市場のフロンティアはどこにあるのか

構造改革を迫られる日本企業


不況の影響を受けて、構造改革を迫られる企業が続出している。だが、どのような方向に変わればいいのか明確に出来ている企業は数少ない。特に直近の日本経済を牽引していた輸出関連の製造業の悩みは深刻だ。



アジア市場への注目


そんな中で、足早に出てくる対応策は、需要回復が比較的早期に期待できそうな、アジア新興国市場への、低価格商品(グッドイナフ商品*1、というべきかもしれないが)の投入だ。従来のセオリーで言えば、労務コストが高い日本の方向は、高付加価値/高額商品に向かわざるを得ず、競争激しい低価格商品での競合は不味と考えられる。しかしながら、高額商品の一番の顧客であった、米国の経済の回復は一段と不透明で、それに比べればアジア新興国のほうが景気回復は早そうだ。しかも、そもそも潜在的ポテンシャルが大きい。中国など、現在のGDPに占める消費の割合は、5%未満といったところだろう。まだ消費者が豊かさを求めて貪欲に消費を拡大するしようとするエネルギーは大きいと見ていい。



国内市場の解読は進まない


だが、問題は国内市場のほうだ。マクロレベルで見ると、バブル崩壊以降、市場の解読はほとんど機能していないように見える。もちろん、ミクロで見れば、スマッシュ・ヒットも数多いし、最近までの携帯電話など、市場が急拡大した領域もあるので、あまり大雑把な議論をするつもりはないが、それでも今若年層を中心に急速に進行してきている、『欲望の縮小』とも見える現象を、単純に若年層の経済的な窮乏化にだけ求めるような、それこそ乱暴な議論も多い現状を見ると、国内市場のフロンティを広げようという意欲も、遠からず枯渇してしまうのではないかとさえ感じてしまう。



バブル期に流行った記号論


80年代初め頃に、消費論が非常に盛り上がった時期があった。まさにバブルが始まろうとしていた頃だ。生活必需品および生活を便利にする物が一通り普及した後、それでも物的な消費市場を広げるためには、それ以前には、『もったいない』『無駄遣い』とされた領域を何らかの方法で広げて行くしかない戦後賢明に働いて来た企業戦士は今度は節約をすることより、個性的な消費を通じて自己実現をすることを奨励されるようになる。物自体の価値を超えた付加価値の部分を如何に演出するかということが、どの消費分野でも取りざたされ、マーケターも振り回された。ビールの中身ではなく、ケースの奇抜さでビールが売れたりするような現象もあちこちに見られた。『モノの消費から記号の消費へ』との認識が一般化し、気がつくと、猫もしゃくしも記号論とでも言うような状況になっていた。


その後、バブル崩壊失われた十年、ITバブル/ITバブル崩壊と時代は過ぎてきたが、消費のフロンティアはやはり実物ではなく、一貫して『記号』 にあるはずなのに、特に日本の製造業はこの記号の解読があまりうまくできていないようだ。



バブル期以前とは異なる市場構造


日本のバブルがどうしてあれだけ大きく拡大したのか。製品マーケティングを現場で見てきた印象を言えば、社会の共通前提がはっきりしており、市場構造を把握することが難しくなかったことが大きいと思う。『普通』『みんな』がはっきりしており、ライフステージも明確だった。右肩上がりの経済成長を信じることもできた。ライフステージが明確で、誰もが自分がそのステージなりに持つべき物は明確だったから、構造的な実需は安定して存在した。そのころ、マーケターが最も注力したのは、『差異』による差別化だった。ライフステージが明確で、成功物語ははっきりしていたので、如何に差異を見出して、目新しさを演出し、そのことで進歩/進化を感じることができること、他人とは違うことを実感してもらうことに成功すれば、物は飛ぶように売れた。


だが、バブル崩壊の後は、何が起きているのか理解不能な酩酊状態のような企業や人が多かった。そうしているうちに、瞬く間に失われた10年が過ぎてしまったわけだが、その間に社会の構造は極端な変化を遂げた。『みんな』という特定の塊が定義できなくなったし、共通の物語も消失した。右肩上がりの経済もない。企業が抱えていたコミュニティーも閑散としてしまったし、もちろん地縁血縁のコミュニティーも過去のものとなった。こうなると、同じ記号消費でも、社会のコードが全く変わってしまっているので、バブル期以前の差異の創出、差別化手法では需要喚起できるとは限らなくなった。むしろ逆効果となる事例も少なくない。


