日本の最大の課題は『高ストレス社会』からの離脱だと思う


『『何も選ばない』生き方のすすめ』への注目の高さ


宗教人類学者の植島啓司氏の、NB onlineへの寄稿文である、『『何も選ばない』生き方のすすめ』「何も選ばない」生き方のすすめ:日経ビジネスオンラインは、私もタイトルにひかれて読んでみて、大変面白かったのだが、それ以上に興味深いと思ったのは、はてなブックマークの数が非常に多い事だ。多少の偏見もあるかもしれないが、この種の論文に、はてなに集う人達(いまだにエンジニアが多いと思われる)が高い関心を持つことにはやや違和感を感じる。だが、だからこそ、『ストレス』というテーマが如何に身近で重要な問題として、多くの人の関心事であるかを再認識させられる。



世界有数のストレス社会:日本


ストレスついては、日本だけではなく、グローバル化に飲み込まれた全世界的傾向と言ってよい。際限なくスピードが上がることが常態化し、情報処理量が人間の限界を超え、自然としての人間、コミュニティの成員としての人間であるための時間が収奪されていく。ストレスが高まって当然だ。だが、そのストレスの高さ、息苦しさという点では、日本は他のどの国と比べてもキツいという実感がある。植島氏も以下のように語る。

この40年間で100か国以上を旅してきましたが、日本ほどいつも何かに強迫されている国はありませんね。世界有数のストレス社会であることは間違いありません。


私はさすがに100カ国もの国を旅してはいないものの、仕事がら欧米、アジア各国の状況はある程度知っているが、どうしたことか日本というのは本当に高ストレス社会であることを身をもって実感して来た。清潔で、人々も礼儀正しく、電車もバスも定刻に来るし、買い物をしてもレジはきわめて能率がよい。犯罪も少ない。ところが、80年代から90年代の初めにかけて、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われたころでさえ、窮屈さという点では、日本にまさる国は少ないのではないかとずっと感じて来た。植島氏のお話を読むと、やはり私の実感は正しかったのではないかとあらためて思う。



客観的に見ても


このことをもう少し客観的に語る事例は、『過労死』や『過労自殺』だろう。私自身の経験から見ても、少なくとも欧米にはこの概念自体ないと断言してよいと思う。世界中を見渡せば、労働条件が劣悪な国自体は沢山あり、過酷な労働の結果死に至るという意味での過労死はあるようだ。だが、それは日本でいう過労死とは違う現象だろう。先進国であるはずの日本で起きることの違和感こそが問題だからだ。過労死が日本特有の現象である証拠に、KAROSHIは英語の辞書や他言語の辞書にも掲載されている。


米国は特に上級の役職者は非常によく働くことは知られている。そして、働き過ぎで死ぬことはしばしばあるようだ。だが、契約で決められた以上に働き過ぎて死ぬということではない。労働者の流動性が高く、労働市場に柔軟性があるため、そもそも条件が劣悪で、過労死させられるような状況になれば、一早くその会社を見限って去ってしまうだろう。万一従業員が契約を超えて働きすぎて死ぬようなことになれば、企業は訴訟の結果、重い懲罰賠償の判決が下ることを覚悟する必要があるため、そのようなリスクを取るような愚はおかさない。そもそも残業が必要なほど人が必要であれば雇用し、不要になれば解雇するのが米国企業の普通のありかただ。


また、欧州は、労働時間が労働基準法によって制限されているだけではなく、産業別組合がきちんと監視しており、企業が法律を遵守しない場合には、すぐに告発されてしまう。そこのところは、企業別組合が会社への協力と称してすぐに会社と妥協してしまう日本とはおおいに違うところだ。しかも、本来企業を監視すべき、労働基準局などの行政機関もちゃんと機能しているとは言い難い。その結果、日本の労働基準法は大企業においてさえ遵守されないことが多い。言わず語らずの日本的阿吽の呼吸がある。



