『「少年ジャンプ」資本主義』を読んで現代の『友情』を考える

内容紹介文


この本の内容紹介文は驚く程よくまとまっている。読後に自分の頭を整理するのにも格好の文章だ。

男一匹ガキ大将」「アストロ球団」「北斗の拳」「ドラゴンボール」「ONE PIECE」……。
少年ジャンプ40年の歴史を追いながら、それぞれの年代を背負った人気マンガを紹介し、なぜそれらの作品がその年代に求められたのか、その作品が当時の読者に何を伝えていたのかを論じる。
また、ジャンプの掲げる「友情」「努力」「勝利」という三つの理念が、なぜその創刊の年でもある1968年以降の高度資本主義社会に、しかもグローバルに受け入られたのかを、懐かしいマンガの評論を介して論じ、共同体的なものを破壊し人間を一人ひとりは限界的な「労働者」「消費者」「投資家」に還元してしまう力を持つ資本主義的な世界の中で、「友情」だけがその世界に対峙するための砦になりえることを伝える。
そして、最後には「生きさせろ」ではなく生きていくために、蟹工船的な現実認識に留まるのではなく海賊船に乗ろう!(自分の船を探そう)という熱い主張を展開する。
少年ジャンプ論でありながら、作品論でもあり、少年ジャンプを切り口にした現代史でも、資本主義論でもあるという、一冊で何度もおいしいギャラクテカマグナム級の野心的評論。是非一冊お手元に。

■なるほど!


この本を書店で手にして、タイトルを見た瞬間、『ああ、この手があったか!』とピンと来た。少年雑誌にの作品群がその時代の読者のメンタリティーを知る尺度になること、その変遷は社会を移す鏡であること、少年マンガとは言え、資本主義社会特有の組織論や組織のエートスを非常に見事に活写する作品が少なくないこと等、自分も漠然と考えてはいたことだ。だから、タイトルから、おおよそのストーリーラインの予想がついた。私自身、『少年ジャンプ』の名作として知られる、『男一匹ガキ大将』『北斗の拳』等の大のファンでもあったし、著者の言う、『友情』にほだされ、影響されて来た世代でもある。



日本株式会社全盛期


特に、バブル前までの『日本株式会社』全盛期には、『男一匹ガキ大将』の著者である本宮ひろ志氏の一連の作品で展開される世界が、会社共同体の掲げる理想に実によく符合していたと思う。しかも、『友情』だけではなく、家父長的な共同体における団結、一致した目標の追求、倫理道徳観等、そのすべてが非常に整合していて、日本全体を強い『一体幻想』が覆っていた。正直言えば、個人的には、あまりに没個性的で全人格没入が求められる日本の会社の雰囲気にこっそりと違和感を感じていた私は、三谷氏の言う、人生を語る分学的な作品が多かった『少年マガジン』により惹かれてはいたが、それでも、日本の会社にいる限りはこの『一体幻想』から逃れることはできないと腹を括って、日本株式会社用仮面を被りとおすことを自分に誓ったものだ。しかも、慣れてしまうと自分の本音とは別に、会社に展開する『本宮ひろ志的ドラマ』を楽しめたりする。当時は、そういう日本の会社のやり方が世界に通用するようになったと皆思っていたので、よもや、僅か一世代かそこらでここまで変わってしまうとは、想像もできなかった。



最後の共同体も破壊された


地域共同体を破壊し、家族を破壊して、企業に滅私奉公する見返りとして、家父長的な企業一家が骨まで拾ってくれる。そして、そんな日本の企業における身の処し方は、『少年ジャンプ』が教えてくれた。あの頃の日本は、資本主義というよりは、むしろ社会主義に近いと思うが、そもそも資本主義に様々な変種があることが許容された時代だったと思う。米国型、欧州型、そして日本型にはっきりした違いがあることが認識されていた。その後、アメリカに強要される形で進んだ米国型資本主義へのシフトは、日本に最後に残った『共同体』(会社共同体)を破壊し、裸の個人が非情な市場に放り出されることになる。



『友愛』は『友情』と同義?


