内田樹氏の『日本辺境論』を読んで新たにした認識

日本人を再分析したくなる時期


ここしばらくの自分のブログを振り返ると、いわゆる『日本人論』にあたる内容を何度か取り扱っていることに気づく。日本人ほど自己言及というか、『自分たちは何者か』という言説を好む国民はいない、というのは昔から何度も耳にしてきたことだが、確かにそれはあたっているかもしれない。だが、最近、そのような一般論以上の何ものかを感じてしまう。


私がブログを書くようになったのは、この1年半くらいのことだが、特に昨年のリーマンショック以来、『今の日本はどうなっているのか』、『日本人とは何者なのか』本当に何度も考え直してみたくなる。自分の普段の主要な関心事は、マーケティング/セールス、すなわち、日本の市場と消費者としての日本人の現状、ということになるから、そういう意味で日本人に係わることを徹底的に知りたいということは常日頃念頭にある。だが、特に近年、市場環境にも人々の価値観にも、およそ想像もできなかったような大きな変化が起きているため、それまでに私が知っていて常識と考えていたことも、見直して再定義しておかずにはいられない。ことに、リーマンショック以来それは加速している。というより、関が切れたように何かが崩れて流れ出している。



大変参考になった内田樹氏の新著


そのような心境であるためか、内田樹氏の新著『日本辺境論』を買ったら、あっという間に読み終わってしまった。氏の主張は今私が抱えている問題に直接の回答となるものではないが、それでも大変参考になる。行き詰まり、自閉してしまいそうになる自分の思考を揺り動かして、解放してくれる気がする。

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)


何より先ず、日本人論を考えている自分、一種のマスターベーションというか答えのない問いに浸ること自体に耽溺しているのでは、という疑念に明快に回答をいただいた。

私たちはどういう固有の文化をもち、どのような思考や公道上の「民俗誌的奇習」をもち、それが私達の眼に映じる世界像にどのようなバイアスをかけているか。それを確認する仕事に「もう、これで十分」ということはありません。朝起きたら顔を洗って歯を磨くようなものです。一昨日洗ったからもういいよというわけにはゆきません。 同掲書 P4


本当にその通りで、まして今また『民族的な大危機』の時代を迎え、民俗誌的奇習というより、『民俗的集合無意識』とでも言うべき怪物が起き上がり、猛威を古い、ことによると日本を再び焦土のような状態にすることで、そうすることでしか実現できない『死と再生』の物語を現出しようとしているのではないかとさえ感じられる大変物騒な時期である。普段以上に個人としても民族としても内省し、無意識を意識化し、自分たちに何ができて何ができないのかを見極めておく事が非常に重要だと思う。



今参考にすべきは『坂の上の雲』ではない


先日私は、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲*1で描かれるように、日本の歴史上最も輝かしい時期には、日本人にも『戦略』を駆使することができた時代があったことを思い出してみてはどうか、という主旨のことを述べた。*2だが、その私自身NHKのドラマを見ながら、小説『坂の上の雲』の全体像に思いを馳せるうちに、今の日本にあてはめることは難しいと感じるようになった。この物語は、鎖国している間に欧米に圧倒的な力の差をつけられてしまった日本が、追いつくべき相手を決めて、懸命にキャッチアップしようとする姿が描かれている。それは太平洋戦争の復興期同様、日本人が最も得意とする、『追いつけ追い越せ』の物語だ。だが、現代の日本のおかれた環境はそうではない。目標とすべき(最近までは米国だった)相手を見失い、自分たち自身で将来のビジョンを描き、世界に対する貢献を語ることが求められている。そういう意味では、日露戦争に勝利するまでの日本は参考にならない。研究すべきなのは、日露戦争後の日本だ帝国主義の時代が始まって以降、有色人国家として初めて白人国家に戦争で勝利するという、いわば文明史的な金字塔を打ち立て、欧米からも、欧米に虐げられたすべての国家や民族からも、その発言や行動に非常に大きな期待を持たれながら、結果としてその期待を裏切り、今度は破滅の道へ追い込まれて行く日本にとって辛く苦しい時期だ。


そのあたりのことについても、『日本辺境論』に詳しく取り上げられている。

日本人は後発者の立場から効率よく先行の成功例を模倣するときには卓越した能力を発揮するけれども、先行者の立場から他国を領導することが問題になると思考停止に陥る。ほとんど脊髄反射的に思考が停止する。あたかも、そのようなことを日本人はしてはならないとでも言うかのように。同掲書 P89


