自分自身の思想と物語の始まり

民主党の圧勝


今ちょうど、総選挙の開票の情報を見ながらブログを書いているが、事前の予想通り、民主党が圧勝だ。こうなるだろうことはすでに十分予想できたとは言え、やはり現実に開票の結果を目の当たりにすると、あらためて感慨深いものがある。自民党の大物議員が続々と落選する様を見ていると、戦後を支えた『権威』と『常識』がとうとう本当に終わりを迎えていることを実感する。同時に、どの領域でも、現象としての『変化』が本格的にやってくる予感を強く感じる。


だが展望はない


選挙戦を前に、国民が何らかの変化を望んでいる事が繰り返し報道されていたし、皆がそう感じた結果が、『政権交代』を後押ししたことは、誰もが認めるところだろう。だが、だからと言って、具体的にどのようになるのがいいか、という展望については、各政党から示されていないと言う以上に、有権者=国民の側にも具体的な見通しを欠いていた。選挙という形を通じて、非常に鮮明にそれが浮かび上がったように思う。



問題点は明確


もちろん、国民が明確に意識する共通の問題点はある。今回の選挙で野党(旧野党というべきか)が強調したように、生活の基本設計がままならないような今の日本の状況は、大変深刻なものだ。5.7%という、過去最悪の失業率の数値もさることながら、ごく普通の、一昔前なら、『中流』と呼ばれていた人が、何かのきっかけで失業すると、ただ仕事が見つからないだけではなく、親族や地域のコミュニティー等の一昔前ならどんな形であれ伸びて来たであろう救いの手も差し出されることなく、ホームレスや生活保護にまで一気に転落していくということが本当に起きる。その数の多さは、それこそつい最近まで私達が日本の社会に対して抱いていた常識を持っては測れないレベルにある。しかも、その状況は当面改善される兆しは見られない。とにかく目先の稼ぎを確保して、生活を成り立たせることに必死、というのが大半の人の偽らざる実感だろう。



経済成長だけに頼れない


昨年のリーマンショック後の流行現象とでも言っていいと思うが、一種の『経済成長不要論』が様々な形で喧伝されてきている。経済成長があれば分配論をあまり気にせずともある程度の成果が広く社会に行き渡るような、かつての状況とは今は違ってしまっているため、数値としての経済成長を押し上げることだけに血道を上げるのでは、その副作用のほうが大きくなるケースも少なくない。そういう意味でなら、私もあるていど賛成できる部分もある。数値だけではなく、中身を吟味することが未だかつてない程重要になっている。量的成長が七難をかくす、というような牧歌的な時代ではない。だが、今のように経済全体が疲弊して、今後の見通しも非常に厳しい状況では、緊急対策としての財政投入やむなしという局面もあるため、せっかくの議論が健全に発展しなくなることが心配だし、現実に残念な議論も多い。



価値の尺度は変わらない


選挙戦で盛んに喧伝されたように、小泉・竹中改革に現状の日本の問題の原因をすべてを押しつけているようでは、2000年代(ゼロ年代)に起きている本当の問題を見過ごしてしまうだけだ。確かに、新自由主義的な政策のマイナス面が世界的な不況によって干上がってしまった今の日本においては非常に目立つため、悪者にされるのも無理からぬところがある。その時代のヒーローに祭り上げられたライブドア元社長の堀江氏(ホリエモン)やトレーダーの村上氏がが退場し、金融経済の総本山のアメリカの破綻もあって、経済成長、お金第一主義はすでに終わったと少なからざる人が考えているのは本当だろう。だが、いまだに今の日本社会は、その尺度として、金銭価値以外のものを見出しているとは言い難い。確かに、金銭に関するホリエモン的楽観は影を潜めて来ているとは言え、けして何か別のものを見つけたわけではない。本も内容より売れたかどうかで価値がはかられる。教育もよりよい就職や経済的成功に役立つことでその価値が決められる。有識者と言われる人たちも、どのような発言をしているのかという以上に、どれだけメディア露出が多いか、本が売れているかというような量的な判断基準が優先する。金銭価値以外が価値尺度として認められない社会は、一種の拝金主義と言って間違いはなかろう。



ニヒリズムの影


どうしてこうなったのか、というのはとても答えが長くなる(難しくなる)質問だが、この傾向が続くことが余り健全ではないことは比較的簡単にわかる。生活満足度調査の国際比較統計を見ると明らかなように、GDPと生活の満足度は比例しない。ということは、金銭的価値しか価値判断の基準がないのに、かりに金銭を今より多く得る事ができても、満足度向上には直接はつながらない。少なくとも今の日本では他の環境が変わらずに、金銭だけ増えても生活満足度は上がらないはずだ。では、どうなるのか。すでに、その徴候は濃厚に出ているのだが、一種の『ニヒリズム』が蔓延して行く可能性が高い2ちゃんねる的な冷笑、ニートの無気力感、自動車に代表されるモノ離れ、草食系男子の増加等、さまざまな観点はあるが、少なからずニヒリズムの影がさしていると言わざるをえない。



結局価値は多様化していない


確かに、モノ離れ、消費抑制、仕事中毒からの解放等の傾向にポジティブな面がないわけではない。それどころか、地球環境にやさしいという意味では、むしろ積極的に評価してもいいくらいだ。だが、ひと頃話題になった、『スローライフ』などは、『時は金なり』的なスピードの中で、前しか向けなくなった生活のアンチテーゼとして、スローなライフから深い満足を得ようとする、金銭以外の価値への希求という視点がはっきりとあったように、モノへの執着を離れ、自然の声を聞く等の今まで気づくことのなかった満足を知るため、という目的意識が何かしら感じられたものだ。ところが、どうも最近では、こういうアプローチもあまり多くの賛同を得ているとは思えない。何やら、80年代の『記号消費』による消費爛熟が行き着いく先として言及されていた悲観的な未来が来ているように思えてならない。価値は多様化したのではなく、多様化を求めて挫折して、結局金銭的尺度だけ残ってしまったのかもしれない。



自分自身との対話


では、この状況は今後どうなっていくのか。どうすればこの状況を打破できるのか。歴史の教えるところによれば、一つの解決方向はハードランディングだ。社会に不満のエネルギーが溜まって暴発すれば、嫌でも現状は変わって行くだろう。それがいやなら、それを避けるにはどうすればいいのだろうか。『自分探し』に奔走し、『価値の多様化』を求めて只ひたすらに消費の多様化を求めた時代には、皆価値をひたすら外側に求め、その承認を他人に求め続けた。これからは、大きな声にはかき消されてしまいがちな、声なき声、特に、自分自身の本当の気持ちに耳をよくすましてみる事で、自分の中にそれを見つけていくしかないのだと思う。確かに、思想も物語も衰退した。だが、大抵の人は他人の思想や物語を真似ることはあっても、自分に内在する小さいが確実な声に耳をすますことはなかったはずだ。頭で考えるのではなく、全身で感じること。そして真摯に自分と対話すること。そうすればニヒリズムの罠から抜け出し、自分自身の思想と物語が必ず見つかるはずだ。また、そういう探求を差し置いて経済社会の改革を志向しても、分配を争って暴発するかニヒリズムに沈むかのどちらかしかないように思う。選挙の結果を最大限生かして本当に改革をしたければ、まず自分自身を感じ、対話を始めることがとても重要だと私は確信している。