現代思想は今こそ有効だー現代思想について真面目に考え直してみる

勢いを増すグローバリズム批判


アメリカ流の行き過ぎた資本主義、およびそれをベースとしたグローバリズムについては、近年本格的な批判論文が続出しているが、今回の経済危機でさらに活気づくことになるだろう。ただ、問題は、その代わりにどこを目指せばよいのか、という議論がまったく進んでいないように見えることだ。パラダイムの大転換が求められているこの時期にしては、あまりに寒々とした光景だ。


右も左も・・


日本でも、所得階層の二極化、ワーキングプアーと言われる低所得層の存在がクローズアップされる中、共産党員が増加し(この1年間で約1万 4000人増加したという*1)、プロレタリア文学の古典である、小林多喜二の『蟹工船*2が異例の売れ行きを示す等、若年層の一部を中心に左傾化の兆候とも言える現象が見られる。海外でもマルクス資本論が再び読まれているという。だが、それを機に、マルクス研究が再び熱を帯びるというような雰囲気はあまり感じられない。当の共産党自身、最近の党員の増加に戸惑っている様子さえ伺える。


また、一方、田母神元幕僚長の懸賞論文問題に関して、アパグループの懸賞論文に現役の航空自衛隊員が94人も参加していたことを重く見て、ジャーナリストの田原総一郎氏など、日経BPの電子版で、『「田母神論文」問題の本質は“決起”の危険性』と題するコラムを書き、クーデター発生の可能性さえ示唆しているが*3、大方の世論はその危険性を現実のものと感じていない。また、このことをきっかけにして、右翼系の言論や運動が活性化した様子も無い。


どうも、右であれ左であれ、硬派な思想や議論はいっこうに盛り上がらない。世論を惹き付け、大人数を巻き込むほどのパワーのある思想や言説が出てこない現状を見ていると、あらためて『大きな物語』が終わったことを実感はするのだが、どうもそういう納得の仕方では居心地の悪さを払拭できない。うまく表現できないが、大きな物語が終わった時代も終わろうとしている』のではないかと感じるのだ。



日本の現代思想のおさらい


もう少し冷静に事態を把握できるよう、現代の日本の閉塞の原因についておさらいするため、仲正昌樹氏の『集中講義!日本の現代思想*4を読んでみた。


戦後のマルクス思想の席巻と衰退、80年代の『現代思想』の興隆や『ニューアカデミズム』の広がり、そして『現代思想』の終焉と続く大きな流れ、およびその時々に活躍したスターたちの主張等よくまとまっていて、自身が時々の日本の思想にどのような距離と関係を持ってきたのかを振り返ることができる気がする。私が自覚的に日本の現代思想の歴史の中にいる事を意識できるようになったのは、当時まだ京都大学の助手だった、浅田彰*5が『構造と力』で彗星のように登場して80年代の現代思想ブームが盛り上がったころだが、自らの思想形成期にあたったこともあり、大変強い影響を受けたものだ。


今にして思えば、私が最も関心があったのは、西洋近代が当然のこととして前提としてきた、『理性的な人間』による社会の工学的な形成に対するアンチテーゼだった。中でも、バタイユの蕩尽論をベースに、マルクス主義経済学古典派経済学の共通の基礎である『労働価値説』の背景にある『理性的人間』観に代わるものを提示したと評価されていた、栗本慎一郎*6の一連の著作はとても新鮮だった。当時は、まだ資本主義と共産主義の二大陣営が覇権を争っている時期でもあり、まず何より問題なのは、共産主義であり、マルクス経済学の払拭が必要、というような空気もあったが、本当に問題とすべきは、資本主義も共産主義にも共通する『産業主義』だろうと当時の私は考えていた。だから、シュペングラーの『西洋の没落』*7を西洋的価値観全般の行き詰まりについて考えるテキストとして再読する流れにも共感していた。



浅田彰氏の先見性


今回、仲正氏の著作を読んであらためて感じるのは、浅田彰氏の主張に、明確にその産業主義批判、今日の行き過ぎた資本主義に対する危機感が指摘されていた、ということだ。仲正氏の著作に引用された、浅田氏の次の一節は、明確にその基本認識を物語る。

(前略)一方向への絶えざる前進こそ、スタティックな象徴体系をもたない、というより、それを解体し運動化することによって成立した近代社会の、基本的なあり方に他ならない。それは本質的には不均衡累積過程(岩井克人)である。けれども、過程が継続している限り、破局は先へ先へ延期され、人々はかりそめの安定を得ることができる。それだからこそ、人々は究極の目的について問うよりも先に、そのつど前進を続けることを至上命題とするのであり、何ら絶対的基準を持たぬまま、より速く、より遠くまで進むことのみを念じてやまないのである。 『集中講義!日本の現代思想』 P165


