地域問題の現在と展望について

地域問題を振り返る


先日、あるセミナーで久しぶりに地方新聞社のU氏に会う機会があり、地域メディアへの取組みの熱気や真摯な姿勢をあらためて感じさせていただいた。私自身、いわゆる『地域問題』については、長い間、『いつか真剣に取組むべき巨大な問題』と考えて来た。だが、正直なところ、興味は人一倍あるのに、正面からなかなか向き合えないでいた。U氏の直接の問題意識は、主として『地域情報の活性化による地域の活性化』であり、一義的にはIT技術の発達をこれにうまく生かす事ができないか、というものなので、必ずしも巨大で深刻な問題自体にとらわれることなく進めることもできるとは思う。だが、私のみたてでは、どの観点から地域問題に取組んでも、意外と早く構造的な問題に跳ね返されて、なかなか期待した程の成果が出にくいように見える。問題の所在と今後の方向を、宮台真司氏の『日本の難点』*1をテキストにして、この機会に振り返ってみたいと思う。



工業化による地域問題


歴史的に見ると、地域問題は、まず明治以降の日本の産業化=都市集中化による、過疎化/過密化として顕在化してきたわけだが、その後地域経済の窮乏を回避するために工場の誘致が盛んに行われ、環境破壊が顕在化することになる。だが、いわゆる『公害』問題に対する世間の風当たりが強くなり、加えて、エネルギーショックで、資源利用効率向上の必要性にも迫られた日本企業の必死の努力もあり、取り敢えず当面の危機は乗り切ることに成功する。日本の製造業はこの時期世界最高水準にまで至り、世界市場を席巻することになる。この製造業による産業化は従来の日本の農村を中心とした村落共同体を破壊したが(今もそれ自体深刻な問題だが)、一方で、製造業内に、疑似共同体の基盤が作られ、その共同体がある程度機能することで、一定の安定を見る。その過程で、企業と地域との関係がしばし問題になってはきたが、それでも企業収益の向上とともに、沈静化して行った。



流通化等による地域問題


だが、現在までつながる、次の危機の諸相はそれ以降本格的になる。およそ今から20年くらい前、日本の製造業は米国を追い越し、米国は製造業からの事実上の離脱を開始した。以来、流通/金融/IT(インターネット)による産業の活性化をはかり、それは少なくとも金融危機が表面化する昨年までは、米国一極集中のグローバリズムを強力に後押しし、米国に空前の活況をもたらした。(先日、米国の製造業のシンボルであった、GM(ジェネラル・モータース)が破綻したが、今日の状況は、20年前からすでに予想できたことだった。さらには90年代後半のGMの収益が、半ば金融業に支えられていたというのも象徴的な出来事と言えるかもしれない。)



まちづくり3法の大きなインパク


その米国は、日本の製造業をターゲットとして(そして自らの主導するグローバリズムの一貫として)、日米構造協議、対日年次改革要望書等を通じて、日本経済のサービス化、流通業/金融業化を要求し、日本は諾々とそれを受け入れて来た。この内、特に地域に重大な影響をもたらしたのは、大規模商業施設の店舗規模の制限などを主目的とした大店立地法大規模小売店舗立地法)から、事実上規模による出店制限を廃止した、まちづくり3法(98年に制定)*2である。これも、従来の大店立地法が、『海外資本による大規模小売店舗の出店を妨げる非関税障壁の一種』であるとする米国の圧力に屈したかたちだった。当時の国際情勢を勘案すると、この決定の歴史を今の観点で裁くことは酷とも言えるが、結果的にはこれが地域にとって、非常に大きな転換点となった。



決定的なダメージを受ける地域


実際に、地域に大規模小売店(スーパーマーケット等)が大々的に出店し、地域社会は大きな変貌を迫られることになった。地元商店街は軒並み競争に負けて歯抜けとなり、『シャッター通り』現象*3を生んだ。地域固有の店やサービスは大規模なファミレスやファストフート等のチェーン店に圧倒されて消えて行き、三浦展氏が名付けた『ファスト風土化』*4をもたらした。(ほぼ同様な趣旨で、『マクドナルド化*5という言い方もある。)地域固有の特色はなくなり、全国どこに行ってもどこかで見たような風景に一変した。しかも、このシステム化は、地域の交通を基本的に自動車をベースとしたものに変え、地域を『自動車がなければ生活ができない』場所へ変えた。そして、何より、地域共同体が成り立たなくなった。



問題の本質


このあたりの問題の本質を非常に明快に表現してあるのが、宮台真司氏の『日本の難点』の次の一節だ。

(中略)米国からの要求に応じるがままにすれば、日本の<生活世界>の、相互扶助で調達されてきた便益が、流通業という<システム>にすっかり置き換えられてしまうことも、予想できたことでした。   <システム>の全域化によって<生活世界>が空洞化すれば、個人は全くの剥き出しで<システム>に晒されるようになります。『善意&自発性』優位のコミュニケーション領域から『役割&マニュアル』優位のコミュニケーション領域へと、すっかり押し出されてしまうことになります。 物理的空間に拘束された人間関係は意味をなくし、多様に開かれた情報空間を代わりに頼りにするようになります。それまでの家族や地域や職場の関係から何かを調達するよりも、インターネットと宅配サービスで何もかも調達するようになります。その結果、何が起こるのでしょうか。答えは簡単。社会が包摂性を失うのです。経済が回るときには社会も回るように見えますが、経済が回らなくなると個人が直撃されるようになります。なぜなら、経済的につまずいても家族や地域の自立的な(=行政を頼らない)相互扶助が個人を支援してくれる社会が、薄っぺらくなるからです。 『日本の難点』P34〜35