民主党の鳩山総理は、代表選の時点で、自身の祖父にあたる故・鳩山一郎首相が掲げた「友愛」を用いて『友愛の日本』をつくることを公約としていた。政権就任演説でも、「友愛とは、すべての人が互いに人の役に立ち必要とされることで、社会に繋がっている絆。居場所を見つけられる世の中」と説明しており、少なくとも個人と市場の間に緩衝材がなくなってしまったことによる問題を認識しているように見える。だが、『友愛』は『友情』と同義なのだろうか。


著者の三ツ谷誠氏は、ほぼ等しい意味であると考えているようだ。(厳密に言えば、鳩山総理の言う『友愛』が同じかどうかは議論があるところだろうが・・。)

翻って近代的な世界では、自由であるがゆえに連帯のきずな、秩序の源泉に求められるのは『友愛』ということになる。『友愛』が『友情』とほぼ等しい言葉であるのは明白だろう。結局、血の紐帯を離れ、自由が貫徹していく世界では、論理的な帰結として個人は個人に還り、だからこそ何より重要になるものは『友情』に成って来るのだ。   『少年ジャンプ資本主義』P290

現代の『友情』のあり方


そして、既存の共同体がほとんど破壊されてしまった今でも、少年ジャンプに掲載される作品は連綿と受け継がれる伝統として、現代の『友情』のあり方を追求していると言う。代表例として、『ONE PIECE』を上げているが、そこで表現される『友情』こそ、現代の日本の会社における従業員同士の理想的な連帯のあり方であると言う。それは、かつてのように自由や個性を抑圧して組織の使命に成員の全てが没入する中での友情とは全く違う。個々人の自由を完全に認めて、違う目的を持ちながら、同じ船に乗り合わせて航海するという目的は共有する。そういう環境での連帯のあり方としての友情である。確かに、『非常な世界に個人が対峙する最後の砦が友情』という表現には、ぞくぞくするような悲壮さはあるが、意図するところはよくわかる。



ハードルは高そう


ただ、一方で株式の論理が貫徹し、より効率的な集団として機能することを求められる会社組織で、個々人が違う目的を持ちながら、友情を育てて行くというのは、結構ハードルが高そうだ。友情に落ちこぼれる者を生み、『友情格差』が広がることはやはり避けられないのではないか。現代のサバイバル術の第一は、学歴でもなく、肩書きでもなく、『友人をつくること』だとする宮台真司氏の意見を否応なく思い出してしまう。三ツ谷氏も指摘するように、『友愛』は理想ではあるが実現は簡単ではない。『友愛』『自由』『平等』を掲げたフランス革命は、建前としての『友愛』が時に非常に脆いことを見せつけた。

共和制の理想とする国家は、自由な個人が『友愛』の精神で築き上げる公的な世界そのものだろう。しかし、歴史が教えてくれるのは、巨大な怪物に転化する可能性を持ち、(繰り返すが)暴力の主体でもある国家を『友愛精神』だけで構成することの困難さだ。 『少年ジャンプ資本主義』P290


どなたかの書評にあったが、少年ジャンプの代表作と言うなら、『デス・ノート』を語らないのは片手落ち、という意見は面白い。『デス・ノート』の人気は、共同体の消失が進行するに従って、虚無的な深淵が見えて来ている証左だと感じるのは私だけだろうか。



できることはすべてやるべき


それでも、少年ジャンプが、これからも変わらず、友情や連帯のロールモデルを追求し続けることは、三ツ谷氏の言う通り、絶望ではなく希望を語ることだと私も思う。マンガに限らず、小説でも、評論でも、あらゆる努力がそこに注がれるべきだとも思う。それに加えて、為政者は『友情』に落ちこぼれる、『友情下流』への配慮を欠かないで欲しいものだ。抽象的な『友愛』を語るだけではなく、多層的な共同体復活を企図する具体策がなければ、日本はもうもたないかもしれない。そんな危機感を最近は強く感じる。