『シンプル族の反乱』にどう対処すればいいのか

三浦展氏の最新作


『シンプル族の反乱』*1は、ライフスタイルの世代研究で知られる三浦展氏の最新作である。『下流社会』『非モテ!』『ファスト風土化する日本』等の一連の著作の反響も大きく、賛否はともかく、この人の提示した仮説は刺激的なキーワードと共に、マーケティング関係者の枠を超えて広く一般に知られるようになって来ている。私も三浦氏の著作はかなり読んでいるほうで、つい最近も堤清二氏との対談がまとめられた『無印ニッポン』*2を読んだばかりだ。時に非常に大胆な仮説もあり、すべての意見に追いつけているわけではないのだが、三浦氏の語る現代社会の諸相は、私も相当程度共感できるものが多い。


今回の『シンプル族の反乱』も従来の三浦氏の見解を踏まえて読むと、余り違和感なく理解できる。というより、すでに感じていることに対して、データの裏付けを持って説明してもらっている、というのが一番実感に近い。ただ、自分自身必ずしもこの難題といえる事態に正面から向き合って来たとは言い難い。だが、どうも、もう逃げてはいられないようだ。いよいよ正面から取組むべき時が来ている。そういう覚悟を新たにさせられる本だ



シンプル族とは?


本の扉のまとめがシンプル族の説明として総括的でわかりやすい。

自動車販売は減っているが自転車は人気だ。百貨店は苦しんでいるがユニクロは絶好調だ。エコ志向、ナチュラル志向、レトロ志向、和風好き、コミュニィー志向、先進国より世界遺産、農業回帰・・・


もう少し付け加えるなら、テレビをあまり見ない、本物志向、物にストーリー性を求める、新しい技術より古い文化に引かれる、大衆消費社会的なカルチャーに否定的といったところだろうか。


もちろん、過去に遡っても、このようなユーザーグループは連綿として存在し、つい記憶に新しいところでも、LOHAS*3など非常に話題となった。問題は、シンプル族がマイナーな存在ではなく、社会のマジョリティーとなりつつあることだ。メインは30代以下くらいの中堅、若年層が該当するが、もう少し範囲を広げて言えば、40〜45歳くらいまではかなり浸透して来ているようだ。しかも、不況の影響を受けた一時的なシンプル志向ではなく、アメリカ型の大衆消費社会に対する明確なアンチテーゼとして、経済的/技術的な進歩より精神的価値を志向している。お金がないから質素な倹約生活をしているのではなく、むしろお金があっても質素に暮らすことがかっこいいと思われるようになってきているということだ。さらには、環境意識の高まりもあって、物を買うことに罪悪感すら感じていると言う。



企業にとっては非常に恐ろしい動向


これは物を売る側にとっては実に恐ろしいことだろう。シンプル族が増えれば、今後不況から脱出して景気が回復しても、従来のようなタイプのライフスタイルや需要は戻ってこないということになるからだ。では、企業がそれに気づいていないかというと、三浦氏はそうではない、と言う。


実際は、企業はこのシンプル族がじわじわ増えてきていることに気がついている。消費者を集めてどんな商品が欲しいかとインタビューすれば、余計なデザインをするな、余計な色を付けるな、余計な機能を付けるな、ゴテゴテさせるな、何もしなくてもいい、普通がいいという声ばかりが聞こえてくるからである。


ではなぜそうした声に耳を傾けてシンプルな物を作ってこなかったかというと、シンプルな物だと高価格にできない。飽きのこないデザインだと買い換えてもらえないという企業側の論理のためである。もうひとつは、シンプルで飽きのこない普通のデザインのほうが、デザイナーのセンスの良し悪しが露呈される、難しいデザインだからである。それほどのセンスのあるデザイナーなら企業内にとどまらずに独立してしまうからである。 『シンプル族の反乱』P8


つまり、薄々気づいてはいるが、手が出しようがなくて困惑しているわけだ。この動向に一早く気づいて成功しているのが、無印良品ということになるが、誰もが無印良品になれるわけではない。大衆消費社会時代のマーケターの常識で言えば、付加価値というのは差異から生まれる。だが、誰もが無印良品を志向すれば、これは全く成り立たないことになる。差異を削ぎ落とせというのがユーザーの要望、というのだから。



