『はてな』の評価について


はてなのサービスの進化


一連の梅田望夫氏発言から端を発した騒動の中で、『はてな』のことに言及した発言もたくさんあったわけだが、実はこのことがずっとひっかかっていた。ここ数年、『はてな』はサービスとしてちゃんと進化したのか、という問いに対しては、玄人筋の評価は必ずしも悪くない。私のブログの師匠なども、すごく良くなったと断言する。確かに、はてなブックマークなど使い勝手は良くなったし、何より検索能力は格段に向上した。任天堂とのコラボレーションで始まった『うごメモはてな』も斬新で面白い。他のサイトとの比較で見ても、頑張っていると評価してあげるべきであることはよくわかる。


しかしながら、どうも、正直割り切れないものがある。もっと多くをはてなには期待していたのに、その期待ほど進化していないように思えてならない。だが、どうしても適当な言葉にならない苛立ちがあった。ところが、先日、『はてな匿名ダイアリー』で、次のエントリーを見つけて、自分の苛立ちが何だったのかよくわかった。短い文章なので、全文引用させていただく。

梅田望夫氏はなぜはてなで「文系のオープンソースの道具」を作り上げようとしないのか

梅田望夫氏の著書「ウェブ時代をゆく」を読んで氏が述べている「文系のオープンソースの道具」という物に期待してたんですよ。

でもそれを実現する為の片鱗がはてなのサービスで見られるかというと全然ない訳です。おそらく、それに一番近いと思われるはてなグループも大分前にリニューアルがあったという話を聞いたきり、音沙汰が無い。

僕個人の勝手な思いとして、はてなにはネットの「コクヨ」になってほしいと思うのです。現在のネット上には大学ノートもホワイトボードもキャビネットもありません。今はなんとかハックみたいな伊藤家の食卓的テクニックを使わないとまともに使えないWebサービスしかなくて、どうかそれを埋めてほしいのです。

以前、教育機関向けにはてなのサービスをアピールする広告を出していたのを目にしました。でもそれをまともに受け止めるだけのものがいまのはてなにあるでしょうか。僕はとてもそうは思えないのです。

私も、梅田氏の『ウェブ時代をゆく*1を読んだとき、はてなに対してほぼ同様の期待をした。 そして、今思えばそれは過大な期待だったというべきだろう。



はてなのすばらしさ


今、手元に、はてなの社長である近藤氏の著作、『「へんな会社」のつくり方*2がある。あらためて読んでみると、種々気づくところがある。


はてなの組織のつくり方、会社の運営の仕方等は非常に斬新で、旧来の常識にとらわれない自由と行動力に溢れている。社内で情報を共有するだけでなく会議を一般公開してユーザーとも共有する、社員の決まった席というのはなく、毎朝好きな場所に座らせる、偉くない管理職、ブログで人材採用等々、『イノベーションの活性化』という目的のためよかれと思われることは、即座に実行する。本を読んだだけで、自由闊達な雰囲気が伝わってくる。


常識という名の停滞に阻まれて、思ったことが何もできない日本の大企業の実態をさんざん味わって来た私自身も心から喝采を送ったものだ。(もちろん今でもそうだ。) 今や日本は政治も、官僚組織も、企業も、どこもかしこも旧弊から抜け出せず停滞し、先進国の中でも、最も身動きが取れなくなっていると言っても過言ではない。だから、会社としてのはてなにも、社長の近藤氏にも、大いに元気をいただき、期待もした。それは私だけではないからこそ、その一挙手一投足が非常に大きな話題になって来た。



人文知が活躍するフィールド


ところが一方で、はてなはコミュニティー・サービスを提供する立場でもある。インターネットはいわば、『みんなが参加してつくる巨大なデータベース』なのだから、はてなはてなブックマークをはじめとして、コミュニティー・サービスに一早く参入していることは、近藤氏のビジネス感覚の鋭さの現れと言っていいと思う。ただ、参加者が増えるとともに、名誉棄損、プライバシー、著作権侵害等の違法行為や違法行為的な問題を裁いていくことが不可欠なサービスでもある。そして、この領域は、『常識』『歴史観』『思想』というような、人文知が活躍するフィールドである。少なくともそういう智慧があれば、失敗を未然に防ぐことができる可能性が広がる。逆にその智慧がなければ、失敗を延々と繰り返すことになりかねない。『「へんな会社」のつくり方』を読むと、残念ながら、その当時はてなには、そういう素養のある人がいないか、関与するしくみになっていないことがわかる。



法令の内容や立法の意図、過去の判例など、サービスを作る前は想像もしなかったような知識を用いた判断が必要となり、これには正直なところ少し驚きました。 同掲書 P116



一連の出来事を終えて強く感じたのは、十分に社内で議論を尽くしていても、時としてその内容が、多くの一般ユーザーの意識から大きくずれたものになり得るということでした。社員全員で同意したとしても意見が足らない可能性があること、誤った判断を行う可能性があることを受け止めなければいけません。 同掲書 P122


ナイーブ過ぎないか


自分たちの失敗や足りないところを率直に認める潔さはとても気持ちがよいのだが、長く人文知の助けが必要不可欠な仕事をしてきた身としては、ナイーブ過ぎるといわざるを得ない。『みんなで話し合えば正しい答えが見つかる』というのは時として正しくないこと、群集の無意識は時として合理というより不合理としか言いようがないことなどは、基本的な人文知の教えるところだ。確かに、『みんなの意見は案外ただしい』が、あくまで『案外』だし、裁判員制度導入に関して議論されたように、専門知を持つ人が必要な領域というのは厳然としてある。私も、梅田氏の一連の著作やブログを読んで、上記にあるような、『文系のオープンソース』や『人文知の叡智の結集の場』がはてなで構築されてくことを夢想した一人なので、つい期待過剰になってしまったようだ。



それでもはてなを応援する


だが、これから先の期待までやめてしまおうとは思わない。そもそも日本のインターネットの混沌など、いわば想定済みだからだ。エリートが自覚をもって、整然とインターネット世界が整理されていくなど、もちろんそうあって欲しいとは思うけれども、そうならなくてもちっとも不思議だとは思わない。社会や人間というのは、そんなもので、だかこそ人文知の必要はなくならない。混沌としているから、『残念』と引き下がる必要もない。混沌結構。不合理結構。ここからが始まりではないか。近藤氏のアメリカへの挑戦でもそうだが、誰にどう見られようと、自分が納得するまで追求し、敢然と行動するバイタリティーは大いに魅力的であることは変わりない。賢人面して何もしないよりはずっといい。きっとこれからも急速に学んで行く人達だろうと思う。だから、自分ができる支援は(そういうものがあるのならだが)惜しまない。そして、これからもはてなを応援したい。

*1:

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書)

*2:

「へんな会社」のつくり方 (NT2X)

「へんな会社」のつくり方 (NT2X)