日本を再び破滅の淵に追い込む『クウキ』の支配


世界とのコミュニケーションは可能か?


前回のエントリーでは、デジタル・ネイティブのことを取り上げ、日本のデジタル・ネイティブの未来もけして暗いものではない、という主旨の内容を書いた。デジタル・ネイティブの創る未来像を見据えて - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る ただ、そのためには、世界を相手にコミュニケーションができることが鍵とも書いた。では、日本のデジタル・ネイティブ(=若年層)は世界とのコミュニケーションを拡大していくことはできるのだろうか。



『検索バカ』をテキストとして考えてみる


そのことを考察するための優れたテキストとして、芥川賞作家の藤原智美氏の著作『検索バカ』*1が、とても興味深い洞察に溢れており、紹介しておきたいと感じた。しかも、著者の含意は、大抵の人の理解よりずっと奥深く、本質的だ。 いくつかの書評を拝見したかぎりでは、そこまで理解がおよんでいないと思われるものも多い。そもそもタイトルが『検索バカ』とあるわりには、著者の最も主張したいところは、過剰に『空気を読む』ことを強いられ、自分の意見をお互いに主張することを恐れるうちに思考停止してしまっている若者の現状にあるようだ。前作『暴走老人』*2もタイトルが物議をかもしたらしいが、この『検索バカ』も、どうやら簡単に読み流すことを許さない、著者の意図が無意識にせよ現れているのかもしれない。



昔の『空気』と今の『クウキ』


日本には、太平洋戦争当時、合理的な判断を阻んだ怪物としての『空気』の存在があったことは、山本七平*3等の分析でも明らかにされたところだ。そして、今日の日本では、戦後日本の秩序を支え、エゴの無軌道な流出を抑制する装置であった『世間』が、その最後の母体であった『日本株式会社』の衰退とともに消失し、後がまとして、新たな種類の『クウキ』が一種の秩序維持装置として滑り込んできている、と藤原氏は主張する。しかもこの『クウキ』は山本氏の言う『空気』(意思決定のありかたとしての空気)と違って、生活のあらゆる局面で発生し、日常を息苦しく不自由にしている。さらには、現代の『クウキ』は、異議を唱えず、ずるずると消極的にその場に居続けるというような言わば、消極的参加を許さず、期待される『キャラ』を演じて『ノリ』続け、積極的に参加することを強要するという。


その結果、日本人は自分の意見は言わず、議論もしない。それどころか、『なぜ、どうして?』という問いかけも、なるべくしないという人さえいる。問いかけることは、相手を追い込むことにつながりかねないからだ。これでは、対話は停滞し、思考は停止してしまう。言葉を尽くして伝え合うという姿勢がないどころか、それを避けてしまう。そして人と人の対話を封じ込める最強の言葉が、『クウキを読め』だ。



日本の現状の悲惨さ


どの指摘にも、目をふさぎたくなる気がする。だが、確かに自分の周囲にも同様の状況が少なからずあるし、ここで書かれた若年層の状況は、私自身が異口同音に伝え聞くこととも符合する。こんなことでは、日本のデジタル・ネイティブがインターネットによって世界に開かれたチャンスをものにして、コミュニケーションを広げて行くことは望み薄としか言いようがない。英語能力以前の問題だ。言葉を紡ぐことができないどころか、考えそのものが無く、語るべき事がない、という状況は実に暗澹たるものがある。


アメリカ発祥のSNSであるFacebookなど、今回のアメリカ大統領選挙に大きな役割を果たし、しかも不況に突入した今も、ものすごい勢いで世界中で会員が増えている。*4しかし、実名登録を前提とするこのSNSは日本では苦戦している。*5 それはそうだろう。『クウキ』を極端に怖れる若者が、実名で自分の意見を表明するなど、この状況ではありえまい。一方で、キャラという仮面を被って演じ続けることに疲れ果てた若者は、mixiのような匿名が主流のSNSに救いを求めて集まることも、まったく自然なことだ。さらには、世間もクウキも気にする必要がなければ、インターネットに2ちゃんねる的な荒れた言説が溢れるのも当然だろう。



クウキの支配と生活の満足度


個人的な話で恐縮だが、私自身もかつて大企業に務めたころには、この『クウキ』を相手に幾度となく苦闘したものだ。私の場合、その抜け出し先は、海外ビジネスの担当になることだった。もちろん日本企業なので、海外担当部署だろうと濃厚に日本企業らしさはあるのだが、それでも国内営業や工場のような閉鎖空間と比較すると比べ物にならないくらい自由な雰囲気があった。仕事のパートナーとの付き合いも、外国人のほうが楽な事も多かった。そういう海外の友人達を通じて現地の社会にふれる機会があると、如何に日本というのが息苦しいところなのか、ということを何度となく感じたものだ。(これは前にも書いた記憶がある) 同僚の日本人にもまったく同じような感想を漏らす人は多かった。


