『経営者のつもりの管理者』が淘汰される時


日本企業の地盤沈下


日本企業の地盤沈下が激しい。かつて日本を代表する輸出産業は、自動車と電気が双璧だった。だが、少なくとも電気に関しては、今本当に危機的な状態にある。それをもはや認めないわけにはいかない。今回の不況が終われば、また成長起動に乗るはず、と楽観的に考えているとすると、その認識自体が何より危機的だ。だが、さすがに最近では、危機的な状況であること事態は、ある程度認知されてきたのかもしれない。ただ、方向転換すべき行き先のイメージが出来上がっているとは到底思えない。



真面目な取組みが裏目


日本企業が皆、自己改革に真面目に取組んでいない、などとはまったく思わない。多くは涙ぐましい程に真面目に取組んでいる。いや、ここ数年だけで見ても、非常に真面目に取組んで来ていると言うべきだろう。だが、どんなに一生懸命取組んでも、いや、一生懸命取組めば取組む程、危機は深まって来ている。特に、今回の大不況の影響でどの企業でも不要不急な出費を抑制して、目先のキャッシュを生むことに集中せざるを得なくなっているが、短期的にはそれで生延びたとしても、その短期的な利益指向を強くする努力そのものが、企業に致命的な結果をもたらすことになると思う。



『強み伝い』の経営


では、どうしてそう考えるのか。


このことを、非常に見事に語っているのが、松下電工(現パナソニック電工)の故三好俊夫会長の対談での発言である。

自分の分野のドメインの中で改良商品を作ってやる。それを松下電工では、『強み伝い』と言っています。自分が持っている技術、販売網、人間を利用して一歩ずつ尺取り虫的に伸ばしていく、これは自然の方向です。ほとんどの会社がこうした『強み伝い』に動こうとしているわけです。このやり方は、管理者がいれば十分で、経営者不在でもやっていけます。・・・・これだと、会社が潰れるのを食い止める力はあるかもしれないが、伸びはしない。『強み伝い』でやっていくうちに、だいたい斜陽産業になってしまうのです。いつかは世の中が変わって、そのうちにだんだん自分のおかれている場所は小さくなってくる。自分は『強み伝い』に動いたつもりなのだが、社会の動きにあわせたつもりなのだが、社会の動きの方が企業の動きよりはもともと大きいということだと思います。 
マーケティング・アンビション思考*1 P129

選択と集中の勘違い


この『強み伝い』は、『選択と集中』を日本の現実に照らして実行しているのだ、と声高に言う、多くの日本企業の『経営者のつもりの管理者』の常套手段であり、逆に彼らが『選択と集中』を誇らしげに掲げることで、勘違いの連鎖を企業内に拡大していく。何より問題なのは、その『強み』というのが、大方過去の成功体験と成功した実績であることだろう。あるいは、今がこうだから将来もこうだろう、というような微分的な現状追認の上に立った『強み』であることだ。市場もユーザーもドラスティックに変化しているのだ。しかも過去とは違う方向にだ。故三好会長の言うように、このようなパターンで『斜陽産業』となり窮地に追い込まれている企業の何と多いことか。そういう企業は、皆、セオリーどおり選択と集中に一生懸命取組んだのに、しかも、まぎれもなく自社の強みの上に絞り込んだのに、どうしてうまく行かないのか、と嘆いているのかもしれないが、これこそ一流企業に巣くうジレンマそのものだと思う。



日本企業にできないこと


日本では、事業再編のための解雇は事実上難しい。最近では、若年層のかなりの割合を、正規雇用ではなく、派遣や業務委託へ移管するケースは増えているので、そういう人員を削ることは可能だろう。だが、米国流の『選択と集中』が一定の成果を上げるのは、過去如何に強くても現状ではそうではなくなった部門なり人材なりをドラスティックにリストラして、コアのところには、人材も投資も惜しみなく次ぎこむことにある。普通の日本企業、特に伝統的な一部上場企業がこれを平時に行うのは、日本の法制度上不可能に近い。それが可能となるのは、企業業績が行き詰まり、どうしようも無くなったときで、しかもそんな時は『希望退職』とかやるから、結局コアである有能な人材が一番早く離脱する。そして、残った経営者ならぬ管理者はアウトソースを口にするが、アウトソースをするということは、その領域では競争優位は確立できないということだ。アウトソースに出す部分と自社のコアの部分の複合的な競争優位の確立も事実上難しいことを意味する。結局どこにも競争優位の源泉はなくなってしまう。さらには、そうして残った人材は大抵、過去の成功体験にしがみつき、ますます過去の『強み伝い』になってしまうだろう。



