資本主義を大切にしていく気があるのなら

いただいた貴重なご意見


前回のエントリー文明は退化している! - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るで、資本主義が完全勝利したかに見える背後で、世界的に精神文化は『退化』してきているのではないか、という主旨のことを書いたところ、『退化』という言葉に対して、興味深い反応をいただいた。


どのようなご意見であろうと(もちろん反対意見であろうと)、自分が述べた議論に対して、ご意見をいただくのは嬉しいものだが、それ以上に、自分の議論に落ち度や欠点がなかったのか、振り返る大変良い機会になる。この場をかりてあらためて感謝申し上げたい。



日本の若者は退化していない


一つは、日本の今の若者は、その前の世代よりも優秀であり、退化というのは違うのではないか、というご意見。


私も若者に限定して退化していると主張したつもりではなかった。上の世代からは様々な言われ方をしている(しばし非常に厳しい批判にもさらされる)今の若者だが、実は技術的に非常に優秀なだけではなく、驚くほど鋭敏な感性を持つ人たちに出会うことも多く、『年長の我々よりあんたら退化してるぜ』などとても言たものではない。もちろん、無条件に礼賛しているわけでもないが、私自身は過去のエントリーでも書いて来た通り、むしろ私やそれより上の年長世代に『現状維持/思考停止』が蔓延して来ている事により危機感を感じている一人である。


最もおかしくなってきているのは、何より先ず、『ベルリンの壁』の崩壊(東西冷戦の終了)以降、資本主義の勝利を宣言して、『グローバリズム』の思想を持って、旧共産圏にも影響を及ぼして行ったアメリカである。中でも、金融に独走を許した『グローバル資本主義』は、世界に大きな影響を与えた。もちろん日本も大いに影響を受けた。土地や株の高騰に狂奔したバブルもそうだし、事業の育成より上場益だけを目的にするかのようなベンチャー企業の経営者、米国流の株価上昇だけに価値を置いて企業の本来の使命などどこかに忘れてしまった経営者、さらには短期的な収益に目がくらんで毒入り食料をばらまくような恐るべき不届き者の相次ぐ出現など、罪悪感やモラルのかけらも感じられない行動はやはり従前と比べると増えていると思う。その全体の傾向について、『退化』という表現をあててみた。



『退化』という言葉を正しく使うべき


また、退化という言葉の意味を間違えて使っていないかという主旨の別のご意見もあった。言葉の定義の問題だが、非常に興味深いご意見だ。


Wikipediaによれば、『退化とは進歩の反対語ではないが、しばし誤解される』、とある。

進化という言葉が進歩を意味しないのは、生物学上は当然なのであるが、一般には誤解されやすい部分である。それと対応して、生物学における退化という言葉が、生物学における進化という言葉と反対の意味の言葉であるという誤解も広く見られる。今日の学校教育においてすら、国語教育の場では進化の反対語として退化を教える例がしばしば認められる。しかし、これまでにも述べたように、退化は生物の個々の器官に対して使われる言葉である。したがって、その生物全体について使われる進化と対応するものではなく、退化に対する言葉は発達である。


退化は進化のある側面を構成するという考え方が、生物学的には適切である。例えばウマの進化では、平坦な草原を走るための適応として足の中指が発達し、その一方でそれ以外の指は退化した。その結果、現生のウマは一本指である。つまり、ウマの進化では中指以外の足指の退化が重要な役割を果たしているのである。 退化 - Wikipedia


すなわち、私の文章の文脈からすれば、『退化』という言葉の使い方は適切ではないのではないか、という主旨のご指摘である。私は、進化論、特に生物学上の進化論から派生した、似非科学とも言うべき、社会進化論には賛成できない立場なので、進化論的な文脈とは無縁の使い方をしたつもりではあったのだが、確かに誤解を招きやすい言葉の使い方になっていたのかもしれない。『退化は進化のある側面を構成し、しかも進化は進歩を意味しない』とするなら、『退化』の正しい意味を知る人にとっては、私の言葉の使い方から私の真意を理解できないことになりかねない。これは、確かに発見だ。