だから、日本的経営とか日本株式会社の衰退によって、個人が『空気』から解放されるきっかけが訪れることを密かに期待していた。だが、私の認識は甘すぎたようだ。世間は消えても『空気』という怪物は『クウキ』というさらにグロテスクな怪物に進化して居座ってしまったのだから。今は前よりもっと窮屈で生きにくい社会になっている。以前にも書いたが、それは、どの調査で見ても、日本の若者の生活の満足度が非常に低くなっている事実を裏付ける。*6


そして、この社会で人が自発性を無くし、自分で考えることをしなくなったことの象徴であると同時に、その傾向を増長する存在として、『検索バカ』(=何かの問題を前にして、何でも検索して検索結果を積み上げて(あるいはコピペして)それを『わかること』と勘違いしてしまった者のこと)が大量発生しているというわけだ。

世間からクウキへ、さらに検索に象徴される情報社会は、なおいっそう自発的指向を奪いつつあります。それはとりもなおさず、社会的意識を私たちから剥ぎ取ります。さまざまな世論調査が示しているのは、若い世代になるほど『世の中は変えられない』という無力感です。 『検索バカ』P116

再び破滅に追い込まれかねない


かつて『空気』は、日本を勝てるはずの無い戦争に誘い込み、破滅の淵に追いやった。そして、今の『クウキ』もこのままでは、日本を破滅へと追い込みかねない藤原氏は、クウキを読め=もっと卑屈に生きろ、と思うようにしているというが、本当にそうだ。私には『一緒に破滅しよう』という悪魔のささやきに聞こえる。クウキを読むということが、『常に相手の顔色をうかがい、自己主張を避けて、正論をいわない』ことなら、合理性、正義、理想等とは無関係に、その時に支配的なムードで、物事が押し流されるように決まって行く事を意味する。今は何もしなくても事が収まる平時ではない。環境破壊も経済危機も戦争もある非常時だ。致命的な出来事が起きる可能性が極めて高い時期だ。



検索によって成長する人もいる


検索について言うと、私の周囲にも検索の達人がいる。彼らを見ていると、普通の人の何倍、何十倍もの大量の情報を日々扱っている。だが、けしてバカになるどころか、インターネットという巨大なブレインを使いこなすことで、梅田望夫氏の言うような意味で、個人の力を最大限に伸ばし、スマートな人達との人脈をSNS等の力を借りて構築し、それこそクウキが支配する日本の会社組織にあっても、飄々と、しかし堂々と生きている。藤原氏の言うように、今の日本はまさに、『クウキが支配する帝国』だが、その帝国の専横支配を一個人が打ち破ることを可能にする強力な武器、それがインターネットのはずだし、世界のデジタル・ネイティブ(もちろん日本の一部でも)はそのようにインターネットを使い始めている。



変化の兆し


藤原氏はまた下記のようにも述べている。

今少しずつですが、新しい動きも出てきています。ロスジェネ=ロスト・ジェネレーション(失われた世代)と呼ばれる20代後半から30代半ばまでの就職氷河期世代が、沈黙と孤立の谷間から、みずからの言葉で社会へ、雑誌やネットを通して発言し始めました。クウキ読みの日常からの脱出という変化の兆しを感じます。『検索バカ』P206

一歩踏み出す勇気


実のところ、楽観的と揶揄されることを覚悟の上で言えば、私もこの兆しを強く感じる一人である。そして、クウキの帝国支配を何としても打破したいと考えている。そのために、私も、今すべきことを洗い出して、できることから始めてみたいと思う。ただ、これは社会運動や政治運動を展開すればすむようなものではなく、クウキに支配されない自由の爽快感、徹底的に考え抜くことのエクスタシーに似た感動、本当の対話ができた時の強い共感、自分と徹底して向き合ってみることで自分の周囲に自分でつくりあげた牢獄を見つけることの驚愕等、各自、自分自身で体験してみることが何より重要だ。どうすれば一歩を踏み出してもらえるのだろうか。



これらの体験は実はとても素晴らしいものだ。私に言わせれば、『自分探し』とはこういう体験ができる自分を見つけにいくことであるべきだ。だから、一人でも多くの人が、一時的な孤独を怖れず、本当の思考と本当の対話を取り戻し、心から信頼できる仲間を沢山見つけて欲しいと思う。一歩踏み出す勇気があれば、そういう自分は必ず見つかると確信している。