日露戦争までは見事に世界標準に追いついてみせるのだが、それ以降の日本は、自らが直面していた世界の情勢や構造について、『辺境人の性』の故に理解できなかったと内田氏は述べる。

日露戦争後、満韓で日本がしたことは『ロシアが日露戦争に勝った場合にしそうなこと』を想像的に再演したものです。未完の計画ではありましたが、設計図だけはちゃんとあった。だから、この作業は本質的には『キャッチアップ』なのです。ロシアが制定してくれた『世界標準』に追いつこうとするとき、日本人はきわめて効率的に知能を使うことができる。P91


太平洋戦争開戦に至る経緯を語る時に、日本が米国等から包囲網をひかれて、戦争に突入せざるを得ないように誘い込まれて行ったという理解は、それ自体間違っているとは私も思わないが、そこに至る以前の日本は、どう贔屓目に見ても外交感覚がクレバーだったとは言い難い。例えば、国際連盟脱退→日独伊三国同盟と続く選択は、当時の世界情勢を正確に分析していた国家の振舞とは考えられない。



日本人の性を企業単位で乗り越えられないだろうか


そのアナロジーで言えば、今まさに日本が思考停止/迷走状態に突入しつつあるのではないかと、背筋にひやりとした感触を感じるのは私だけではないだろう。これは国家レベルの問題だけではない。企業の単位でも今まさに眼前で起きている現実だ。うまい打開策はあるのだろうか。


内田氏は否定的な見解のようだ。日本人には辺境人の発想が長い歴史の中で血肉となっておりどうすることもできない、という。だから無理にこの欠点を是正するより、辺境人にしか出来ない事を考えていくほうが賢明だと説く。(辺境人として身についた学びのうまさを生かして行く等) 


確かに、そうなのかもしれない。日本全体として、この深く身に付いた性向を変えることは不可能に近い難事だと私も思う。だが、せめて高い自覚を持った少数人が裁量可能な企業の単位で、これを覆し、世界をあっと言わせる勝負が出来ないものだろうかかつて、ソニーのような企業は、ある時期日本人離れした、『キャッチアップ型ではない』パーフォーマンスを見せていたはずだ。民族の業を悟り、押し寄せる無意識を押しとどめながら、自らが演じたいペルソナを演じ切ることはできないものだろうか。そのようなあり方こそ、挑戦という名に値する挑戦なのではないのか。


日本人に苦手だからこそ取組む、という「天の邪鬼」には、私は喝采を送りたいといつも思って来たし、最もスリリングな生き方の一つだと信じる。今こそそうい意味でのチャレンジを始めるべき時なのではないか。『日本の歴史を変えたいもの来れ』というところだろうか。



大きな物語』と『深層構造』を追求してみたい

また、この本でもう一つ非常に我が意を得た思いをした部分がある。内田氏の本書を執筆するにあたっての決意表明とも言える次のような一文である。

トーブさんや司馬さんと同じような『大きな物語』を書くタイプの知識人が近年あまりに少数になってしまったことをいささか心寂しく思っているのです。というわけで、本書では、縦横に奇説怪論を語り、奇中実をとらえ怪中真を掬して自ずから質すという、当今ではまったく流行らなくなった明治書生の風儀を蘇生させたいと思っております。同掲書 P17


私も自分のブログを書き始めるにあたって、まさに同様の内心の誓いをたてたことを思い出す。激動の時代には『大きな物語』を復活しなければ解決方向が見えてこないことが多いと思うからだ。ビジネスの現場にいても、小賢しい実証主義が幅をきかせ過ぎて、深層構造が劇的に変化していることに一向に気づかない『秀才』に辟易することが大変多い。


内田氏が引用する、未来学社のローレンス・トープ氏の発言こそ、私が自分のブログを通じて一番主張したい点でもある。

たしかにビッグ・ピクチャーは流行遅れかもしれない。だが、歴史はばらばらで意味がなく、未来は予測不能という見方は、あまりにも極端にすぎる。カオス理論は、表面的には無秩序に見えるプロセスにも、深層では予測可能な秩序立ったパターンがあることを示している。これと同じく、日常の歴史的出来事も、表面的には無秩序に起こっているかに見えるものの、歴史の基本とんる広大な潮流、言い換えれば、『深層構造』には意味も方向性もパターンも存在する。P17


大変に難しいことだが自分も何かできるかもしれない、そういう元気を沢山もらうことができた本書、そして著者の内田樹氏に感謝したいと思う。