CPO (Cheif Philosophy Officer) 設置のすすめ

IT・ネット企業の成功する戦略とは?


最近のIT・ネット業界の動向を見ながら、成功する企業の戦略とは何なのか、あらためて考えてみた。


企業である限りは、どんな形であれ、『戦略』はある。だが、私の周囲の多くのネット企業関係者は、あまり『戦略』という言葉を使おうとしない。そして、最近私も自分を振り返ってみると、随分ご無沙汰なのだ。 これはいったいどうしたことか。



戦略にとらわれることはもはやリスク?


端的に言えば、長く企業戦略の中核にあった、マイケルポーター氏*1の戦略論や、多くのコンサルティングファームがつくりだした戦略論が、IT・インターネット企業のおかれた現実の市場の中で、ますます機能不全になって来ていることが実感できるからだ。 このことは、私のブログでも既に何度も語った事ではあるのだが、時間の経過とともにますますそう感じざるを得ない。何せ、戦略論が構築された、前提やその時の経験則のベースがごっそりと変化していることが本当に多いのだ。


驚くべき事に、なまじ戦略にこだわって固定的な先入観を持って現実にあたると、それががリスクとなることさえある。そうなると、戦略ではなく、『投機』になってしまう先入観を持たない方が、機敏に反応できるだけ、スピードによって勝つ事ができるわけだ。だから、成功体験を持つ、カリスマリーダー(あるいは単なる頑固なリーダー)が率いる会社は、今の時代、大変なリスクを抱えていると言っても過言ではない。


ただ、実際に戦略で成功する会社と、失敗する会社の違いはあるし、アップルのスティーブ・ジョブズ氏のように、カリスマリーダー率いる会社が成功しているではないか、という反論は当然聞こえてきそうだ。確かに、明らかに、経営の善し悪しが非常に大きな実績の差を生んでしまう時代になって来ているという事実は一方に厳然としてある。『戦略』は不要だとしても、『経営』は必須だ。何が違うのだろうか。



ポジショニングによる持続的競争優位達成は夢物語


戦略論に係わる論争が最も華やかだったのは、インターネットバブルとそのバブルの崩壊が取りざたされた、2000年から2001年くらいだという記憶がある。その頃、盛り上がってきた戦略不要論を相手に、マイケル・ポーター氏自身が、インターネット企業も戦略の本質は変わらない、とハーバード・ビジネスレビュー誌で反論されていたものだ。今、手元に、ハーバード・ビジネスレビュー誌の2001年5月号があるのだが、3人の戦略を語るにふさわしい論客の論文が並んでいて、(大前研一氏、マイケル・ポーター氏、ジェイ・バーニー氏*2 その後の時代の変遷とともに振り返ると、私達が何と驚くべき変化の時代を生きているのかをあらためて感じてしまう。


その後何が起こったかというと、いわゆるweb2.0の時代が来た。これが、消費者、生産者、競合というような市場のプレーヤーの意味を全く変えてしまった。(今も変えつつある。) 今でこそ、web2.0バブル崩壊とか、web2.0は儲からないとか揶揄されているが、やはりこれは二つ目の隕石と言っていいインパクトだと思う。


その頃、大前研一氏は、見えない大陸の時代が来ていると言われていたが、今や見える大陸自体変容しているマイケル・ポーター氏は、消費者/生産者/競合という構造は原則として変化はなく、あくまでインターネットはそのポジショニングを補完する役割であるとして、新たな戦略的ポジショニングを構築することをアドバイスされているが、消費者は従来の生産者の領域に入り込み、競合/協調関係はめまぐるしく変わり、そもそも市場を出入りするプレーヤー自体がしょっちゅう様変わりする。そもそも市場のどこに切れ目を書いて、ポジショニングの構成図を書けばよいのかわからない程、隣接市場の境界は曖昧だ。



『感動を生む物語構築能力』こそ本当の競争の源泉


そういう意味では、『ニュー・エコノミーでは状況の変化があまりに速いため、持続的競争優位の達成など、夢物語』として、企業のケイパビリティー(能力 = 従業員の能力、企業の組織の能力など)こそ、持続的競争優位をもたらすと述べた、ジェイ・バーニー氏の見識が最も将来を予見していたと言えるかもしれない。だが、その必要なケイパビリティー(能力)の中身は、かなり変わってしまっていると言うべきだろう。当然、それを左右する経営能力も、様変わりしていると思う。


