自分にとって残念な日本とは

梅田望夫氏へのバッシング


梅田望夫氏のインタビューが、大変な物議をかもしている。なんだか、しばらく前のTwitterでのつぶやきが炎上したときのデジャブー(既視感)を見る思いだが、やはり梅田氏の思いは、サバティカル*1を取っても、趣味の将棋に没頭しても晴れることなく、鬱積は溜まりに溜まっていたようだ。もっとも、前回のTwitterの 発言を含め、梅田氏の断片的な発言等をつぶさにフォローしていて、今回のような発言につながる思いが梅田氏の体内に充満していることは、十分に察しがついた。自ら語るまいと決意していたかに見える、梅田氏の固く閉じた口を開かせ、すべての思いのたけを吐き出させることに成功した、岡田有花女史のイ ンタビュアーとしての力量は大したものだが、正直なところ少々痛々しい。いったん語りだせば、こうなることはわかっていたし、しかも大変な反発をくらうことも予想できたことだ。


日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く(前編) (1/3) - ITmedia ニュース

Web、はてな、将棋への思い 梅田望夫さんに聞く(後編) (1/3) - ITmedia ニュース

梅田望夫氏Twitter発言について遅ればせながら一言 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る



貴重な問題提起


案の定、堰を切ったようにバッシングが溢れ出ている、バッシングの多くは、心情としてはもっともなものも多いが、どうも問題の焦点がずれているような気がする。 はてながどうこうとか、取締役として無責任とか、それはたぶんみんなあたっているのだろうが、梅田氏が問題にしたいことは、そんな範疇のことではないから、そのレイヤーの批判では、かみ合うはずがない。梅田氏に賛成しようが反対しようが、本来十分に考えてみるべき貴重な問題提起が厳然としてそこにあるのに、ほとんどの人に気づかれることなく、バッシングの波間にかき消されてしまっていることこそ『残念』だ。


そう思いながらも、今回沢山あがっている関連のエントリーを読んで行くと、『貴重な問題』を何とか救い上げようとしていて、その意味で一番議論がかみ合っているのは、海部美知さんのエントリーだと思う。


梅田さんが「好き」であって、日本でもその登場を期待したネットの世界とは、「バーチャル・アテネの学堂」だったんじゃないかと思う。


(中略)そういった大きな仕組みの中で、「チープに手軽に、地理的制約もなく、自らの考えを公表したり議論したりすることができる」という特徴を使って、知的な議論が交わされ、シリコンバレーでよく使われる用語を使って大げさに言えば「世界をよりよくするため(to make the world a better place)の知識」が形成され、それが多くの人の手によって実行に移されていくことが「すごいこと」なんだと思う。


(中略)ネットというツールを使えば、たとえうつし身は日本企業の泥沼や子育ての桎梏にあったとしても、心だけはアテネの学堂に参加することができる、ということが「すごいこと」なんだと思う。


(中略)その世界が、これだけ「知的能力」の高い人がたくさんいながら、日本では絶望的に小さいということが、梅田さんが「残念」と言っていることなんじゃないかと思う。


梅田氏と「アテネの学堂」 - Tech Mom from Silicon Valley

だが、この『バーチャル・アテネの学堂』を日本で実現するには、インターネットのインフラという器が出来ても、それだけでは不十分だ。海部さんはさらにこう指摘する。


ネットというツールだけでは不十分で、背後に「にわかには役に立たないけれど、知識を共有して議論する過程はかけがえのないものである」という思想が必要で、そのためには参加者も、十分な数と質をもって必要だ。

梅田氏と「アテネの学堂」 - Tech Mom from Silicon Valley



近年の日本の『思想』の衰退


近年の日本では、自分自身でとことん考え抜き、誰かととことん語り合ってみるということが、どんどん少なくなっているように思われる。だから、『思想』に興味を持って接してみようと言う人を見つけること自体、非常に難しい。それどころか、思想などに興味を持っているなどと言おうものなら、変人扱いされたり、煙たがられたりするのがおちだ。これでは、どんなに日本のインターネットインフラの質が向上しても、梅田氏の期待するような状況が日本で実現することは難しい。梅田氏は、『現代思想』が日本でものすごく盛り上がった時期に青年期を送っている人だか ら、よけいにいらだちを感じるのではないか。あの頃の雰囲気が今もあれば、だれもがインターネット時代の到来を大歓迎して迎え、皆で、『バーチャル・アテネの学堂』をつくり、考え、議論するはずだ、ということだろう。確かに、今の日本の『思想』の窮状は、あの時代の空気を多少なりとも知る私も『残念』だ。


