経済学を修めた人にこそ解いて欲しい課題

歯止めがかからない経済学部の人気低落


法科大学院構想の影響もあって人気が急上昇した、大学の法学部の人気も、その法科大学院が事前の予想ほど弁護士資格獲得につながらない実態があらわになってきて、やや人気にかげりが出てきているようだ。その反動で経営学商学部等の実用的な知識習得に有利とされる学部の人気が若干盛り返しているが、経済学部のほうは、長期人気低落傾向に歯止めはかからないようだ。

経済学部出身の私としては、大変残念なことだが、客観的に見ても無理もないと考えざるをえない。どう見ても今の日本の経済学に昔日の勢いはないからだ。



自信にあふれていた経済学


私が学生のころは、『偏差値が高い』、『就職に有利』、『つぶしがきく』、等々の理由で経済学部というのは比較的人気のある学部だった。特に、先輩諸氏に立派な方々が沢山いることは大きく、実のところ経済学が有用かどうか、と言うこと自体あまり問題にされなかったような気もする。だが、経済学のほうも、少なくとも今と比べると自信に溢れていた。日本の経済学会はマルクス経済学と近代経済学の二大勢力がそれぞれ独自の存在感を持っていた。



マルクス経済学については、徐々に当時のソ連や中国の実態が知られるようになるに連れて、その有用性と価値に疑念が高まりつつある時期だったが、革命とは言わないまでも社会改革の意欲に燃えた人達にもまだずいぶん沢山お目にかかることができたものだ近代経済学は、その数学の裏づけのある理論体系こそ真に科学の名に値する学問で、他の社会科学とはレベルが違う高みにいるのだ、という自信(過信?)に溢れていた。私の友人にも、もうすぐ経済現象も経済学モデルでほとんどが説明できるようになるし、自分もそれに貢献してみたい、というようなことを堂々と言う者がいた。



坂を転げ出す経済学


今にして思えば、マルクス経済学も近代経済学もあの頃まさに、岐路/ターニングポイントを迎えていて、最後の煌きだったとも言えそうだ。世界を二分していた共産主義勢力は、あっというまに瓦解して、その理論的支柱であったマルクス経済学はすっかり権威と影響力を失ってしまった。近代経済学のほうも、少なくとも日本では予測でも政策立案でも、有用と認められるどころか、『役に立たない』というレッテルを貼られるようになって行く。


この点、ブログ『アゴラ』での、慶応義塾大学経済学部・池尾和人氏のコメントが絶妙だ。

私は自由主義者で、「経済は、いうまでもなく複雑系であり、社会というより巨大な複雑系の一側面に過ぎない。やや開き直っていえば、そうした複雑系の動きを正確に予想したり、政策的に思うように制御できると考える方がどうかしている」(拙著『銀行はなぜ変われないのか』中央公論新社、2003年の「はしがき」から引用)と考えている。


経済を政策で人為的にコントロールできるというのは、社会主義的発想。しかし、世の中には社会主義者が多くて、例えば「物価は金融政策によってコントロールできるはずだ(●前提)。したがって、デフレが止まらないのは、金融緩和が不十分だからだ」といった議論がなされたりする。しかし、ここでの●前提は、全く証明されたものではない。
経済は複雑系--池尾和人 – アゴラ


手前味噌だが、私は経済学部の学生のころから、ほぼ同じように考えていた。経済学に限らず、社会科学系の学問は、人間や人間集団を相手にするのであり、すべからく要素還元的手法には一定の限界があり、 その限界の範囲を注意深く見極めることは必須だと思っていた。だが、このような話は当時はなかなか受け入れられなかった。



環境はすっかり変わった


ちょうど、芹沢氏の主催するシノドス芹沢一也氏、荻上チキ氏が主宰する批評グループ。 セミナーを開催し、メールマガジンの配布をやってる。)の講座の内容をまとめた本が出版されて*1、その中に、経済学者の飯田泰之氏のパートがあって読んでいるのだが、実に感慨深い。日本の経済学をめぐる環境が激変したことを強く感じてしまう。飯田氏は経済学者は社会や価値について議論をする訓練を受けておらず、問題を与えられなければ、なす術が無いという。

