やっぱりおかしい ー 日本の教育


内田樹氏の教育論


内田樹氏の教育論は、いつも大変興味深く読ませていただいている。意識して氏の教育論に対する賛否を確かめてみたことがないから、世間ではどんな評価を受けているのかあまりよくわからないが、私自身は原則賛意を感じる事が多いし、教育論以外の別の社会問題を考えていても、内田氏の問題指摘の背後にある、『現代日本の困った状況』にぶつかって、はっとすることが大変多い。


9月18日の内田氏のブログエントリーでも、同様のテーマが扱われている。文面からは、何度言葉を尽くして説明しても、なかなか理解を得られない苛立ちが感じられる。『そんな当たり前のこと、どうしてわからないんだ!』という気持ちが伝わってくる。

学校教育についての評言のほとんどは、それがどういう「利益」を「受益者」である子どもたち、および「金主」である家父長たちにもたらしているかを基準になされている。けれども、学校教育の本義は「利益」によって表示されることはできない。その人類学的使命は「子どもを大人にする」ということに尽くされている。「大人」とは人間の社会的活動の意味を考量するときに「それをするといくらになるの?」というような「子どもじみた」問いを発しない人間のことである。
いま、学校教育に求められているもの (内田樹の研究室)


教育を語る『識者』と称する人達、大人になり切れない多くの親達に対する胸のすくような一撃なのだが、おそらく、こういうもっともわかって欲しい人には届かないのではないか。私のまわりも、「それをするといくらになるの?」という「子どもじみた」問いを発する自称「大人』ばかりだ。この自称「大人」、中々に手強い。何せ、一番の特徴は『思考停止』だ。自分が正しいと信じ込んでいる。



お金を稼ぐ能力も落ちている?


内田氏の別のエントリーにもあるとおり、教育現場にも市場原理を持ち込めば、教育の改革ができるというふれこみで(その集大成の一つは、安倍内閣の下で結成された『教育再生会議』)、多くのビジネスマンが参入した。だが、少なくともここまでの結果は惨敗としか言いようがない。どうしてこんなに簡単に、市場原理が万能と考えてしまうのか。『子どもじみた』自称『大人』だらけになったからなのか。市場原理を導入して、せめて『お金』を稼ぐことが得意な人材はさぞ沢山輩出したのだろうと思いきや、どうもそれも上手く行っているとは言い難い。それも当然で、そもそも英語、計算力、漢字の読み書き等、これほどレベルが低下してしまえば、ビジネスマンとしての能力も上がりようがあるまい。

株式会社立大学の末路 (内田樹の研究室)




英才教育も失敗?


学力という点では、格差が拡大して、偏差値の高い大学には資力のある親でなければ子どもを送り込めない、という議論も昨今盛んだ。そうであれば、そういう、いわば『英才教育』を受けて、偏差値の高い大学に入った学生は少なくとも優秀であるはずだ。ところが、これも残念ながらあやしいらしい。宮台真司氏によれば、自身偏差値70を越える大学の学生を指導していても、どんどんレベルが落ちて行くことを実感するという。そして、英才教育は役に立たないと断言する。

http://pod.jfn.co.jp/susume/dl/susume_vol145.mp3
ラジオ版 学問ノススメ Special Edition



ビジネスでも使えない?


ビジネス、というなら、今の日本のビジネスシーンで市場を理解できる人材は育っているのだろうか。これは私自身参加しているフィールドでもあるから、多少なりとも一家言あるつもりだが、残念なことにこの領域でも、レベルが下がっていることを指摘せざるを得ない。MBA的なビジネスのツールやノウハウに長じた人は明らかに増えた。成果というなら、それは成果の一つであることは確かだ。だが、実際の市場はマニュアルなツールを持っていれば勝てるというものではない。わかりやすいマニュアルとツールで競合が追って来れない戦略をどうやって構築するのか。参入者が増えれば増えるほど、洞察力やイマジネーションといった要素が必要になるのだ。センス、といってもいい。


私の知る限り、確かにかつてマーケティングはわかりやすいフィールドの一つだった。科学的分析もある程度通用したし、自分の知識で市場やユーザーをコントロールできるような醍醐味を感じる事ができた。だが、今にして思えば、それはコミュニケーション・チャンネルがTVや新聞等非常に単純だったころの話で、今のようにインターネットが浸透して、商品情報も一方向から大量に流すというより、口コミで予想もできないような広がり方をする時代には、『コントロール』というような発想は捨ててかかる必要がある。特に日本では、もはや消費者の意識的な行動や意見をたどるだけではなく、無意識を如何に把握していくか、その手法開拓のイマジネーションこそが競争力の源泉になりつつある。



教育に本当に必要なもの


内田氏も宮台氏も異口同音に語るのは、教育で一番必要なのは、子どもに強い『感動』や『憧れ』を感じることができる圧倒的な人格/人物に引き合わせてやることの重要性だ。宮台氏の言い方を借りれば、『感染』してしまうような師に出会う事ができれば、その師のようになりたいと感じて、自分から勉強に取組むようになる。そして、『子どもじみた』世間が如何に騒ごうが揺らぐことがなくなる、ということだ。知識や技術だけを詰め込んでできるのは、せいぜい質の悪いコンピューターだろうし、経済的な報酬だけで研究のインセンティブが事足りるというのも、どうみても歴史へのイマジネーションが貧困過ぎる。『感動』や『憧れ』を与えることができる大きな人格は、多くの場合、経済的報酬を飛び越えたところにこそいるはずではないか。こんなことあたりまえのことが社会の知恵の蓄積としても失われてしまったということか。子どもに語り継ぐ、『大人』もいなくなってしまったのか。



現状認識が第一歩


市場にまかせればすべてうまくいくとまでは言わないまでも、ビジネスのような実業教育は進むだろうというという観測も、もろくも崩れた。創造力を高めようという高らかな目標どころか、基礎学力も意欲もなくしてしまうとは、なんということだろう。来るべき2010年代を衰退と崩壊の10年にしないためにも、ここいらで何としても旋回しないといけないと思う。そのためには、ゼロ年代の現実をどんなにきつくてもきちんと総括して教訓を引出しておくことが不可欠だ。時々、こうやって振り返ってみる事はその第一歩だと思う。(最近、いつもこういう結論になる。) 特に、『教育』というテーマは、あらゆる基本にある重要な問題だ。これから何度か振り返って書いてみようと思う。