要素還元的施策への執着


どうして、大抵の日本企業が、故三好会長が言うような、『強み伝い』ばかりになってしまうかというと、『経営者のつもりの管理者』にとっては、調査/分析、客観的データ、論理的な理論構築、明快な説明、というような手法(いわゆる、西洋的要素還元的分析手法)が金科玉条だからだ。それは確かに、市場の現実をしらない株主や銀行家のような人達を煙にまくのに一番都合がいいだろう。特に日本のようにベンチャー育成マインドがない、安定志向が蔓延している中では余計にそうかもしれない。だが、客観的データというやつは、過去のデータ集積(多くは死んだデータ)を統計的に分析することで出来上がっている。それだけではまったく片手落ちな、ミスリーディングな情報が多い。ビジョンと構想力のある人にしか料理できないフグのようなものだ。仮に分析を通じて本当に市場の旨味を見つけたとしても、なまじわかりやすいだけに競合企業も殺到するだろう。しかも、それまで競合相手と認識していた以外の競合も世界中から殺到するような時代だ。それでどうやって競争優位を構築するというのか。



狭義の経済合理性の罠


さらに日本企業の分析マインドに根深く浸透してしまった、『狭義の経済合理性』がくせ者だ。それは、暗黙知、市場のスタイルや、ユーザーの潜在感情や、文化的コード等を、『統計誤差』として切り捨ててしまうことにつながりやすい。理解不能、わかりにくい、等々の言い訳はあろうが、もし現代の市場で、分析を多少なりとも有効にしようと思えば、こういう部分に切り込んで行くしかない。だが、大企業の経営者にこのような説明をしようとすると大抵、『会社は学校ではない』などと言われて一蹴されるケースが多いはずだ。



アンビションなくしては


では、どうすればいいのか。


故三好会長の発言を載せている本である、『マーケティング・アンビション思考』によれば、経営者のアンビション(大望)が必要ということになる。この本は、日本マーケティング協会(JMA)*2が1999年12月に研究者や実務家で構成するプロジェクト・チームを編成して調査から始めた成果を2001年に一度発表し、それをベースに大幅に加筆・修正してタイトルを改めて2008年11月に出版したとある。アンビションと言ってもわかりにくいので、以下、このキーワードが説明されている部分を引用してみる。

(前略)成長企業と衰退企業の大きな差の一つとしてこのアンビションの有無が作用している。ハメルとプラハラードは、『後発で市場に参入して世界的なリーダーシップを握った企業の経営者の中には、用心深く慎重すぎる人物は滅多にいなかった』と説明した上で、撤退企業の研究で常に発見できる点は、『理由のいかんにかかわらず、その経営者たちに経営計画や既存の資源の範囲を超えた目標、つまり大胆な目標へ挑戦しようとする意欲がなかったことだ』と指摘する。野心や大志のない保守的な目標は、イノベーションへの刺激や情熱を引出すことがなく、効果的な未来の方向性を組織に与えることもない。同掲書 P22

見えないものを見る能力


そのアンビションの背景にあって、重要な要素は、『見えないものを見る能力』である。そして、その能力を持つ人にとっては、コア・コンピタンスは、けしてわかりやすい強さ(特定の技術、システム等)のことではない。この点についても、非常簡潔に、本質的なことを述べてある。

真のコア・コンピタンスは、玉ねぎのようなものだと思う。一見芯があるように見えるが、剥いていくと何もなくなる。コアがない。それこそ、西洋的要素還元的分析手法では解き明かすことのできにくいものなのだ。すべてが仕組みとして有機的に絡み合って、コア・コンピタンスと呼ばれる強みを作っている。だから、文化とか組織風土とかいった言葉、あるいはコーポレートブランドなどのブランド論に置き換えざるを得なくなる。その強さは、その企業の経営者や社員にも明確には語れない。そうしたものがコア・コンピタンスであると思う。 同掲書 P31


コア・コンピタンスが特定の技術や特許等ではなく、玉ねぎのような有機的な結合であればこそ、時代の変化に翻弄されず優位性を保つ事ができるというわけだ。私が実地でこれを感じたのは、『トヨタ生産方式』である。生産方式というくらいだから、システムの運用方法を学べば、誰でも再現可能なように思われる向きもあるようだが、そうではない。本当に玉ねぎの例えにあるように、要素還元的分析では中核に迫ろうにも迫れないのだ。



主役交代


最初に書いた通り、今回の企業の不況対応のいくつかを見ていると、とても上記のような方向で企業が進化するようには見えない。むしろ、ますます要素還元的な意味で合理的な方向に突き進んでいる企業が多い。それが、斜陽産業への道であることも知らずにだ。一方、解雇が比較的容易にできる米国企業では、人員整理をする一方で、そこで捻出したキャッシュは、開発投資や長期的な事業開拓等に投入している。その差はますます開いて行きそうだ。


ただ、希望がまったくないわけではない。新興の若い企業乃至、企業経営者の中には、管理者や官僚ではない、真の経営者の素養を持った人達が少なからず現れて来ている。日本の未来はまさに彼らにかかっていると思う。身動きがとれず、旧来のフォーミュラを変えることのできない大企業との主役交代が起きる時が今こそ来ているのかもしれない。