大変化の明日を乗り切る智慧

湯川鶴章さんを『驚愕』 させた変化


今度、湯川鶴章さんの新しい本が出版されるにあたって、お願いすれば献本していただけるという話しがあったので、飛びついた。本のタイトルや、この2〜3ヶ月の湯川さんのセミナー等でのお話しから、なんとなくストーリーラインは想像できる気はするのだが、本という形で起承転結をきちんとつけて書かれた内容が、果たしてどのようにまとまっているのか、発表されていないトピックが織り込まれているのかなど、とても楽しみだ。


しかも、9月16日の湯川さんのブログエントリーは、本を書き上げた安堵感と、どのような反響があるかという緊張感がない交ぜになった真情吐露となっており、それ自体が非常に興味深く、面白かった。 


取材を終えて確信に至ったのは、「広く告知する」を意味する20世紀型の広告はいずれ消滅するということだった。


もう一度言おう。いま起こっている変革は、もはや広告という一つの企業活動の枠組みだけで語れるものではない。経済全体のあり方まで変えるような大きな津波なのである。


http://it.blog-jiji.com/0001/2008/09/post-f17b.html


湯川さんの周囲には、一流の広告会社、広告マンが沢山いる。そういう広告マンの多くは、湯川さんのことを尊敬している。その彼らに向かって、あえてここまで言い切るのはよほどの確信と信念がなければできないことだろう。 それだけの『驚愕』すべき変化が起こっているということになる。あるいはこれは湯川さんの広告マンに対する愛情なのかもしれない。大変なことになるから、早く準備せよ、というメッセージで一人でも多くの広告マンを救いたいということかもしれない。



『驚愕』『戸惑い』そして『期待』


ITネット系のライターは、優れた作品を書かれている人は沢山いらっしゃるのだが、その中でも、湯川さんと佐々木俊尚さんは間違いなく双璧だと思う。精力的に現場を取材して、しかもそれを素人にもわかりやすく纏め上げ、文章にして読者を魅了する、しかもそれをコンスタントに続けるというのは、本当に大変なことだ。


そのお二人の最近の著作や言動を見ていると、共通して感じられるのは、今起きていることに対する『驚愕』と『戸惑い』、そして未来に対する強い『期待』である。そして、私自身も同じように感じることが多い。同じ現実を相手にしていても、切り取っている部分も切り取り方も違えば、現れてくるものは違って当然だと思うのだが、どのように切っても、ものすごい変化に『驚愕』し、戸惑い、そして期待してしまう。以前、同じ主旨でブログエントリーを書いたが、嵐の前の静けさの中のIT・電機業界 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るまさに強烈な嵐の前の静けさ、それが今なのだと思う。


最近、私はどちらかというと、市場のユーザー/消費者の動向に興味があり、とりわけ若年市場や若年者の指向性、マインド等を知りたくて、オタク系、腐女子系まで含めて探求しては、その成果の一部をブログに書いたりしているわけだが、ここから見えてくる変化も実にただならぬものがある。『驚愕』し『戸惑う』ことばかりだ。


では期待できるのか? ということだが、私はYesと言っていいと思う。自分より上の世代から見れば、今の若者は堕落し、腐敗していると言いたくもなるだろうと思うのだが、実際には、若者は思った以上に力強く、そして率直だ。社会の急激な変化に戸惑いながらも、したたかに生き抜く力を持つものが沢山いる。与えられた価値の中でしか生きることを知らない、私たちの世代よりも、ある意味ではずっとしぶといと思うことさえある。


ビル・ゲイツ氏は、この社会のあらゆる構成要素が組み替えられる様子を、リワイアリングと呼んだが、一旦繋がって出来た秩序が、さらに自己革新していく様は、単純に繋ぎ直すというアナロジーでは語りきれていないのかもしれない。



陳腐化する知識


私は、このところ自分が過去それなりに勉強してきたと自負する、マーケティング経営学等が、しばしとても無力で、陳腐に感じることがある。もちろん、そうは言っても、こういう基礎素養は一度集中的に勉強しておくと、自らの仕事をリファインするにあたって必ず役に立つので、そういう勉強を省く事はおすすめできないが、少なくとも型通り昔の知識をそのまま使うことは難しくなって来ている。それを感じるからこそ、私のブログでも、現実にどのように知識を使えばよいのか、そういう試行錯誤の結果をかなり書いて来た。