大衆消費社会の歴史の否定


現代のマーケティングは、 GM(General Motors)の中興の祖と言われる、アルフレッド・スローン氏から本格的に始まったと言われる。それまでの安価だが全く同じ形で個性のないT型フォードに対抗して、ディビジョンを分けて、高級車から大衆車まで多様なラインアップを展開し、上級車へのステップアップを促す。さらにモデル・イヤーの概念を持ち込み、一度買ったものもすぐに古いと感じさせて、短期間に何度も買い替える気にさせる。広告宣伝を通じて特有のブランド価値を付与し、GMの外にユーザーを逃さないようにする。もちろん日本の自動車会社もこれをお手本にしており、バブル期までは非常に成功したビジネスモデルとして機能していたことはご存知の通りだ。コンセプト自体は、自動車を超えて広く現代の消費社会の常識として定着した。毎年の流行のサイクルで消費を喚起するファッション業界や百貨店業界なども同様だろう。だが、シンプル族はこの浪費的なサイクルそのものを嫌悪する傾向があるという。



ブログへの反響から見える様々な心情


最近話題になったブログエントリーに、ちょっと面白い事例が垣間見える。エントリー自体は、『完全自殺マニュアル
*4等の著作で知られる、鶴見済氏が『電通の広告戦略を分析する』電通のPR戦略を分析する: tsurumi's textというタイトルで電通の姿勢を痛烈に批判する内容である。

70年代の初めに某大手広告代理店(電通と言われている)によって謳われた、以下の「広告戦略十訓」(註1)が我々を戦慄させるのは、まるでアイゼンハワー景気対策のように、それが今も変わらずに生きているからだ。


1.もっと使わせろ 2.捨てさせろ 3.無駄使いさせろ 4.季節を忘れさせろ 5.贈り物をさせろ 6.組み合わせで買わせろ 7.きっかけを投じろ 8.流行遅れにさせろ 9.気安く買わせろ 10.混乱をつくり出せ

(中略)

では、これらの戦略によってムダになっているものは何か? もちろん資源もエネルギーもムダになっているが、一番取り返しがつかないのは、これら全てに費やされている「我々の労働」なんじゃないか。
買わされている側はもちろん、買わせている側も反乱を起こすべきだ。「こんなくだらないこと、やってられるか!」と。


これに対する、はてなブックマークで見る反響が凄い。賛否両論入り乱れてはいるが、大衆消費社会的な宣伝戦略に反発する、シンプル族(と思われる)の生の声が溢れている。

残念ながらこの戦略はSustainableではない。地球の人口を永遠に増やし続けることはできないのだから。


「「消費は美徳」…これらの戦略によってムダになっているものは…「我々の労働」」/食うため、使うために働く→働くために使わせる/なんという賽の河原地獄。この生産性をどこに向けたらいいんだろうなあ。宇宙?


浪費による経済活性化の話。浪費の根本にあるのは地球資源。ある程度若い人間なら、地球環境がどれだけひどくなったか皆理解してる。だからもうムダに買わないし使わないようにしてる。それだけ。


わたしたちは主体=欲望として生きているのではなく、単に消費させられているだけ。


"こんなことくだらないこと、やってられるか!"と言って降りたつもりだったのに、何時の間にか「草食系男子」とか言うレッテルを貼られて消費されていた。


現代の日本ではこのへんの手品のタネがばれて来てみんなモノを買わないので、デフレ一直線な訳ですね。販促の手段として値下げしか知らない馬鹿が多すぎるし・・・

一方で、鶴見氏の意見に理解を示しながらも、賛成の側にまわれない人たちの感想もある。これなど、まさにシンプル族の増加に当惑する企業の心情そのものだと私には思える。


よく批判されるこの10箇条だけど、これを否定しちゃうと産業革命以後の歴史も否定することになるからなあ.


これたしかにムダではあるけれど、これを「悪」だと言い切ってしまうと、大多数の「幸福」の定義を否定しちゃうことになるし、それによって発達したさまざまなモノ・コトをこれからどうすんの?って話に


この過剰消費の基礎の上に現代のあらゆるものが成り立ってるわけだからなぁ

旧来型企業のおかれた恐るべき状況


『シンプル族の反乱』で言われていることは大変インパクトがあると見えて、書評ブログもかなり書かれている。ただ、そのほとんどは、『企業幹部は気づいていないが大変なトレンドがやってこようとしている』という警鐘タイプの内容で、どう対処すればいいかというところまで話が及んでいるものはほとんどない。それくらい出口のない深刻な問題なのだと思う。三浦氏が述べているように、特に旧来型の企業はこのシンプル族の増大を怖れている、というのは本当だと思う。ただ、怖れている企業は本当のところまだましかもしれない。旧来型の企業の幹部の多くはシンプル族増大にある程度気づきながらも、真の意味にいまだに気づかず、根拠のない楽観論で不安を払拭しようとしているように思える。(私の周囲を見渡した限りではこちらのほうが実感に近い。)このほうがはるかに恐ろしい。



ではどうすればいいのか?


