多様な視点を持つスケールの大きなエンジニアになって欲しい

再度『退化』について


10月8日付けのエントリー文明は退化している! - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るで使った、『退化』 というキーワードは、よほど皆さんの琴線に(よい意味でも悪い意味でも)触れたようだ。そのことを10月11日付のエントリーでも書いたが、今度はさらに大物の友人からの反応があった(europezo氏)。彼は、私の勧めもあって、比較的最近ブログを始めた新規参入ブロガーである。仕事も忙しい模様で、コンスタントにエントリーはあがってこないようだが、昔から歴史の知識、理解には非凡なものがあり、ただのサラリーマンの横好きのレベルではない。むしろ、社会人としての厳しい実践の場が、彼の歴史理解をいぶし銀のように光るものに鍛え上げたように思える。それが存分にブログに生かされている。是非皆さんも試しに読んでみて頂きたい。ヨーロッパ象の日記〜欧州の片隅から


ところで、そんな彼の一言は、手厳しい。

「退化」という言葉の中に、どこか単一のものさしが感じられますな。


そう、それは私自身大いに反省した部分で、単一の『ものさし』と感じられるとすると、やはり『退化』という言葉を使用するべきではなかった。 歴史や社会をはかるものさしについては、一昔前のような、経済一元というような荒っぽい見方では、もう通用しないことはわかっている。だから、マルクスの言うような、歴史は経済を下部構造として進化発展する、という類いの進歩史観にも、もはやあまり興味はない。多様な軸のどこに焦点をあてるかで、進歩、退化の意味はめまぐるしく変化して見えるものだからだ。


しかも、 『退化』と言っては見たが、『円環的な中での一時的後退』というのが私の言いたかったことに一番近い。 先日ご紹介した弁証法ではないが、『陰きわまれば陽となる』というのが、私の、世界の基本的な理解の仕方である。



歴史学者の故網野義彦先生


今回、私にとってもう一つ衝撃だったのは、彼(europezo氏)が歴史学者の故網野善彦先生に言及していることだ。


このようなイッシューで、筆者が最も衝撃を受けたのは、故網野善彦先生の「人類は壮年期に入った」という言葉です。


実は何を隠そう、私のつたない歴史観も、網野先生の影響をたぶんに受けたという思いがある。しかも、今回私が、『退化』と口走ったのも、網野先生の「人類は壮年期に入った」という見解がどこか頭にあったからなのだ。(残念ながら、どこで読んだのかは、どうしても思い出せない。)europezo氏のブログにある、『壮年期』の部分への理解は、目から鱗が落ちる思いで拝読したが、私の印象では、網野先生の見解に、一種の『衰退史観』を読み取っている人は意外と多い。 私自身は、残念なことに網野先生の名前を出すのも恥ずかしいくらいの浅薄な理解の徒なのだが、『人類の思想/文化のある部分は衰退している』のでは、というインスピレーションを得た。(勝手に感じた、というべきか。) 


少なくとも、『近代科学が過去の暗黒の迷妄を振り払って無限の進化を続けている』というような歴史観に疑いを持たない若い人に、是非一度でいいから立ち止まって考えて見て欲しいと思うようになった。私たちの世代では、そのような単純な見解に簡単にくみすることに対する恥じらいがあったものだが、今周囲を見渡すと、寒々することが多い。『そんなに単純じゃねーよ!』とは是非言っておきたいところなのである。


近代科学だけがすべてなのか?


例えば、『近代科学が普及することにより、伝染病はなくなり、栄養はよくなった』と言われる。それは必ずしも間違ってはいないのだが(私も自分のブログにそのように書いたりしている)、実際には、今でもAIDSや鳥インフルエンザのような伝染病が突然起きて猛威をふるうことはあるし、先進国の人間が口にする食料でさえ、バランスが取れて栄養価が高いかというと、極めて疑わしい。それに成人病で多くの人が亡くなっている。自然資源も『枯渇』の危機にさらされ続け、多くの種が絶滅している。


ちょうど手元にある『レヴィ・ストロース講義』*1という本によれば、未開社会では人口は定常的で、ほとんど変動がなく、人口が増えた場合はもともとの人口とおよそ同じ規模の二つの社会に分裂する。例外なくそうだという。このような小集団は、ごく自然に集団内の伝染病を除去できる。免疫学者によれば、病気のウイルスが、同一個体内で生存できる日数は限られており、存続するためにはつねに集団の全体を循環していなければならないが、この条件は人口規模数十万に達しない限り満たされない。また、私たちが迷信とみなしている未開社会の信仰やしきたりは、多くは自然資源の保全を目的としているが、彼らの複合的な生活環境には、きわめて多様な植物種、動物種が見出される。よって、食料となる生物種は、動植物あわせて百種あるいはそれ以上を数え、脂質が少なく、繊維とミネラルに富み、充分な蛋白質とカロリーがある。肥満、高血圧、循環器系の病気は見当たらないそうだ。


16世紀にブラジルのインディオのもとを訪れたフランス人旅行家は感嘆してこう語ったという。

『われわれと同じ元素から成るにもかかわらず・・・癩(ハンセン病)にも冒されず、中風、無気力や潰瘍など体表面に表れる病気をも患うことはけっしてない。』


最近盛んに言及される、sustainability(持続可能性)という点でも、未開社会のほうが優れているのではと、目を見張る思いがしたものだ。 


もちろん、未開社会のほうがすべて優れている、などと言うつもりはまったくない。ただ、近代科学だけが唯一絶対ではない、という視点はなくさないほうがいいと思う。



スケールの大きなエンジニア



私自身IT関連の会社にいることもあり、技術の成果をできるだけ世の中に持ち込んで、若手にも成功体験を沢山積んで欲しいと普段から考えている。だから、できるだけ商業的にも成功するように、市場への目配りを忘れずにいるつもりだ。リスクにも敏感なほうだと思う。


ところが、最近、話題のGoogleストリートビューを巡って、Googleのエンジニアやそれを擁護する他のエンジニアの意見を聞いていると、正直肝を冷やす思いがする。私からみると、エンジニアとしては優秀かもしれないが、文化や社会という点から見ると、あまりにナイーブで世間知らずに見える。そんな物言いをしたら、ぶち壊しだろう、というような意見を臆面もなく言ってしまっている。どうやら、その原因の一つが、この単純な近代科学信仰、あるいは単純な進歩史観を無意識に受け入れていることにあるようだ。科学技術なら何でもよいのではない。社会や人類のためになる科学技術ならよいのだ。深く知ることは後でよいから、もっと多様な考え方もあるということを知っているだけでもいい。それは、懐の深い、スケールの大きなエンジニアになるために、きっと必要なことだと思う。

*1:

レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)

レヴィ=ストロース講義 (平凡社ライブラリー)