日本人の苦悩は反グローバリズム/反新自由主義だけでは癒されない


言いたい放題


リーマンショック以降、世論はグローバリズム/行き過ぎた資本主義批判一色となり、特に日本では新自由主義の旗頭としての『小泉・竹中改革』がやり玉に上がって、言論空間は百家争鳴状態になっている。グローバリズムに押さえつけられた反動もあるだろうから、当然とも言えないことはないが、気になるのは、そのグローバリズム新自由主義に対する従前からの本格的で正当な批判が前面に出て来ているというよりは、悪玉の『小泉・竹中改革』を一方において、言いたい放題になっていることだ。何やら感情にまかせたメチャクチャな議論まで、反『小泉・竹中改革』を唱えることで正当化された気分になるかのようだ。冷静な議論も何もあったものではない。その典型は大変残念なことだが現政権の政治家にも見られる。世のグローバリズムや小泉竹中改革批判のセンチメントを自らのルサンチマンのはけ口や権力闘争を有利に進めるための具とされてしまうのは、何ともやり切れないものがある。


大変化の底は深い


単なる反動で語れるほど、現状の大変化の底は浅くない。最低100年くらいは遡って、問題を構造的に把握するくらいの覚悟がなければ、その場の感情で偏狭な思想に捕われてしまったり、疑似宗教の虜になってしまいかねない。昨今、そういう危険な風潮を感じて背筋が凍ることも少なくない。資本主義に内在する宿痾のような問題点、自由から逃走せざるをえない人々、近代的自我の行き詰まり等の産業革命後度々指摘されて来た構造的な問題は、結局何一つ解決されていないことを今あらためて思い知らされている気がする。



姜尚中氏の『悩む力』


そういう問題意識を背景に書かれた本や論文は少なくないが、最近たまたま手にした、姜尚中氏の『悩む力』*1という本は、古典的な問題を平易な言葉で紹介していて、テクストとしても手頃だと思う。実際、『2009年上半期第一のロングセラー』(トーハン、日販調「新書ノンフィクション部門』)とある。もっとも、平易な言葉で書かれているとは言え、取り扱われている概念は本来難解で、解決が長い間持ち越されている問題ばかりだ。しかも、各章も全体としても、必ずしも議論が完結しているわけではなく、判断を読者に求めるスタイルなので、さぞ若い読者など戸惑ってしまうのではないかとも思う。だが、それでも尚売れているのであれば、現代人の悩みはさほどに深く、しかしながら、悩みが深いが故に、真剣に自分の問題と向き合おうとしている人が増えているということかもしれない。そうであれば、このような人達が、レバレッジ(てこ)になって、日本が奈落一歩手前から引き返す契機になることを祈りつつ、私も微力ながら、貢献できないものかと思う。


『悩む力』の中核的な仮説は、『現代人の苦悩の多くは「近代」という時代とともにもたらされたものである』、ということだ。それを証明するために、近代の入り口にあって活躍した、文豪・夏目漱石社会学者・マックス・ウェーバーについて多くのページが割かれている。

漱石の趣意は、文明というのは、世に言われているようなすばらしいものではなく、文明が進むほどに人の孤独感が増し、救われがたくなっていくーというところにありました。作品に登場する人びとを見ると、描かれている時代こそ違いますが、驚くほどいまのわれわれに通じるものがあります。 P16

ウェーバーは西洋近代文明の根本原理を『合理化』に置き、それによって人間の社会が解体され、個人がむき出しになり、価値観や知のあり方が文化していく過程を解き明かしました。それは、漱石が描いている世界と同じく、文明が進むほどに、人間が救いがたく孤立していくことを示していたのです。P17

歴史は繰り返す


これを最も痛烈に感じているのは、他ならぬ今の日本だろう。近代化の孤立と痛みを大家族、地域共同体、会社共同体とつなぎながら緩和して来た日本人が、最近になって近代化を先鋭化させるグローバル化を無原則に受け入れて、もう一方であらゆる共同体を解体してきたわけだから、苦悩に苛まされるのは当然だ。『近代』を究極に押し進めた資本主義は、かつては『帝国主義』に行き着き、悲惨な世界大戦に人類を陥れた。その反省のもと、共産主義社会主義的な資本主義等、近代の背後に潜む怪物を飼いならすべくさまざまな取組みが試されて来た。ところが、いつしか怪物を縛る頸城ははずれ、グローバルマネーという新たな乗り物に乗って怪物は世界中を再び破滅の淵に追い込んでしまった。