例えば、バブル期までは、スポーツカーは当時の夢と憧れを象徴するコードだったから、ツインカムエンジンだのターボだのを搭載して、時速200kmを軽々上回るような、およそ日本の公道ではどこでも走れないような車を造っても沢山売れた。カタログ値上の差異でしかないとは言え、時速を生み出す能力を得るには、当然高額の対価を支払う必要があるが、当時の若者は競ってそのお金を払った。ところが、今は多少極端な言い方をすれば、そのような性能向上は、環境破壊と騒音と虚栄心を示すコードに変質してしまっている。性能向上が付加価値を生み出すどころか、まったくの逆効果にさえなりかねない。また、個々の価値感がばらばらになり、コミュニティーも崩壊すれば、お隣や同期がクラウンを買おうが、BMWを買おうが、さほど気にすることもない。だから、充分に収入もあり、社会的ステータスのある人も、BMWを買わないでヴィッツを買ったりする。このようなことがどの消費市場でも見られるようになった。他人の消費に影響されたり影響したりする、いわば他人の欲望を欲望していた消費はごっそりとなくなってしまった



いまだに夢よもう一度では


こんなことはもう常識だろうと思っていると、日本の多くの製造業ではまだけしてそうではないことを知って、唖然とすることが本当に多い。しかも、伝統的大企業ほど組織が年功序列的で、バブル期以前の価値感を抱えて固まった中高年を大量に抱え、しかもそういう人達の多数決で商品の企画を決めているようなところがあるので、今なお、ずっと昔の夢よもう一度というような商品企画とそれに乗っかった経営を続けている企業が多い。だからいまだに『新技術を投入すれば勝てる』とか、『ものづくりの原点に帰れば勝てる』というような、昔の成功体験の範囲に閉じ込められていることが明白な意見ばかりになる。もはやそんなところに市場のフロンティはない。フロンティアは記号解読、その解読に基づく創造、市場とのコミュニケーション能力にこそある。『みんな』が同じ価値観を持っているわけではないから、自分の常識を相対化することは不可欠だし、阿吽の呼吸もノミュニケーションも関係ない。ある意味で、海外の新規市場開拓に取組む時のようなアプローチが必要になって来ている。



アジア本格展開もつまづきかねない


特に、ここ最近、輸出で小康を保っていた製造業は、上記で言うような日本国内市場のフロンティ拡張努力と挑戦を怠ったと言える。だから、米国輸出市場崩壊の後すぐに今度は、アジア市場志向を口にする企業を見ていると、国内市場を前にして、思考停止してしまっているように見えてしまう。確かに、アジア志向は否定しないし、長くアジアの市場に向き合って来た私としては、内需中心でやって来た企業も、もっとアジアに注目し、チャレンジすべきだとも思う。(財部誠一氏の『内需企業はアジアに成長の活路を』という記事*2のような趣旨の意見を持つ人は多いと思う。もっとも私自身はここまで日本国内市場に悲観的ではないのだが。)だが、記号の解読もできず、市場とのコミュニケーション能力もない企業が、日本や米国向けに企画した商品を少しだけ手直ししてアジアに売ってみる、というような小手先の輸出商売ならともかく、アジア市場への本格的なビジネス展開の勝利者になれるほど甘くはないある意味でもっとハードルの高い、文化のコードの解読と異文化コミュニケーションが不可欠だからだ。



今の時代の付加価値創出能力


マイクロソフトビルゲイツ氏の言う、経済のリワイヤリング(配線組み替え)のアナロジーは、今の日本の市場にも充分当てはまるのだが、一方で多くの人が考える以上にバラバラの島宇宙状態にあり、リワイヤリングが進みにくい状況にある。だからこそ、その島宇宙の共通コードを解読したり、バラバラの主体をつなぐコミュニケーション構築の能力は、今の時代の最大の付加価値創出能力だと考える。不況の深刻化と共に、当面、とにかく目先のキャシュフローの破綻を防ぐことに注力し、このような付加価値構築能力を企業として高めて行く努力は一層なおざりなっている(せざるを得ない)企業が多いわけだが、そうしているうちに、取り返しのつかない致命的な差がついていくことを何より恐れるべきだし、布石をうって行く努力を怠ってはならないと思う。