『蛇にピアス』が示唆する死と生の秩序感の変化
■ 『蛇にピアス』の映画公開
9月20日から、蜷川幸雄監督により映画『蛇にピアス』*1が公開される。原作は、2004年にわずか20才という若さで芥川賞を受賞した、金原ひとみさんだ。小説を読むことで感じられる、ひりひりするようなあの感覚がどのように映画で表現されるのか楽しみである。あまりに感覚を刺激されるので、読んでいる途中に時々自分をクールダウンしたくなったものだ。そんな刺激的な描写が次々と繰り出される。わずか20才にして、この表現力がどうすれば身に付くものなのか。ユース・カルチャーと市場を本当に理解したければ、こういう象徴的な作品を理解しておくことは、マーケターとしては不可欠、というような誰かの発言に乗せられて挑戦したことが記憶に生々しい。
■ 『終わり無き日常』に倦む主人公
この主人公、そしてこの主人公に共感する多くの若者が、宮台真司氏の言う、『終わりなき日常』を生きていて、生きる実感、リアリティを感じる事ができなくなっている、ということは私にもすごく感じることができた。それは、世代は違うが、私自身、『終わりなき日常』に自分がいて、出口が見つからない苛立ちを普段から感じることが多くなっているということがあると思う。ただそれでも、『現実味の無い日常では痛みだけがリアル』、という感覚は、さすがに私の想像が及ぶところではない。だが、これこそ現代のユース・カルチャー(というより時代心理といったほうが良さそうだが)を理解する上での重要な鍵であることは、理屈では理解できる。
作家の、金原ひとみさん自身が、インタビューで下記のように答えている。
小説の中には、「スプリットタン」「ピアス」「刺青」「激しい肉体関係」といった表現が象徴的に使われる。金原は「すごく生命を感じさせる行為だと思っています。体にとっては、とても痛かったり不健康なことだったりするのかもしれませんが、むしろ病気になったときに自分が生きていることを強く実感するのと同じように、とても生命力にあふれる行為だと思いますね」と自らが物語の主人公に同調していることを明かした。
■ ここでもキーワードは『リアル』
『痛かったり不健康なことだったり』しても、『生命力にあふれる行為』と感じるありかたは、今はどこでも見られる普通のことになってきている。ケータイ小説を分析している人、あるいはケータイ小説を読んでいる人には常識だが、多くの、特に非常に売れるケータイ小説の題材は、レイプ、妊娠、自殺、リストカット等、私達の常識では、非日常的な出来事で溢れている。ケータイ小説作家は、事実に基づいて書いているといい、読者もケータイ小説が、『リアル』だから読むという。だが、今やケータイ小説は、何百万部も売れるメジャーなものであり、読者のすべてが日常という意味でリアルと感じているとはとても考えにくい。むしろ、日常には現実味が感じられず、こういうようなしばし痛みを伴うような行為こそ、生命力があるという意味でリアルさを感じていると理解するほうが納得できる。
また、近年リストカットや薬のオーバードースは、ものすごく多く、どの中学校や高校にも必ず何件かは起こっていると言われるほどだが、リストカットは、単なる自殺(あるいは自殺未遂)が目的ではなく、多くは、『生きるため』『生きている実感を得るため』にやるのだという。すなわり、『注目されたい』『快感を覚える』『別人格がやってしまう』というような理由なのだという。ユース・カルチャー全般の解析を行うにあたって、明らかに同列に語るべき事情が背景にあると考えられる。
http://www8.plala.or.jp/psychology/disorder/rist.htm
■ 揺らぐ死と生の秩序
確かに、昔から、生きる実感を得るために、死と隣り合わせと言えるような活動や職業を選ぶ例は数多い。ロッククライミング、自動車レース、傭兵への志願(さらにはある種の宗教的な修行)等は、本人の手記やインタビューを読むと、死にたいと思ってやっているのではないことは明白だ。彼らにとって、平凡で安全な日常生活のほうがよほど『死んでいる』ことになる。こういうぎりぎりのところにいるからこそ、強烈な生きる実感を感じる事ができるのだという。ここには強烈な生きる意志がある。(呼び覚まされているというべきかもしれない。)
これは、リストカット志願者とは大いに違うところだ。彼ら(彼女ら)は、はっきりした死(自殺)への意志があるわけではなく、死んでもかまわないし、生残ってもかまわない、両者にそれほどの違いは無い、というような、死と生の境界がとても曖昧な者が多い。何としても生きたいわけではなく死んで構わない、という感じは、ここまで極端ではないにせよ浸透しているのが、現代の『日常』の特徴だ。『蛇にピアス』の主人公の心象風景もこれに近い
この死を巡る秩序感が大きく揺らいでいることは、最近の犯罪を調べてみるとより感じられるところだ。他人を殺すということは、常識的に言えば、非常にエネルギーのいる大変な行為だ。だが、家族から結婚や同棲を反対されそうだから家族を殺した、というような不可解な事例が沢山出て来ている。殺すくらいなら、家出するほうがいいだろう、というような秩序感とは全く別物の秩序感があるということだろうが、年長組みの私には簡単には理解できない。
■ジャック・ラカン氏を援用すると
こういう事例を沢山知るようになって、私がしばしば思い出すのは、ジャック・ラカン氏*2のことだ。彼は、世界を想像界、象徴界、現実界にわけた。
これは、それぞれ次ぎのように分類される。
現代は、このうちの象徴界が崩れ、想像界や現実界ばかりが前面に出て、身近な恋人関係や友人関係か、現実的な世界の週末か死の方向に思考が行きがちと言われる。実際には、それ以上にこの3つの世界内の秩序も、世界相互の関係も地殻変動が起きていると思う。
■単純な議論では歯が立たない
だから、『昔は良かった式』の単純でノスタルジックな感傷も、伝統的な宗教観も、会社や村落共同体の規範も、そのままでは通用しない。『品格』を取り戻せというような議論も、気持ちはわかるが、問題の解決にはならないということになる。何せ、『儒教に影響を受けた日本的な家父長制』という日本の秩序を支えた価値意識、ラカンで言えば象徴界が崩壊しているのは明らかで、再構築したければ崩壊した原因まで遡らないと拉致はあかない。まったく大変な過渡期的な時代にいるものだと思う。
だから、ことを善し悪しで判断するのではなく、新しい秩序感が模索されていることを認め、その中でより良い選択を後押しすることが大事だと思う。そのためには、外から理論モデルをつくるようなアプローチは機能しないだろうと思う。中に入って、対話しながら、身体感覚を持って理解するような覚悟が必要だ。(多少、飛躍して言えば、だからこそ、『カンバーセーション・マーケティング』的な手法はますます重要になると思う。)