中谷巌氏の『転向』問題は突っ込んで考えてみたほうがいい


サンデープロジェクトへの出演


経済学者の中谷巌*1のいわゆる、『転向』騒動は、遠巻きに関連記事を拝見する程度の興味だったのだが、先週日曜日(2月22日)の朝放映されたサンデープロジェクトテレビ朝日系)*2に、中谷氏が出演して、自らの転向と、その理由、今後の日本のあり方等について発言されているのを観て、あらためて興味を持って調べてみた。



パーフォーマー


中谷氏の著作は正直なところあまり身を入れて読んだことはないが、日産自動車のサラリーマンから若くして学者へ転身したり、一橋大学の教授という職にありながらソニー社外取締役に就任し、仕事の掛け持ちが国立大学の教授として問題になるとあっさりその職を辞してみせたり、小渕内閣の首相諮問機関「経済戦略会議」の主要な経済政策のブレーンを努めてその後の小泉改革へ道をひく役割を果たしたり、時代の空気を先取りした、軽やかな振る舞いが鮮やかな人物という印象がある。


今回の転向報道を横目で見ながら、パーフォーマーとしての中谷氏はまだ死んでいなかったのかと、という程度の印象だったのだが、調べれば調べる程、どうやら今までとは様相が違うことを知ることになった。一言で言えば、『かっこ良く』ないのだ。しかも、少なからず周囲に影響を及ぼしているようだが、影響されているほうもムードに流され、滑っているとしか思えない議論が多い。



日本の本当の問題


リーマンショック以降、アメリカ流の行き過ぎた資本主義批判が増えたことは無理も無いとも言えるが、それをかさにきて、見当違いな意見も多くなっている状況には、私も正直辟易している。そもそも今の日本の問題点は、確かにアメリカの金融資本主義に翻弄されたこともその一つには違いないが(そういう意味で、小泉改革が問題視されることも故なしとはしないが)、もっと根本的な問題に対処できずにすくんでしまったことのほうがはるかに大きい



先進国共通の問題


日本は戦後急激な経済成長を遂げて、GDP全体ではアメリカに次ぐ世界第二の大国になり、一人あたりのGDPも世界一を伺うような位置にいたこともあった。(過去最高位は3位)。当然後を負われる立場になった。しかも、旧共産圏が崩壊し、中国が実質的な資本主義国となり、もともとポテンシャルの大きいインド経済が本格的に立ち上がるなど、冷静時代には想像もできなかったくらいの規模で、資本主義競争への参入が激増した。発展途上国だった日本が成功の拠り所とした加工貿易立国のフォーミュラは、労務費と通貨の上昇に伴って急激に成り立たなくなることは当然すぎる帰結だし、先進国共通の問題だ。



変わらない日本には必要だった刺激


また、高度成長からバブルに至る過程で、日本は地方共同体が崩壊し、一旦は企業がそれを肩代わりしたものの、右肩上がりの成長の終わりとともにそれも維持できなくなった。同時に旧来の日本の安心安全も構造的に維持できなくなった。このような日本の苦境は、米国流の行き過ぎた資本主義/グローバリズムの悪影響というより、世界全体の資本主義人口が増えて競争が激化したことが根本原因だ。日本は、嫌でも構造変革を迫られていたのだ。だが、今に至るも、自民党政治は酩酊状態にあり、官僚の腐敗も目に余る。企業も既得権益にぶら下がり、本来必要な改革も遅々として進まない。そのアンチテーゼとしてなら、中谷氏のように、アメリカを語りグローバル化を語ることも、必要な刺激とさえ言えたはずだ



なくなってしまった『社会』


サンデープロジェクトでは、中谷氏は、日本には『国家』と『市場』はあるが『社会』がなくなってしまったと主張する。これは確かに大きなくくりで言えば、私自身の問題意識とも合致する。ただ、この『社会』という言葉が示唆する実態はなかなかに複雑で奥深い。比較的単純にくくれる『市場』以外のほとんど、ということになると、思想も家族も共同体も宗教も文化も、何もかもが一体となって、渾然としたなにものか、とでも言うのだろうか。ただ、この中に人間が生きる意味と理由のほとんどが含まれるのであり、精神的な安らぎや安定もここが源泉になる。この経済合理性とはしばし無縁の論理に支配された『社会』の部分を、市場の経済合理性に代替しすぎると、『社会』が人々に供与するエネルギーが枯渇してしまう。ここしばらくの行き過ぎた金融資本主義(新自由主義グローバリズム、何でもいいが)の浸透が、日本の『社会』の保持という点で危険水域に達していたのは確かだと思う。


