ゲゲゲの鬼太郎の面白さの半分くらいはねずみ男のおかげ?

しばらく休暇をいただいていたため、ブログの更新もすっかり間が空いてしまったが、頭もリフレッシュできてきたので、リハビリのためにも多少なりとも何か書いておこう。



吉本隆明氏の講演


吉本隆明氏の『五十度の講演』*1というDVD(CD)がある。講演時間の総計6,943分、CD枚数にして、115枚という長大なしろものだ。発売と同時に買ったのだが、なかなか聴けないでいた。通勤の途中に聴くことを当初は考えていたのだが、一回のあたりの講演の時間は非常に長く、通勤の往復や片道では一度に一回の講演全部を聴くことはできない。一方、どの講演もものすごく中身が濃いため、とぎれとぎれでは内容が把握できない。だから、せっかく買ったのに、ずいぶんそのままほこりをかぶらせていた。それを今回の小旅行中のBGMとして持ち出すことにした。


案の定、一回の講演を全体として聴き切ると、そこに立ち現れる思想というか、コンセプトを全体として把握することが出来る気がする。さりげなく、また、冗長に語られているような内容も、理解が追いつくと大変奥深いことが語られていたことに突然気づいたりする。また、ディーテイルも、思わずハッとするような内容をいくつも発見できる。まるで長い発掘作業で、美しい陶器を発見したかのようだ。しかも同じ講演を2度聴くと、違うことを発見したりする。予想をはるかに超えて奥深い。



大変驚くべき発見(発言)


そんな中でも、一つとびきり驚いた発見があった。それは次のようなコメントの部分だ。

ゲゲゲの鬼太郎の面白さの半分くらいはねずみ男に依っている』 『太宰治の「右大臣実朝」で、源実朝を暗殺した公暁ねずみ男のような性格に描かれている』


なんだこれは?! 



暴れ回るねずみ男


以前、私は、『ゲゲゲの鬼太郎』がなぜこれほど長く受け入れられるのか、その原因について考察したエントリーをあげたことがある。どうしてここまで『ゲゲゲの鬼太郎』は人気があるんだろう - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る その時は、作品の登場人物とか構成についてはまったく言及しなかったが、吉本氏のコメントが、ゲゲゲの鬼太郎が作品がロングランになっている原因を説明するヒントの一つとして、実に正鵠を得ている気がした。多少私なりの解釈を交えて言うと、ねずみ男に代表される性格は、一見非常に特異に見えるが、実は普遍的なもので、この性格(キャラクターというべきかもしれない)を充分に生かすことができる作品は、作品自体が普遍的になる、ということになるだろうか。ただ登場させるだけではだめだ。十全に暴れ回るほどの設定やストーリー構築が不可欠だ。確かに『ゲゲゲの鬼太郎』はそれに成功している。



普遍的なねずみ男的キャラクター


ねずみ男的性格(キャラクター)というのは、時代や場所を超えて、どこにでも見つけることができる。他人に見つけるだけではなく、時に自分自身の中に見つけてしまうこともある。(あなたはどうだろうか。) 強い者の前では徹底的に卑屈で媚びるが、陰では罵詈雑言、一端その強かった者が弱い立場になると、手のひらを返したように高慢な態度で臨む。裏切りもものともせず、他人の悪評を気にするふうもない。なんていやなやつだろう。周囲にそんなやつがいたら、すぐにでも村八分にして、追い出してしまいたいと皆が思うだろう。だが、どうしたことか、いくら追い出してもいなくならない。第二、第三のねずみ男はすぐに現れる。まるで、湿ったところにはびこるカビのように。



公暁との比較


どこにでも見つけることができるから、太宰治の小説の登場人物にも現れることもまた何の不思議も無い。試しに『右大臣実朝』を読んでみると、公暁に関する叙述は大変少ないが、確かにねずみ男的と言っていいのかもしれない。公暁というのは、鎌倉二代将軍頼家の子で、三代将軍実朝の甥にあたる。父の頼家を暗殺して、実朝を将軍の地位につけた北条と実朝を一塊に恨み、暗殺する(二大執権北条義時殺害は失敗する)が、たよりにしていた三浦義村のうらぎりにあって、すぐに彼自身三浦氏の手にかかって殺されてしまう。これほど強い恨みを抱きながら、普段は上目づかいに媚びる様子は、実にねずみ男的だ。だが、彼はもっと残虐で可愛げがない。自分の意に反して出家させられたとは言え、仏門にありながら、カニを採ってはそれを叩き付けて食う描写など、残虐さといやらしさにおいては一枚上手のようだ。そもそもねずみ男鬼太郎を殺さない。(おばけは死なないが・・)公暁に比べれば、ねずみ男のほうがずっと愛嬌がある。そうい意味では、公暁ねずみ男はかなり違って見える。


では、どうして同型等の性格(キャラクター)なのに、これほど違って見えるのだろう。その答えは簡単だ。ねずみ男鬼太郎もお化けだからだ。



人間ではない、お化けだ!


ゲゲゲの鬼太郎』の最近の作品では、鬼太郎ねずみ男もとても人間化しており、あきらかに人間の味方だ。へたな人間よりよっぽどヒューマニズムを体現している。勧善懲悪が強調され、悪を懲らしめる善玉だ。そんな中では、ねずみ男は単に薄っぺらい小悪党にすぎない。だが、時代を遡るほど、鬼太郎ねずみ男も本来の凄みが際立ってゾクゾクするようなキャラクターとして現れてくる。特に鬼太郎など、初期の作品である『墓場の鬼太郎』のほうが本来の姿だろう。お化けは人間の味方とは限らない。人間から見た善悪はお化けには関係ない


そもそも善も悪も人間が便宜的につくりだしたものだろう。だが、不思議なことに、そんな中でこそねずみ男は時に恐ろしく、時に大変愛嬌がある。善も悪も、生も死も境界が曖昧な深淵な世界では、如何にヒューマニズムというのが、薄っぺらい歴史しか背負っていない、昨日今日できた概念であることを思い知る。このお化け的世界観においてこそ、ねずみ男は最大に自分を表現し、読者を魅了する。



性格描写の面白さ


そう考えると、やはり、吉本隆明氏の指摘は大変するどいし、ねずみ男研究はまだまだ面白い成果を生み出しそうな気がしてくる。だが、公暁は、もう少し別の個性として考えてみる必要があるのではないだろうか。如何にも太宰治的で、興味深いが、ねずみ男の魔術的な香りのある性格と比較すると、ずっと追いつめられて余裕がない。この両者の差は、私にはかなり大きな差に感じられる。逆に両方とも他人というより、自分自身の中に繰り返し現れ来る心のあり方の象徴として見ると、公暁のほうによりリアリティーを感じるかもしれない。一つ間違うと、公暁になりかねない、そう感じた人は私だけではないだろう。