欧米との比較から見える日本


こうして、欧米の事情と比較してみると、日本の事情が逆照射されてくる。日本は原則終身雇用が前提となっているが、それは一方で、転職が不利であることを意味する。もちろん日本でも転職事情は昔に比べるとドラスティックに変化し、今では転職が当たり前になったが、それでも特に中高年の転職は難しく有利に働くことは少ない。となると、過労死しそうになっても、ぎりぎりまで耐えるしか選択肢が無いということになる。しかも、企業が過労死を強いるようなことをしていても、企業内組合も、労働基準局も取り合ってくれないとなれば、だれかが見つけて止めてくれるというわけにもいかない。しかも、そのような滅私奉公につとめるような態度こそが、終身雇用制の日本企業が最も評価してきた点であり、逆に滅私奉公の姿勢を持たないものはどの企業でも冷遇されるため、勢い、『死ぬ程働く』ことになるわけだ。



変質する日本とストレスのエスカレート


ただ、これは主に高度成長期に見られるタイプの過労死についての説明ではあっても、事実上終身雇用が消失し、転職が一般的になった現在は、特に若年層にとっては当てはまらなくなっているのではないか、という声もあるだろう。だが、過労死/過労自殺は減るどころか、むしろ近年増えている*1 *2(但し、統計はあくまで認定数のため実態を反映しているかどうかは不明。)


しかも従来から多い40〜50歳代から30歳代に広がり、女性にも増えている。近年、長く続いた不況の結果、企業は新規採用を絞り込み、一人当たりの業務量は増加し、責任も重くなり、実質労働時間は長くなり、その結果過労死や過労が原因で起こる鬱病により自殺も増えている。


加えて、高度成長期にはなかった、派遣労働者非正規雇用者)』問題を抱え、ワーキングプアーと言われる下級階層の問題が喧伝されるようになった。男性に限ってみたも、今や全体の2割弱は非正規雇用で、25歳以下の若年者で見ると4割にものぼる。*3その非正規雇用者は、不況ともなれば雇用不安に恒常的にさらされ、仕事があっても、上昇できるチャンスはほとんどない。しかも、そういう人が増えれば、従来の終身雇用の見返りとしての会社共同体も機能しなくなる。地域共同体や家族のようなセフティネットも壊れて来ている。転職して失敗すれば、非正規雇用者になりかねないということが新たな恐怖感となり、現状の職場での過剰労働に繋がっているケースも多くなっている。これは、確かに過酷だ。これでは日本は世界有数のストレス社会だと言われても仕方がない。



国のつくりかたを間違ったのでは?


こうした状況で、今より不況がきて厳しくなるから、さらに頑張ろうと言われても、今までのやり方で良くなるとは思えない。他国の事情を見ると、日本の国のつくりかたは、やはりどこかで間違ってしまったと考えざるを得ないグローバリズムの発信源である米国にも『過労死』は存在しないのだ。『ワーク・ライフバランス』という言い方があるが、近年の日本は、『ワーク』の部分の衰退もさることながら、それに輪をかけて『ライフ』の部分が本当に衰退してしまったと思う。働きさえすれば国が豊かになるということではない。少なくとも、過労死問題は、米国や欧州の事例も参考にできるし、中でも最近非常に注目されるようになった、『北欧型』についても、日本にそのまま持って来れるかどうかは別としても、腰を据えて研究してみるべきだと考える。


筑紫哲也氏のメッセージ


一方、植島氏がお話になるように、『マインド』の部分を見直してみる事はさらに重要だ。最近亡くなったジャーナリストの筑紫哲也氏が、晩年、『スローライフ―緩急自在のすすめ』*4という著作を発表し、スローライフをテーマに各地で講演活動を重ねておられたことは意外に知られていない。戦後民主主義の申し子であり、ハードワークの象徴のようなジャーナリストという立場にありながら、最終的にたどり着いた境地(あるいはもともとそういう志向があったのかもしれない)がスローライフというのは実に象徴的だ。しかも、著作のタイトルは単にスローライフではなく、『緩急自在のすすめ』とある。スローかファストかの二者択一ではないということだ。環境問題への取組みでも、『環境原理主義』とでも言いたくなるような事例は昔からあるが、このような価値の強要こそ、筑紫氏のスローライフの概念とは対極にあるのだろう。戦争を原体験とし、マルクス主義全盛期を生き、高度成長期に働き、バブル崩壊に呆然とし、社会の変質に取組む、という戦後社会のすべてを総括した筑紫氏のメッセージは、『スローライフ』という以上に『バランス』なのではないか。日本人の最も苦手かもしれない課題への取組みが、社会の立て直しの基本に今一番重要だということかもしれない。