もちろん、日本だけではなく、多くの国、というより多くの文明/文化がこの枯渇の危機を感じ、強い反発を生んだ。イスラム圏からの反発が宗教を前面に押し出してくるために、さも中世のキリスト教イスラム教の対立が起きているように語られることも多いが、特定の宗教だけの問題ではない。そういう意味では、世界のどの国でも多かれ少なかれ同様の問題が起きているとも言える。もちろんアメリカの中でも起きた。オバマ新大統領が、人種、価値観、文化等での変化を強調し、それをアメリカ国民が支持したのは、まさにそれを証明する出来事だ。単純な経済合理を持ち込みすぎると、エネルギーが枯渇してしまう『社会』は本来個別的で、世界共通の軸で統一することが大変難しい。



 『社会』と『市場』のバランス


だが、それも、実はずっと昔からからわかっていたことでもある。一方で、『社会』の個別性を世界中の国々が主張してしまうと、各国経済も活性化せずにしぼんでしまう。ちょうど今世界恐慌の経験が語られる中で、予想される保護主義への傾倒をどう抑止していくかということが議論されているが、社会の個別性の行く末はへたをすると保護貿易ブロック経済だ。それは、自国産業を保護したかに見えて、結果的にまったくの逆効果になることは、多くの尊い犠牲の上に得られた教訓だったはずだ。 『米作は日本の文化』と主張して、米の輸入を禁止し続けた結果が、日本の農業を壊滅の淵に追い込んだのも同じ理屈だ。だから、如何に文化はそれぞれに個別で、お互い相容れないとしても、経済/貿易分野では、できるだけ簡単で共通のルールをつくってそれを守ることが重要であることも、経済理論という以上に歴史の教訓そのものだ。だから、経済分野において、グローバルスタンダードが出来て行くこと自体は、必要なことでもあったはずだ。



ちょうどよいグローバリズム


いわゆる、『グローバリズム』の問題は、多少誇張して言えば、アメリカの中にある個別価値観、特定のルールを、性急に、しかも過度に普及しようとしたことにある。共通のルール設置は、WTO*3がすぐに紛糾することでもわかる通り、各国利害が錯綜することもあって、そもそも大変調整が難しい。これを一足飛びに飛び越えて行けば、それは経済合理的にはなるだろうし、多くのメリットを生むが、同時に多くのトラブルも生む。(生んで来た) だから、如何に今回『グローバリズム』にアレルギーを起こした国や人が多かろうと、しっかりと反省した後には、再び、『ちょうどよいグローバリズム』を求めて苦難の道を行くしか無い。



資本主義は最悪だが代わりがない


かつて、英国首相のウィンストン・チャーチル、『実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。』という名言を残した。そのごとく、資本主義もその程度のもので、他に選択肢がないからやむなく採用しているのだということを充分認識し、さまざまな問題や弊害が起きることを所与としながら、何とか運用を続ける、というのが成熟した大人のあり方だと思う。そして、経済合理性では解決できない、解決してはいけない問題は別の法則の元で、扱って行くべきなのだ。



 『社会』の勉強が必要


中谷氏が、自らの彷徨の終着点として、『社会』の重要性を発見したのなら、それは本人にとって慶賀の至りではあるけれども、ただ、『社会』の問題に真摯に向き合っていくと決めたのなら、この際本格的に勉強し直す覚悟で臨まないといけないのではないか。氏の経済問題を語る重厚な知識と比べて、あまりに素人談義になっているように、私のような浅学の徒でさえ感じてしまう。


日本再生はもはや小手先の方向転換程度では太刀打ちできないと知ることこそ何より重要だ。 『行き過ぎた資本主義』や『新自由主義』だけに還元できるような単純なものではない。私の声がどこまで届くものなのかわからないが、少なくともここでは強く主張しておきたい。


<ご参考>

yukan-fuji.com

経済学者、中谷巌の転向 ~新自由主義は死んだのか?~: カトラー:katolerのマーケティング言論

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/45fb6b96e9beb178c6f62dcca5bb734b

資本主義はなぜ自壊したのか/中谷 巌はなぜ転向したのか? - 逝きし世の面影