日本にとっては死活的な問題


だが、グローバル化に巻き込まれたのは日本だけでなく、そもそも当の米国も同様の苦難に巻き込まれているのでは、という疑問も起きてくる。確かに、米国でもそうだし、世界各国が何がしかの苦難に直面している。しかしながら、地域問題が日本にとって死活的に重要なのは、日本人が共同体を構築して、他人にコミットする源泉は、近接性、すなわち近い場所に住んでいるもの同士の紐帯、その集合体としての国土、風景等に対する愛着だからだ。米国のような宗教(キリスト教)による共同体や紐帯も、中国人やユダヤ人のもつ血族的な共同体も日本にはない。だから、世界の他国と比べても類がないくらい、地域共同体の崩壊は非常に深刻な問題となって日本の社会を蝕むことになる。



日本の官僚のモラルの源泉


さらに、宮台氏は、民俗学の祖である、柳田國男氏を取り上げて、次のように主張する。

日本には高貴な義務(ノブレスオビリージュ)の伝統がないと言われます。半分は正しいですが、半分は誤りです。なぜなら、階級的伝統はなくても、農村共同体的な代替物があったからです。それは柳田自身が注目している「『故郷に錦を飾る』『故郷に幸いをもたらす』ために国家に貢献する」という感受性です。柳田に従えば、国土が荒廃し、農村が空洞化すれば、「顔が見える者たちのために道具的に国家にコミットする」という帝大エリート的な感受性も失われる道理です。『日本の難点』P259


昨今の官僚の無軌道ぶりは、かつての非常に高い責任感を持って忠勤していた官僚と比べてあまりに落差がある。だが、逆に言えば、かつての国家官僚がなぜあれほどまでに、高いモラルと責任感を持っていたのか、このような説明を読むとと非常に納得がいく。それはまた、自分自身、心のどこかに『故郷に錦を飾る』式のメンタリティーを持っていたことを思い出すからでもある。地域/国土/風景は、誤解を恐れずに言えば、長く日本人の宗教心の源だったと言える。社会が社会として、日本が日本として存続するためには、この問題にどうしても向き合わないといけない。地域のかわりに、宗教や民族、今で言えば、インターネットのSNS等を利用することによる解決策はないのか、という疑問は当然だが、これに対しては、宮台氏は次のようにきっぱりと否定している。

我々が数百年単位の長い話をしているのでもない限り、宗教や階級や血縁など代替的なプラットフォームを利用できるようになることは、まずありません。従ってそうしたことは政策になり得ません。我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた<生活世界>の再構築だけなのです。『日本の難点』P260

ノスタルジー(復古主義)は役立たない


私もこの見解には全く異存がない。ただ、単なる復古は絶対に避けなければいけない。旧来の家族や地域は、強い同化圧力と同時に異物の排除を徹底する、恐るべき面があって、近代化の旗頭の基に、多くの人が旧家族/地域からの脱却に取組んだ歴史も同時に大変重いものだ。

家族の包摂性、地域の包摂性、宗教の包摂性といっても、かなり強い『社会的排除』を伴う旧来の家族や地域や宗教の、復活や維持を構想するわけにはいきません。単なるノスタルジー(復古主義)では役立たないということです。
『日本の難点』P135

社会システム理論的アプローチの必要性


では、どうすればいいのか。

そこで、社会システム理論の出番です。昔の関係性を取り戻せず、取り戻しても役立たないのであれば、同様の『社会的包摂』機能を果たしつつ、かつての『社会的排除』機能の副作用が少ない、新たな相互扶助の関係性(新しい市民社会)を、構築し、維持するしかありません。『日本の難点』P136


果たして、そんなことができるのだろうか、と感じる人も多いかもしれないが、ただ、必然的な方向性という意味で、貴重なガイドラインが示されていると感じる。



明るい兆し


この点、私は最近、比較的明るい見通しを感じている。今般の経済金融危機のような価値観の大きな変動期を迎えた人々の価値意識の転換、IT技術の浸透は、地域問題にとっても悪くない兆しだ。しかも、今の状況をビジネスチャンスとして活用しようとする数多くのインターネット企業のコミットも見られる。ジャーナリストの湯川鶴章氏によれば、20世紀的な産業化(大規模化による効率化)によって削ぎ落とされた、人間的なきめ細かなサービスの部分が、インターネットを含むIT技術によって、今後続々と復活してくる可能性が高いという。私も前に書いたが、オークションなどという古くさく、大規模で維持することが難しくて、一部の特殊な場でしか機能しなくなったシステムが、ebayYahoo!オークションに見られる通り、インターネットで大々的に復活を遂げるような例も目の当たりにしている。このような動向は、『地域の新しい関係性構築』にとっても大変参考になると思う。長くなったので、このあたりの論点はまた別途取り上げたい。