どうしてそうなったのだろうか。みんなの頭が悪くなったとは思えない。それどころか、金融工学等、とてつもなく難解なことを楽々とこなす人も、日本でもずいぶんと増えた印象がある。だが、どうにもいやになるくらい、皆が口をそろえて『功利』『効率』『自利』ばかりを語る。そして、政治は利害と配分の調整ばかりだそこには、力のある思想も理念も感じられない。もちろん、そういうことをすべて否定するつもりは毛頭ないし、むしろ私自身ブログで散々書いてきたとおり、利益をとことん追うビジネス活動とて、モラルを高くもって、ルールをきちんと守って正々堂々行う 限りは、サッカーや野球にも劣らない、大変面白くて有意義な活動だと思っている。ちゃんと人生勉強にもなる。そもそも、人間の体は、物質代謝を行っており、明らかに物と しての側面があるのだから、物質的な自己利益の追求は生きる上で不可欠であることは当然だ。


しかし人間は、ある程度物質的に満たされると、それ以上の価値なくして満足できなくなる。それを知りたければ、是非とも歴史書や思想書を沢山読んでみるといい。必ずや、人は自分の利益だけを極大化するだけでは満足できなくなる生き物であることに気づくはずだ。



『思想』の真価


もっとも、思想と言っても、中にはとんでもないものもある。というより、ほとんどはとんでもないものだと思ったほうがいいくらいだ。だから、宗教と同様、 子供がおかしな影響を受けて欲しくないとして、思想書を子供が読むことを嫌う親もいる。だが、思想というのは、書いてあることを暗記するようなたぐいのものではな い。徹底して著者の考えを自分に置き換え、体験し、自分の考えと比較して格闘してみることにこそ意味がある。だから時には、ごつごつして違和感がある思想のほうが役に立つこともある。そうすると何かいいことがあるのかって? もちろんある。自分がいつの間にか、特定の思想を知らぬ間に受け入れ、暗示にかかった ように無意識に行動していたことに気づくことができる


大抵の人は、自分は特定の思想とも宗教とも無縁で無色透明だ考えている。とんでもない勘違いだ。誰でも、時代か、民俗か、家族か、親か、誰のものかはわからないが、特定の、しばしとても歪んだ、偏見に満ちた思想のとりこになっているものなのだ。まず例外はない。そうしてほとんどの人は、死ぬまで一度も気づくことなく、特定の思想にとらわれ自動人形のように浮遊して、死んでいく。そうした自動人形から、ある日人間になるチャンスを得ることができる。それこそ思想の真価である。あるとき突然、自分が如何に重いものを引きずっていたのか、如何に狭い世界に閉じこもっていたのかを知り、強烈な開放感を感じることができる。他者へのまなざしも、俄然変わってくる。


そのような境地を少しでも垣間見ることができれば、思想をするにあたって、如何にインターネットというのが、便利で貴重ツールなのかを再発見することになるだろう。だが、今の日本では、インターネットに限らず、そういう回路が封印されてしまっているように思う。 自ら考えてみることは、梅田氏の言うエリートでなくともできる。知的能力とは必ずしも関係はない。だが、考えようとしないから、功利、自利に安易に取り込まれる。それを越えた価値を大事にする社会ではなくなってきているように思う。その意味では、繰り返すが私も残念だ。



まだ結論を出すのはまだ早い


ただ、梅田氏に望みたいのは、状況は非常に厳しいが、そんな日本を見捨てないで欲しいということだ。 『知的エリート』でもなく、『30歳まで日本に住んでしまった手遅れ者』である私は、梅田氏のイメージするエリートの範疇から落ちこぼれた一私人でしかないが、それでも、今与えられた環境は、『日本株式会社』の中で、『言論完全封殺』状態にあった、かつての自分のことを思い出すと、天と地ほどの違いがある。また、池田信夫氏の言うように、ブログの質が落ちているというお話もあたっている部分もあるが、私の古い友人で、とびきりの知恵者をブログに引き込んでみると、まだ注目度は低いが大変にクオリティーの高い粒ぞろいのエントリーを淡々と投入してくるような事例もある。まだ結論を出すのは早いと思う。いや、そう信じたい。

ヨーロッパ象の日記〜欧州の片隅から



自分に世界を変える力があるとはとても思えないが、世界の片隅で良いから少しだけ明るく照らすことにチャレンジしてみたいとは思う。そう考える人がインターネットを通じて一人でも増えれば、いつか世界も動くと信じたい。