結局、今は構造理解力というか、起きて来ている事をどう理解するかが問われる時代になってきている。要は、自分の知識もリワイアリングせずには陳腐化する一方なのだ。人間の頭のほうは、機械のように何でも新しいことを詰め込めばよくなる、というわけには行かない。


大前研一氏が、経営学の本はただ漫然と読んでいてもだめで、本に書いてあった内容を自分の実際の仕事等に置き換えて、自分だったらどうするのか、というシュミレーションを繰り返しやらなければだめだ、とおっしゃっているが、大変含蓄のあるお話だと思う。また、最近、smashmedia の河野さんが、セス・ゴーディンの『パーミッションマーケティング*1の読書会の呼びかけをされていて、本当に感心した。ページが見つかりません - smashmedia.jp


若くて、一見ファンキーな雰囲気を持ちながら、その実、周囲に流されないしっかりとした信念を感じる人だと思うのだが、やはりこういう努力の裏付けがあるのか、と妙に納得してしまった。成果を出せる人はやはりひと味違うということのようだ。



史上の天才の智慧を求めて


私自身は、迷ったら源流へ、というのがわりと今までは機能してきたと思っている。例えば、揺らぎだしている現在の経済を考え直そうと、アダム・スミス氏まで遡って読んでみたりしている。また、マーケティングのことで迷いがあると、セオドア・レビット氏*2の論文集を読むと、ヒントがひらめくことがある。古くさいと言えば古くさいのだが、現代に生きている天才の智慧だけでは足りなくなっているところを、歴史に遡ってさらにその上をいく天才に求めないといけないほど、現代は難しい時代なのだと感じている。


もしかすると、さらに遡らないといけないのでは、と感じる事も多い。特に、『近代科学』というイデオロギーの呪縛を超えて考えようとすると、もっと遡って智慧を求めざるを得ない。実際、人文系の学問をやる人の中には、それは必須と諭してくれる人がすごく多い。人間はこれからもテクノロジーを使い、頼らなければならない。だが、『近代科学をベースにおいた進歩は、人類の幸福と一致する』という楽観的な信念はあきらかに行き詰まっている。このままでは科学もテクノロジーも人間を不幸にしかねないという理由で行き詰まるのではないか、という危機感がある


インターネットが切り開いたデジタル新世界の未来は、まだ、未熟で危なっかしい赤ん坊にすぎない。これからもちゃんと育てていくには、文明論的にもサポートできる思想が必要になってきていると思う。ところが、そういう点では、200〜300年程度遡ったくらいでは、とても足らなさそうだ。


哲学者のヤス・パース氏*3によると、紀元前 500年頃の前後に当たる紀元前 800年から 200年の間を『枢軸時代』と呼び、この時代に最も深い歴史の切れ目があり、驚くべき出来事が集中しているという。中国では、孔子老子が生まれ、中国哲学のあらゆる方向が発生し、インドでは、ウパニシャッドが発生し、仏陀が生まれ、イランでは、ゾロアスターが善と悪との間の闘争という挑戦的な世界像を説き、パレスチナでは、予言者たちが出現し、ギリシアでは、詩人たちや哲学者たちが現われた。このような出来事が、中国、インドおよび西洋において、どれもが相互に知り合うことなく、ほぼ同時にこの数世紀の内に生じている。


人類の文明は、結局この驚くべき時代の文物を再利用することで生き延びて来たと言っても過言ではない。今回もやはりそういうことになるのだろうか。ただ、これらは長い歴史の中で、あまりに雑多な夾雑物が混ざってしまっているため、本当に重要なエッセンスを汲むことが難しくなっているのではないか。歴史の積み上げが智慧となることもあるが、時間の経過の中で大切な直観がかすんでしまう事もまたあるように思う。



自分も何か始めなくては


はて、ちょっと誇大妄想気味なところまで来てしまったようだ。現代に話を戻して、私も河野さんに見習って、読書会でも企画してみようかと思う。さすがに、ウパニシャッド哲学勉強会では誰も集まらないだろうから、ホイジンガ*4の『ホモ・ルーデンス』あたりか。いや、それでも人は集まらなそうだ。『キャズム』のジェフリー・ムーア氏か、『イノベーションのジレンマ』のクレイトン・クリステンセン氏あたりのほうがいいかな? それでもダメなら、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読み返す、というのは? どうだろう。