経済学の知識というのは、最初に触れたように、非常に工学的な部分があります。問題を与えられてはじめて、その問題を解決する最適ツールを探してくるという性質があるんです。平たく言いますと、先に『こうしてほしいんですけど、どうしたらいいですか』という注文、オーダーがないと、答えが出せないわけです。 しかし肝心の価値観が抜け落ちているので、多くの経済学者が仕方なく価値観の部分まで含めて政策プロポーザルを書くことになる。しかし、価値観問題を口に出したとたんに、私を含め、多くの経済学者は急に三流評論家というか、素人社会学者みたいになってしまう。 もともと経済学のディシプリンの人間は、価値論争について議論をする訓練を受けていないのです。(中略)社会や価値について話すと、超一流の先生が、本当に素人以下になったりする。これが経済学者の限界です。だから経済学者に対しては明確な発注をしてほしい。そうでないと、こっちもあまり大したモノは生産できないんです。『日本を変える知』 P64〜65


驚くべき率直さだ。確かにその通りだと思うが、私の知る近代経済学計量経済学をベースとした知識人の多くは、経済学を修めた自分の理論は正しいのに、日本的で不合理な慣習、腐敗した官僚や政治家、内向きで愚直な大衆等のいわばバカの壁』に阻まれて実行できない、というタイプの嘆きを口にする。それに比べれば、飯田氏は、はるかに己を知る懸命さを持ち合わせていると言える。実際、今でも、経済学の知識は豊富だが、社会や価値を議論するに足る知識も見識もなく、政治を切り盛りする力量もないのに、表舞台に出て行こうとする人は多い。このタイプの人に政治や経営を担当させるとしばし恐るべき結果となる。



専門知が生かされない


逆に、本来、条件をきちんと設定した上で経済学の専門知にまかすべきところに、まったくレイヤーの違う、政治や思想の問題を持ち込もうとする人も沢山いて、正しい政策が一向に実施されないという状況も現実に起きている。結局、専門知がいかされない上に、素人談義の価値観論争が繰り返され、政治も利害調整機能喪失状態という八方ふさがりになってしまう。これでは誰がリーダーシップを取るのだろう。というより果たしてリーダーシップを取れる人材がいるのだろうか。これは企業経営でもしばし行き詰まる議論と似ている。すなわち、今日では技術も経営もマーケティングも教育も、高度な専門性が求められる一方、そのすべてを包括して経営の舵取りが出来る人材がいない。というより、育てようが無い。



されど・・


この難問に安易な解はないのだが、既存の制度やそれを支える価値観が大きく変わろうとしている今、工学的な専門知だけでは、それをタイムリーに生かすこともますます難しくなって来ていると思われる。専門性の縦糸と、それぞれの領域の専門性を繋ぐ横糸としての思想/価値論の両方を高いバランスで持つことを目指すしかないのではなかろうか。どの専門領域にあってもそのような高い理想を持つ人が続出することなしに、全体を統べる有能なリーダー出現を期待する事は難しいと思う。その全体のリーダーに、経済学を修めた人が座ることは不自然だろうか。この点、私は経済学者にこそこの課題を解くべきミッションが課せられていると思う。飯田氏は経済学のディシプリンの人間は、価値論争について議論する訓練を受けていないというが、マルクス経済学者の中には、価値論を考えることこそ仕事であった人を私は何人も知っている。


『日本を変える知』の飯田氏のパートの最後に、他の執筆者との質疑があり、吉田徹氏の質問が大変興味深い。

経済史家のカール・ポランニーの言うように、経済市場システムは歴史的に形成されてきたものだとすれば、そして歴史から断ち切られた商品化によって資本主義経済の破綻が生じたのだとそれば、経済学が直面しているのは、経済合理性そのものの貫徹を目指す『啓蒙のプロジェクト』か、人間の非合理性を前提とする『刷新のプロジェクト』のいずれかにあると言えるのではないでしょうか。『日本を変える知』 P70〜71


グローバルな世界の混乱の原因の一端は煎じ詰めればここにあると私も思う。経済学者が解かずして、誰が解くのだろう。そういう意味では、経済学が衰退してよいはずはないのだがどうだろうか。



*1:

日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)

日本を変える「知」 (SYNODOS READINGS)