『美しいをさがす旅にでよう』を読んで


田中真知氏の新刊、『美しいをさがす旅にでよう』を読んだ。

美しいをさがす旅にでよう (地球のカタチ)

美しいをさがす旅にでよう (地球のカタチ)



美しさの相対性


この本の主題は、『なにを美しいと感じるかは文化や地域によって様々で、その感覚は絶対的なものではなく、時代や何かのきっかけで変わる』ということにほぼ集約できるようだ。このタイプの主題の設定自体は、価値が非常に流動化している昨今では珍しいものではなくなった。だが、本当のところ個々人がどこまでそれを理解しているか、ということになると、相当にレベルの違いがある。私自身も、美しさ(に限らないが)の相対性については、自分なりに理解しているつもりなのだが、筆者の田中真知氏の豊富な体験に基づく事例が惜しみなく繰り出されると、自分がいつのまにかつくりあげていた境界の意外な偏狭さに愕然としてしまう。その新鮮な驚きにいざなわれるうちに、あらためて世界が如何に多様な感動と驚きに満ちているか、再発見させられる。



希少財としての感動


感動と言えば、最近の日本のメディアは、安易かつ強引に、ありきたりな『感動』を押し付けてくる。

テレビの海外旅行物などで、こんなナレーションを耳にしたことはないだろうか。「村人のやさしさが、すがすがしい感動を与えてくれた。子どもたちの瞳は、きらきらと輝いていた。ほんとうの子どもらしさがそこにはあった。現代の日本人が忘れてしまった何かに気づかされた・・・」 テレビだけではなく、旅行記などもそうだが、旅の経験を語るボキャブラリーには、「感動」「私たちが忘れてしまった何か」「きらきらした目をした子どもたち」等々、紋切り型の常套句があふれている。 (中略) そして極めつけは「感動」である。旅だけでなく、スポーツでも映画でもアートでも、メディアはやたら「感動」を強要する。「みなさんに感動をお伝えしたい」とか、「感動をありがとう」とか「感動がまっている」等々、ほとんど感動強迫症である。 『美しいをさがす旅にでよう』 P60〜62

昨今、日本の大手メディアのコマーシャリズムが行き詰まっていることはあきらかで、『感動の断末魔』とでも言いたくなるような状況にある。もはや視聴者は感動を感じるどころか、良くて食傷、悪くすれば嫌悪感しか感じない。それをあながち自覚していないわけでもないのに、一層過剰な言葉や映像で、その場しのぎを繰り返す。『感動』が希少財であることはわかっているのに、本当の『感動』を提供できないミスマッチは、見ていて痛々しい


だが、それは多くの視聴者の側も同様で、幕の内弁当のような『感動パッケージ』に自分が飽きてしまっていることには気づいていながら、欠乏が大方充足されてしまった今、自分が何に感動するのかわからなくなってしまっている。物を買う買わないのレベルを超えて、生きること自体の意欲減退に行き着いてしまっている人も少なくない。そういう意味では、田中氏の問いかけは、単なる『趣味としての美の再発見』ではなく、企業活動の見直しをさらに飛び越えて、『生きる意味の再発見』に関わることとさえ言えそうだ。



各人が見つけるしかない


資本主義の世界では、物の価値は市場を通じて決められることが原則だ。ある人にとっては非常に価値あるものでも、その他多くの人が欲しがらなければ、価値は限りなくゼロだ。だが、考えてみるとこの仕組みは一見うまく出来ているようで、如何にも大雑把だ。価値が多様化して、市場でのコンセンサスを取りにくくなると、とたんに何が大事なのかわからなくなる。だから、既存の『感動』のレッテルを張られた財やサービスや言葉を無闇に繰り出すことになる。しかしながら、今や、感動は市場に安易に転がっている物ではなく、各人が掘り出し、見つけるものだ。時に、それは多くの人の共感を得て、大きく広がることもありうる。それこそ、『創造』であり『イノベーション』の名に相応しい活動だと言える。



驚くべき仮面


田中氏の取り上げる美の再発見の事例は、歴史の時間の厚みという点でも、地域の広がりという点でも縦横無尽だ。私にとっては、特にアフリカ、インド、東南アジア等の事例は興味深いものが多い。中でも、各地の仮面や彫刻については、少ないながら自分自身の経験とも重ねることもできて、大変感慨深い。私もインドを含むアジア各国をまわるたびに、各地の仮面や彫刻の異様だが、強く迫る迫力に魅せられてきた。中でも、マラッカの古物商があつめて展示していたアジア各地の仮面には、その場から動けなくなるくらいの圧倒的な迫力があった。だが、田中氏が不気味ながら気になったという、ペンデの仮面などは、私も初めて見るタイプのものだ。上には上がいる。

ペンデの仮面の謎: 王様の耳そうじ
http://earclean.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/pende_malade.jpg



テクノスケープ


それと、今回の自分にとっての意外な発見は、『テクノスケープ』である。テクノスケープとは、大辞林によれば、『建築・橋梁など近代科学技術による構造物を一つのアートとみなし、その周辺の環境が創出する造形美』で、電線、鉄塔、工場、リファイナリーなどを含む造形物のことだ。私自身、メーカーの工場や石油精製施設は、仕事がらかなり沢山見て来たほうだが、特に石油精製施設など環境破壊の最前線にある施設に関わったことが先入観となってか、無意識に、醜悪でなるべく見たくないものというカテゴリーに入れてしまっていた。だから、以下の部分を読んで、はっとした。自分もまた先入観で自分自身を縛っているではないか!
南部再生 第19号 - 工場好きのアナタへ テクノスケープ講座


1960年代から、70年代にかけて、工業地帯は公害の元凶であると見られるようになり、テクノスケープのイメージはネガティブなものへと変貌した。煙突や工場は非人間的な環境の象徴となり、悪い景観のシンボルと見なされるようになった。そうしたイメージの呪縛が解けて、新たにテクのスケープを美しいと見る感性が甦ってきているのが現代である。(中略)最近では、自治体が工業地帯をめぐる観光ツアーを実施したり、工場周辺をデートスポットとして見直したりという可能性も模索されている。 『美しいをさがす旅にでよう』 P53〜54


デートスポット!? 時代はどんどん先に進んでいるようだ。そして、私もまた自分の世界を狭め、世界の豊かさを見失っていたのかもしれない。



貴重なガイドブック


この本をいわば呼び水として、美を発見し、自分を発見してみて欲しい。そんなガイドブックとして、とても重宝する本となること請け合いだ。