選択の問題として、自分たち自身に投げ返されてしまっている。



以前、香山リカ氏の著書である、『しがみつかない生き方』*1を読んだ時にも(内容が面白くないわけではないのだが)やはり消化不良感が残ったことを思い出す。この本で展開される考え方は、精神分析医の知見を超えて、仏教老荘思想にさえ淵源を持つ、かなり深遠で、かつ史上繰り返し多くの人が取り組んできた考え方ではある。医学者として蓄積的データから仮説として成り立つ範囲を超えた発言は控える(あくまで科学者としての一線を越えない)という抑止力が働くのかもしれないが、実はその先こそ聞きたいところなのだ



巨大な不幸増幅装置


その点、同じ精神科医の、加賀乙彦氏の『不幸な国の幸福論』*2のほうが、より読者を深い問題の核心へいざない、根本的な解決への糸口を提示しているように思う。医学者としての経験から体得した宗教的とも言える思想、あるいは自身がキリスト教徒であることを隠すそぶりもない。そういう潔さも好感が持てる。その加賀氏の現代日本の評価は、非常に手厳しい。かなり痛んできているとは言え、日本はGDPでは世界第二の経済大国であり、世界一の長寿国(女性。男性は4位)でもある。他国と比較しても街は清潔で、犯罪も少ないそれなのに、加賀氏は、今の日本を「巨大な不幸増幅装置」と呼ぶ



実質自殺世界一?の日本


日本に自殺者が多いことは、私も過去に取り上げたことがあるし、最近は不況もあってまた遡上に上がることが増えてきた。加賀氏が本書で取り上げているように、警察庁発表資料によれば、1999年から2008年までの自殺者は、357,854人に上る(年間3万人超)。しかも、自殺未遂者はその 10倍は存在すると推定されているという。さらには、年間3万人どころか、実際には10万人が自殺しているという説もあるそうだ。というのも、病院以外の場所で医師に看取られず不慮の死を迎えると、すべて変死扱いになるというが、日本では変死者数も90年代後半から急増していて、年間14〜15万人で推移しているからだ。WHOは、変死者のおよそ半数が自殺と述べており、日本以外の国では変死者の半数を自殺者統計に加えている組が多いという。仮にこの数字を日本が計上すれば、自殺率世界一のリトアニアを軽く抜き去ってしまう。


出口がない?


ここでは詳しくは語らないが、各種の意識調査でも、若年層は日本で生きることの息苦しさ、展望のなさに日々苛まされ、中高齢層の不安感は年々強まり、高齢層の犯罪も増えている。日本の場合は、経済状況と自殺者に強い相関が見られるが、OECD加盟の他国には日本ほど強い相関は見られないという。 GDPでは世界最高水準にありながら、そのピークの時期にあっても満足感は薄く、経済が疲弊すると途端に自殺者が増える。確かに今の日本は巨大な不幸増幅装置というありがたくない命名を頂戴して当然という気がしてくる。こんな中で、勝間氏のように経済的な成功を目指しても、幸福や満足を得るのは難しそうだ。そもそも、経済的な成功/願望達成はますます難しくなる情勢にある。その気配を察してか、最近の若年男女は、強い上昇志向を持つタイプが激減していると言われている。それどころか、しがみつかない生き方ならぬ、目標を持つことをあきらめた人達が急増しているようだ。ところが、それで生きやすくなるわけではなく、たいていの若者は、同調圧力の極端に強い社会で、目立ったり、無視されたりすることのないよう、空気の支配に怯えながら暮らしている。香山氏の言うような生き方が出来ている人も数少ないようだ。いずれにしても、どこにも出口がないように見える。



出口はある


加賀氏はこの袋小路から抜け出る手がかりとして、ナチスドイツの支配下で、ユダヤ人としてアウシュビッツ等の収容所に入れられ、その体験を綴った『夜と霧』*3等の著作で高名なヴィクトール・フランクル氏に言及している。フランクル氏によれば、我々は人生の意味を問題にするとき、自己の方から、自己を中心にして、『われわれは人生から何を期待できるか』という観点から問う。自己の利益、という視点から世界を見る見方である。しかし、これでは強制収容所におけるような絶望的な状況では耐えることはできない。そこではもはや何ものも世界から期待できない。そういう視点を捨てることが出来なかった人は実際に次々に倒れていったという。


だから、この人生観は『人生は何をわれわれから期待しているか』という観点に変更される必要がある、というのである。苦しみにも意味がある。この苦しみを通して人生は自分に何を期待しているのだろうと発想を転換することができれば、外的条件によって揺るがない支えを自己の内部に持つことができる。そして、極限状態でも自分ができること、例えば、どんなに小さなことでもよいから、人の役に立つことを見つけて実行する。苦しみに毅然として耐えてみせる。『今、ここ』でどうあることを、人生はわれわれに期待しているか最後の息を引き取る瞬間まで失われることはない人生の意味。最後の瞬間まで自分にしかできない何か(それを人と比較することはまったく意味がない)が待っている可能性がある。


フランクル氏の著作『それでも人生にイエスと言う』*4にこの事例の一つが出ており、理解の助けになる。

以前、無期懲役の判決を受けたひとりの黒人が、囚人島に移送されました。その黒人が乗っていた船は「リヴァイアサン」といいましたが、その船が沖に出たとき、火事が発生しました。その非常時に、黒人は、手錠を解かれ、救助作業に加わりました。彼は、十人もの人の命を救いました。その働きに免じて、彼はのちに恩赦に浴することになったのです。(中略)もしだれかがまだ乗船前に、つまりマルセイユ港の埠頭で、この黒人に、お前がこれからも生きる意味がまだなにかあるのか、とたずねたらどうだったでしょうか。黒人は首を横に振らざるを得なかったでしょう。(中略)どのような重大な時間が、唯一の行動をするどのような一回きりの機会が、まだ自分を待ち受けているか、だれにもわからないのです。 同掲書P28〜29

神話の解体から


日本は、加賀氏の指摘する通り、小子高齢化対策、教育、医療、堅固やセーフティネットづくりにかけるべきお金を削ってGDPアップに集中してきたその結果、セーフティネットを失った社会は、他国であればさほどのことではない状況でさえ、日本人を自殺にまで追い込む。そういう不幸増幅装置はなんとしても解体する必要がある。だが、その装置を作ってしまったのは、生きる意味のすべてを『経済的な向上』という幻想にへばりつけ、その向上の可能性がなくなると人生の意味も失われる、というような単純かつ荒涼とした『神話』を社会全体で受け入れた自分たち自身であることをよく考えてみる必要があると思う。先んじて神話を解体しなければ、何も始まらない。今、『人生はそれをわれわれに期待している』のではないだろうか。

*1:

*2:

不幸な国の幸福論 (集英社新書 522C)

不幸な国の幸福論 (集英社新書 522C)

*3:

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

*4:

それでも人生にイエスと言う

それでも人生にイエスと言う