では、そのケイパビリティーを最大にするための、現代の経営者に最も必要な要素は何なのか。私は、これは『感動を生む物語構築能力』だと思う。


変化が早く競争が厳しい現代の企業に求められるのは、従業員が市場とユーザーに近いところにいて、市場価値を最大にするために個々の従業員の判断で仕事をこなしていけることである。いわば、指揮者に厳密に従うオーケストラというよりは、個々のプレーヤーが自由にアドリブを取り入れながら、全体としては統一感のある演奏を行うことができるジャズ・バンド型が求められる


そんな一騎当千の従業員は、当然実績に応じた給与は要求するし、それが満たされなければやめてしまうだろうが、ある程度の給与レベルに達していれば、金銭報酬はそれ以上の意欲を引出すインセンティブにはならない。金銭報酬は、いわゆる衛生要因だから、ある一定額を超えるとインセンティブとしては機能しない。そういう従業員は、リーダーやマネジャーに管理能力以上に、従業員と同じレベルの特定スキルにも長じていることを求めるものだ。ジャズ・バンドで言えば、楽器線奏者としても一流であることが求められる。


だが、それ以上に、そのような重要員を組織に留まらせ、最大能力を発揮させるインセンティブは、そこで働くことに心底感動できるような物語を構築できる能力を経営側が持っているかどうかに尽きる。アップルのスティーブ・ジョブズ氏は典型的にそういう経営者だろう。


そのような組織は、変化にもスピードにも強いはずだ。従業員は自己学習でどんどんスキルも高めて行くだろう。日常的な労務管理はほぼ不要だ。そもそも管理自体を嫌うだろう。そんな従業員が集まる場(フィールド)を構築できる能力が今後どんどん重要になって行くと見る。



感動を生む能力は希少資源


日本は、社会主義革命のような大きな物語が消失し、個々の小さな物語がぶつかり合って混乱する様相を呈している。 そして、そのほとんどはあまり魅力があるとは思えない物語群だ。そこでは、『感動を生む物語構築能力』は完全に希少資源となっている。そして、その資源は同時に市場に感動をもたらす商品やサービスを生む源泉であることは言うまでもない。経営者やリーダーのそのような姿勢は、従業員にも浸透し、結果として魅力的な、感動を生む商品やサービスがそういう重要員から次々生み出されることになる任天堂などはまさに典型例だと思う。



美徳をベースにした感動が必要


Googleも、そもそもそういう経営が志向されている会社だと思うが、最近のストリートビュー導入にあたっては、そこに破綻とはいわないまでも、ほころびを感じさせるものがある。特に日本のGoogleはそういう傾向があると感じるのだが、どうだろうか。そして、そのことは『感動を生む物語構築能力』には非常に重要な要素が必要であることを再認識させてくれる。それは、まさにGoogleの言う、evil でないこと、野中郁次郎氏の言い方を借りれば、『美徳の経営』*3が必要だということだ。 ここで言う感動は、ただの狂騒ではなく、人々を結びつけ、その企業を心から尊敬できるような美徳、思想性が必要である。最近のGoogleについて言われているような、機械のような無機質な姿勢では、市場は感動するどころか恐怖を感じ、嫌悪感さえ生みかねない。


任天堂の例を出したが、例えば、任天堂の提供する『楽しさ』という価値も、一方間違えば、ゲーム中毒、ゲーム脳の弊害など、ネガの方向に向かいかねない要素もある筈だ。ところが、大変賢明なことに、中毒性のあるマニアックなゲームではなく、家族で出来たり、主婦や高齢者でも簡単に取組めたり、脳の活性化に役立ったり、運動ができたり、いわば『健全さ』をベースにした感動を訴求することに成功しているように見える。そのような姿勢がある限り、任天堂の長期的な成功は約束されているだろうし、有能な次代の従業員も育ち、意欲ある魅力的な人材を惹き付け続けることもできるはずだ。


CPO (Cheif Philosophy Officer)を設置してみては?


Googleの競合企業は、大変なチャンスに恵まれている(敵失ではあるが)と言えるかもしれない。逆にGoogleはそのことに気づいて対処しないと、せっかくの膨大な資金と大量の優秀なエンジニアを生かすことができなくなる恐れがある私がGoogleの経営者なら、CPO (Cheif Philosophy Officer)を指命して改革にあたらせるが、どうだろうか?