龍馬と器量/再発見が望まれる日本の文化遺産


龍馬伝』を観て


NHK大河ドラマ龍馬伝』は昨日(1/10)第2回目が放映された。まだ始まったばかりだが(まだ期待の欲目はあるとは言え)評価は上々のようだ。(ソフトバンク孫正義氏も、自身のtwitterで、4回も泣いてしまったとつぶやいている。)放映前から大変話題になった『福山龍馬』には、どうしても賛否両論あるようだが、今のところは好演と言っていいのではないか。実際に残っている坂本龍馬の写真を見ると、如何にも無骨な感じで、福山雅治のスマートなイメージとはずいぶん違う印象だが、案外龍馬の持つ並外れた柔軟さとシャッレっ気を上手く引出して見せてくれるかもしれない。鬱屈した時代に最も求められる明治維新の時代劇、そして、そこに登場する魅力的な人物達の中でもとりわけファンも多くアイドル的存在の龍馬だが、骨太な男子がすっかり影を潜めて『草食系男子』が蔓延る今の日本だから、『優男』、福山にこそ龍馬を演じさせてみたいと感じる人が多いのかもしれない。人物のイメージという意味では、福山が長身であるせいか、偉丈夫/豪傑のイメージの強い、姉の乙女さんが小柄に見えるのはご愛嬌か。


今、時代は急激な構造変革期を迎えており、しかも客観的に見て良くなる要素がほとんどないのに、悪くなる要素はいくらでも数え上げることができる。誰もが自分の将来のロールモデルを持つ事が非常に難しくなっている。そういう時には特に、同じく変革期に颯爽と生きた龍馬のような人物は確かに眩しい魅力に溢れて見える。



危機感に乏しい?


もっとも、今の日本には、意外なほど社会に危機意識が感じられない。危機感はあるのかもしれないが、少なくとも、それに備えた行動が伴っているとはどうしても思えない。どうしてだろうか。おそらく、おおよそ、次のような理由からではないか。


・構造転換ではなく景気循環の底と考えている(そのうちよくなると甘く考えている。)

・親の世代の経済力にまだ頼ることができる(取り敢えず生活に困らない。)

・生活のコストが非常に下がった

・考える力と気力がなくなってしまっている



大きな物語』の再始動?


将来の見通しに絶対はなく、例えば、環境関連技術等によって、これから大成功する企業や個人が出現することも考えられないわけではない。だが、人口動態等の見通しのはっきりした予測から見えて来る近未来は、所得の上下二極化がさらに進むであろうこと、簡単に内需拡大は実現しそうもないこと、少子高齢化の影響は確実に現れて来るであろうこと等、少なくとも当面は非常に厳しい状況を想定しておく必要がありそうだ。そうなると、この2010年代には、今までぎりぎり痛みを感じないで済んでいた階層も、痛みが襲う可能性が非常に高い大きな物語が終わって、それでも自分の周囲の小さな物語で小満足していた安穏な生活が立ち行かなくなるかもしれない。するとどういうことになるか。否が応でも『大きな物語』が再び始まらざるを得なくなるのではないか。表面的には危機感の余り見られない人達が、明治維新の時代劇を好み龍馬のような人物の出現を求めているとすると、『奇妙な平穏』の背後に痛みを伴う『大変革期』が迫っていることを、潜在的には感じている人が多いということではないだろうか。



明治維新期と現代の違い


明治維新前後のことを調べていると、何時も不思議に思うのは、危機が迫ったあの時にどうしてあれだけ数多くの有能な人物が出現して活躍したのかということだ。戦国時代が終わって、江戸時代のような平和な時代が250年も続いたら、普通ならどんな軍隊でも弱体化してしまうだろうし危機に対応できるリーダーも枯渇してしまうのが普通だろう。現に、日本は戦後60年経っただけだが、もはやどんな危機が来てもあのころのような軍隊を編成することも優秀なリーダーが出現することも期待薄だ。そのために巨額の予算を割いて自衛隊日米安保を維持して来たというのだろうか。幸い、本格的な軍事的危機が訪れる可能性はまだ低そうだが、大半の日本人は、本当の危機の時には命をかけて家族や仲間を守る、というような決意や心構えは持っていないと言わざるをえない。



いなくなった『器量人』


福田和也氏が『人間の器量』*1という本で取り上げて論じているように、明治維新のころに数多く現れたタイプの人物が昨今すっかり枯渇してしまったことは皆認めるところだろう。明治期まで遡らずとも、昭和の半ばくらいまでは例を上げることができた、いわゆる『器量人』というのが、今や本当に少なくなってしまった。どこを探しても、龍馬に比することのできる人物を見つけるのは本当に難しいはずだ。


福田氏が一番の理由として上げているのが、そのような『器量』を大きくするための明確な意識を持って人を育ててこなかったことだ。

勉強のできる人、健康な人、平和を愛する人は育ててきたけれども、人格を陶冶するとか、心魂を鍛えるといった事をまったく埒の外に置いてきた。その、戦後教育の結果が、このざまです。政界、官界、財界、どこを見回しても人物というほどの代物はいないではないですか。言論界も同じようなものです。わが国から、人材というほどの存在が、きれいさっぱり払拭してしまったわけです。 同掲書 P34

日本の文化遺産


私達が子供のころは、まだ、『人格の陶冶』とか『心魂を鍛える』というようなことを大人たちが口にしていた。『訓練』は今でも通じる言葉だが、『陶冶』『心魂』となると、そのニュアンスを理解できる人は本当に少なくなったように思う。単に努力すればそれに等しい結果を得る、というようなデジタルな意味ではなく、どのような仕事や芸事でもある心構えを持って一心不乱に研鑽につとめていると、ある時点で突然新境地が開けたり、次元が変わるというような含蓄があり、機械とは違う人間の潜在能力の遠大な可能性に対する憧憬と確信が背後にあった。言葉はその観念を生んだ民族の思想の産物である。もしかすると、その『思想』こそが一度ならずも世界に奇跡を演じて見せてきた日本の貴重な文化遺産だったのかもしれない。今、残念なことに失われつつあるのだが。

いくら金があったって、人がいなければどうしようもないからです。バブル期以来、どれだけのお金を日本人が無駄に使ってきたか。みんな人を得なかったからではありませんか。人材は、何よりも大事なものです。お金がなくたって、国は、企業は立ちゆくけれど、人がいなければ、どうしようもありません。 同掲書  P34



多くの日本人が今だに龍馬に憧れるのであれば、日本人の潜在意識から、「器量」の重要性を知る心が完全に失われたわけではないと思いたい。不幸なことに、こういう日本的な人格形成のありかたは、戦後の教育の中では、組織に従順に仕えさせるために、自我を殺して滅私奉公に励む労働者を育成するというような矮小化をまぬがれなかった。だが、本来それは企業や組織を超越したものだ。個人が徹底して自分に向き合うことでしか達成できない境地である。誰もが企業組織に頼ることなく、個人として力をつけて生きて行く事を余儀なくされるこれからの時代こそ、再発見が望まれる概念だと信じる。

*1:

人間の器量 (新潮新書)

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