偉そうにコメントする私自身に、現段階で妙案があるとは言い難いのが正直なところだが、最低限、下記は意識しておかないと、今度こそ生き残れなくなる危惧がある。(ここからはすべて私の個人的な意見である。)


1.柔軟にシフトする


如何に従来の強みに集中したいと考えても、シフトして無くなってしまう需要に固執していては生き残れない。『選択と集中』は今でも重要なキーワードではあるが、より意識すべきは、『成功の復讐』のほうだろう。



2.本気のフィロソフィーを持つ


大衆消費社会的なマーケターは、個別の価値からはニュートラルで、判断は数値に基づいて客観的であることが求められた。だが、それは結果として上記の『広告戦略十訓』的な企業姿勢につながりやすく、これからはシンプル族の嫌悪の対象となりかねない。環境を破壊し、家族や共同体を破壊し、社会との共生とは対極にあった従来型の企業姿勢から本気で抜け出すことを志向する企業でなければ、受け入れられなくなって行く。しかも、フィロソフィーのない見せかけだけの企業は、簡単に足元を見透かされてしまうだろう。



3.物よりサービス


環境/エコ志向が原則にあるシンプル族は資源浪費的な消費全般を避ける傾向がある。だが、生きること全般に消極的というわけではない。以下は、米国の『カルチュラル・クリエイティブズ』の説明だが、大方、シンプル族のマインドと同じと見て良いと思う。

もっとたくさん物があることがいいことだ、という豊かさと消費についての考え方を最小限に抑え、精神性や健康を重視し、家族や友人と質の高い時間をすごすことを重視する、倹約的な生き方。 外面的にはもっとシンプルに、内面的にはもっと豊になることを志向する。 それは自発的に選ばれたライフスタイルである。贅沢と怠惰を否定する禁欲主義でもない。 『シンプル族の反乱』P41


シンプル族の思想とライフスタイルを理解すれば、彼らの生き方をサポートするサービスは、むしろまだ開拓の余地が多いことがわかる。バブルを生きた旧世代は人目を引くお出かけ/活動には積極的だったが、内面的で精神的な充実という意味ではむしろ貧困だったと言えるのではないか。



4.コミュニティー志向


日本は、経済成長の過程で、家族、地域共同体、そして最後の砦であった企業共同体まで破壊してきた。今や『共同体』『コミュニティー』は希少財である。携帯電話を含むネットコミュニティーは、ネガティブな要素を多分に持ちながらも非常に活発になってきているし、現実にマネタイズに成功している例も、何らかのコミュニティー関連が多い。今後、精神性の高いシンプル族がさらに質の高いコミュニティーを志向して行くことには期待ができる。



5.地域/地方志向


和風、職人好み、古い文化好き、という傾向は、地域/地方の伝統文化の掘り起こしが功を奏することを予感させる。残念ながら、自然と共生してきた日本の伝統文化や風俗は、地域/地方からも消えつつあることは事実だが、地域共同体の復活/活性化と共に、今後の重要なテーマになるはずだ。



6.スティーブ・ジョブズ氏を徹底的に研究する


日本のシンプル族の台頭は、一人日本だけのことではなく、世界的な潮流だという。中でも、米国で、BOBOS *5と言われる、経済的には成功して裕福でありながら、大衆消費社会的な価値に背を向けて、シンプルでカジュアルなライフスタイルを志向する階級が台頭してきていると言う。その代表例は、アップル社のCEOであるスティーブ・ジョブズ氏である。興味深いのは、彼が今をときめくIT企業を率い、技術を語ることだ。彼らが見る社会や技術の未来はけして大衆消費社会的ではない。では、どのような未来が見えているのだろう。おそらくそれは、日本のシンプル族にも受け入れられる、企業や技術のあり方と言っていいのではないか。



やはり『革命』?


ここまで書いて来て、あらためて思うのだが、これはやはり『革命的』で『歴史的』な変化、というような形容が大げさではないことが起きているということだろう。こうしてはいられない。もっと徹底的に探求しておかないと。しかもできるだけ早く。

*1:

シンプル族の反乱

シンプル族の反乱

*2:

無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉 (中公新書)

無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉 (中公新書)

*3:LOHAS - Wikipedia

*4:

完全自殺マニュアル

完全自殺マニュアル

*5:ボボス BOBOS とは:小さな事でも幸せだなと思える豊かな心:So-netブログ