では、どう言い換えればいいだろう? 『衰退?』『劣化?』『悪化?』あるいは、『末法?』・・・



マックス・ウェーバーの古典的な問題指摘


話をさらに混乱させる可能性もあるが、私の最も言いたかったことは、現代の資本主義(グローバル資本主義)を礼賛する人(だけではなくそれに影響される多くの人達)の中に、マックス・ウエーバーの言う『精神のない専門人、心情のない享楽人(別の訳では、精神のない専門家、愛情のない享楽人)』が、グロテスクなほど急増してしまっているのではないか、ということだ。これは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の最後を飾る非常に有名な部分に登場する表現である。少々長くなるが、その部分を以下に引用する。

今日営利のもっとも自由な地方であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取りさられているために、純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果スポーツの性格をおびるにいたることさえ稀ではない。将来この外枠の中に住むものが誰であるのか。そして、この巨大な発展がおわるときには、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それともーそのいずれでもないならー一種異常な尊大さでもって粉飾された機械的化石化がおこるのか、それはまだ誰にもわからない。それはそれとして、こうした文化的発展の『最後の人々』にとっては、次の言葉が真理となるのであろう。『精神の無い専門人、心情のない享楽人。この無のものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまですでに上り詰めた、と自惚れるのだ』と。 中央公論社 世界の名著61 ウェーバー プロテンスタンティズムの倫理と資本主義の精神 梶山力、大塚久雄


すでに非常に多くの研究と論争があり、当然賛否両論あることを認めた上で、やはりそれでも今もう一度考えてみたい、皆さんにも考えてみて欲しい問題だと思う。直近でも、東京大学教授である姜尚中氏が朝日新聞でこの言葉を引用した記事を書いておられて(08年7月6日)、一方でそれに対して、池田信夫氏の批判的考察のブログエントリーが上がっている。


asahi.com(朝日新聞社):マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 姜尚中(下) - たいせつな本 - BOOK

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/659edee881398583f4d4ccd51b039823



もう少し遡ると、三井物産戦略研究所の寺島実郎氏が06年2月にすでに、当時の世相を評して、同じ問題を取り上げておられる。


http://mgssi.com/terashima/nouriki0602.php



資本主義を本当に育てて行くためには


私の見解は、寺島氏のご意見に近い。『資本主義は滅ぶのが必然』とか『資本主義が文明を劣化させた』とか、そういうことを言いたいのではない。近代の資本主義は多くの社会を未開から解き放った。飢餓、疫病、貧困からの離脱に資本主義の貢献は計り知れない。そういう意味では、池田信夫氏の『資本主義は、歴史上に例のない圧倒的な富を生み出したのだ。格差が最大なのは、資本主義のない最貧国である。』というご意見にも賛成である。


資本主義の対抗軸が、社会主義であった時、世界はその一党支配の腐敗や不条理と非効率に愕然とした。そして、東西冷戦終了とともに、雪崩をうって、社会主義から資本主義への移行が起こった。当時は、そのことが『独裁制から民主主義』、『抑圧から自由』への移行を象徴しているように見えて、資本主義をより輝かしいものに見せていたように思われる。だが、それは社会のすべての問題が解決されることを意味しないという、あたりまえのことを認識する機会が今やって来ているのだと思う。


対抗勢力が突きつけていた問題を、対抗勢力がいなくなった後も同じ緊張感を持って自ら律する意識がないと、社会は劣化してしまう。資本主義には、何らかの制御がなくなると、精神を無くし、心情(愛情)をなくすような本質的な問題が潜んでおり、それを忘れてはいけないのだ、というのが(浅薄かもしれないが)私のウェーバー読解である。


道徳心や宗教心を持って資本主義を運用せよ、というのでは、何をどうすればよいのかわからなくなりそうだが、クリントン政権の労働長官も務めた、ロバート・ライシュ氏の近著、『暴走する資本主義』*1で指摘されている、資本主義と民主主義の解離という視点など、より現実的な対処の仕方を提示してくれる切り口かもしれない。資本主義の持つ良い部分と可能性を育てていくためにこそ、繰り返すが、今は反省が必要な時期だと思う。

*1:

暴走する資本主義

暴走する資本主義