当時、『スキゾ/パラノ』という難解なキャッチフレーズが流行語になったが、単に一時期の流行で棄却してしまうにはもったいないような、貴重な洞察を今に至るも提示してくれる概念だと思う。資本主義的な競争サイクルを是とする社会(およびその家庭)では、もともとすぐに気が散り、よそ見をし、寄り道をしてしまう『スキゾ・キッズ』を、追いつき追い越せ式の競争の熱心なランナーであるパラノ人間へと強引に改造してしまうとして、浅田氏は下記のように主張する。

こういうパラノ社会は(中略)ある意味では非常に病的な社会である。しかし、活発な成長運動の中で競争過程がどんどん進行していく限り、社会はある種の動的な安定を得ることができる。それが近代における『正常状態』だったのであり、そのもとでパラノ・ドライブを原動力とする目覚ましい進歩と成長が成し遂げられてきたことは、否定すべきもない。(中略)しかし、今や二十世紀も最後の四半世紀となり、成長の終焉を予感する声が至るところで囁かれている。(中略)少なくとも今までのような型の成長が続いて行く可能性は狭まりつつあり、またその必要性も少なくなっていると言っていいだろう。こうなると、パラノ社会はその病的な正確をあらわにせざるにはいられない。大金を貯め込んだ吝嗇家が、あと千円、あと百円と血眼になっている姿を思い描けばいいだろうか。いたるところでそういう病的な徴候の方が圧倒的になり、しかも、エディプス的家族はますますやっきになって子供たちにパラノイアの病を押し付けようとするのだ。 『集中講義!日本の現代思想』 P171〜172

パラノイデオロギーを強化したアメリカ/スキゾ化した日本


この文章が書かれてから、現実に世界に起こった事を考えると様々な点で実に興味深い。アメリカは、まさにこのパラノ社会を、そのイデオロギーと共に強化し、世界を巻き込んだ。近代社会はより速く、より遠くまで進むことで(破局を先送りにしているとは言え)安定を得る。そして、リーマンブラザーズのような病的な存在こそがその原動力だったわけだ。浅田氏は当時、このパラノ的社会で異常者として抑圧されていた、スキゾ人間を擁護し、パラノ社会からの逃走を説いた。ところが、今の日本はスキゾ人間全盛期とでも言うべき状況になり、肯定的にばかりは語れなくなって来ている。


このような文脈を辿ってみると、今いかに1929年の世界恐慌との対比が語られ、マルクス主義への系統、右翼のクーデターのような徴候を取り上げても、日本社会で再び過去のイデオロギーのもとに人が集まるようなことが起こるとはとても考えられない。それと、アメリカ式を否定して、日本の過去の経営への回帰を説いたり、日本式ものづくりへの回帰と言われても、単に日本式パラノ社会を回復しようとするのでは、いかにも現実味がない。しょせん20世紀型の土俵の上での議論でしかない。



大きな物語を語るスケールが必要


いよいよ20世紀型の、というより、産業革命後の近代のパラダイムが本格的にシフトすべき時期に来ているのではないか。少なくとも、そういう大きな物語を語るスケールがなければ、目先の問題を如何に手際よく片付けようとも、展望は開けないところに、世界は放り出されているのだと思う


困った事に、浅田氏が主張するとおり、行き過ぎた資本主義は世界をテクノキャピタリズムに巻き込み、プラグマティックな工学知とそれによる利潤追求がすべての世の中になってしまっている。思想は平板となり資本主義は幼児化の方向へ向かった。浅田氏は、日本のポストモダン文化においては、超越的な価値を奉ずる老人も、価値を内面化した主体としての大人もおらず、ただ相対的なゲームに狂奔する子供たちがいるだけだと、非常に手厳しい。


だが、どんなに現状が厳しくても、この行き詰まった状態から抜け出すためには、浅田氏のいうところの人文知の復興はやはり鍵と言わざるを得ない。終焉したと言われる『現代思想』の残骸を再び拾い集め、西洋だけではなく、近代日本を支配した思想の臨界点を見極め、やりなおしていくしかないと思う。そういう意味で、現代思想は今でも、というよりは、今こそ有効である』という仲正氏の意見に私も賛同する。そして自分のできること、やるべきことをよく見直してみたいものだ。