 『自由からの逃走』


また、近代文明がもたらした貴重な恩恵だったはずの『自由』も、自由がもたらす人間性の実現を深く見つめることなく大衆に投げ出されてしまうと、自由に伴う孤独と責任の重さに耐えかねた人々がナチスドイツのような全体主義に自ら投じて行くような悲劇を招くことは、ドイツ生まれの社会心理学者エーリッヒ・フロムが名著『自由からの逃走』*2で指摘していたことだ。約70年前に発表された本書(1941年発表)だが、現代の日本にこれほどタイムリーな警鐘はないだろう。



不毛な往復運動


問題自体は、多少ものを考える力のある人なら、ある程度共有できると思うが、解決策は簡単には見つからない。ゆえに、安易な復古主義やアンチ・グローバリズムが跋扈することになる。だが、この「近代的進歩」と「近代以前への復古/回顧」の往復運動は如何にも不毛で、近代以前に社会全体として帰ることなど本音のところ誰も望んでいないはずだし、かといって、「安全で豊かだが、脱色され無菌化されたユートピア」に向けて孤独な競争に投じるエネルギーは少なくとも今の日本にはもう残っていないのではないか。土俵自体から降りてしまいたい、そう考える人が今すごく増えていると私は思う。だから、特に若い人に、「経済成長」を説いても反応しない、というようなことが起こる。



何が本質的な問題なのか


先日、「朝まで生テレビ」で、出演者の一人東浩紀氏が、若者についてアジェンダ設定された討論でありながら、「これからは老人が増えるのに、今から若者問題について語っても意味がない。」と喝破した。本当にその通りだと思うし、老人の問題こそ今最も深刻な問題の一つであることはさすがに広く意識されていると思う。ただ、現代の老人問題は、年金であったり、医療であったり、如何に安楽に死や老いを意識することなく長く安定した生活をおくれるか、という点にほぼ絞られている。それは実は非常に奇妙なことであることにほとんど誰も言及しない。本来そこで一番きちんと語られるべきは、『死』と『老い』自体だろう。それなのに、皆、ただひたすらに目を背けるだけだ。



タブー視される『死』


歴史学者のフィリップ・アリエスによれば、死がタブー視されるようになったのは、20世紀の初めのアメリカからであるという。幸福や繁栄の反対に位置するものとして、死を病院などの人目につかない場所に押し込め、それゆえに死は手が付けられない程に恐ろしいものになってしまう。(所謂、『野生化した死』という概念だ。)その結果、『若さ』『健康』が無上の価値とされて、若さを失うことを異常に恐れる。政治家でも企業経営者でも自分が若々しいことを無理してでも強調する。当のアメリカでは、ベトナム戦争を機に、死に向き合う機運が出て来たと言われるが、一番純粋にこの思想に捕われてしまっているのが、今の日本なのではないか。過度なまでの安心・安全指向は、その現れの一つだし、老境に至っても、成熟とは無縁の子供老人の如何に多い事か。(ここ何代かの首相を見れば一目瞭然だろう。)日本にかつていたはずの『老賢人』は一体どこへ行ってしまったのか。『死』をタブーとして押し込めた時、『本当の生』も同時になくしてしまって、安全・安心だが生きる意味もリアリティーも知恵も喪失してしまったとしか思えない。このままで、グローバリズムに賛成/反対の議論を繰り返すようなことに本当に実りがあるのだろうか。



苦悩から解放されたければ


フランスの哲学者ボーボーワールは、著書『老人』で、『人間が最後の10ないし15年の間、もはや一個の廃品でしかないという事実は、我々の文明の挫折をはっきりと示している』と発言しているという。『生』『死』『自由』いずれにも向き合わず、都合良く経済的な繁栄だけ求めるというありかたの方向自体を再考しないと、苦悩から解放されることもないと思う。

*1:

悩む力 (集英社新書 444C)

悩む力 (集英社新書 444C)

*2:

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版