内田樹氏の作品を読み込むことで『幸福度』問題を再び考えてみる


幸福度問題再び − 内田樹氏の文章を読み込んでみる


前回のエントリーで書いた国際競争力やGDPより『幸福度』を上げることを考えるべきだと思う - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る『幸福度』について、もう少し補足しておきたい。


前回は、幸福度と国際競争力やGDPとはリンクしないようだと書いたのだが、内田樹氏の近著『こんな日本でよかったね 構造主義的日本論』*1やブログを拝見すると、金銭が社会の唯一の価値軸となっている日本の現状(惨状)について、かなり徹底した議論が展開されている。その内田氏の主張を読み込むことで、私の論点の精度を上げていけるのではないかと感じた。内田氏の文章には、私から見るとしばし大胆な主張も多く、場合によっては誤解を招くことになりはしないか、と心配になってしまうこともある。だが、十分注意して読めば、実際にはしっかりと地に足のついた思想をベースとした非常に重要な問題提起が多いことがわかる。



金の全能性が過大評価された日本


今の日本の『生きづらさ』『不幸』の根本原因は、日本が『金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会』になっているから、というのが内田氏の主張の中核だろう。確かに、社会の価値意識全般がこの『金を沢山儲けること優先』飲み込まれた日本社会では、いつのまにか『よく生きる』ために本当に必要なものを求めるのではなく、金を儲けるために最も効率的な、効果的な手段がすべてに優先するような、価値の逆転現象が起きている。


戦後の経済成長を支えた親たちは、受験に受かり、大企業に入社しさえすれば子供が幸福になるという、恐るべき都市伝説を受け入れるようになってしまった。そして、受験に受かると次には、大企業に入ることを目指す。企業では、係長になれば、課長になれば、部長になれば、役員になれば、給料が上がれば、幸福になるという幻想に誘導されて、皆前進し続けた。いや、前進するしかなかった。でも、本当は、お金や地位はそれ自体が目的ではなかったはずなのだが、本当に大事なこと、本当に大事な価値はほとんど誰も語ることがなくなるうちに忘れられてしまったのが、戦後の日本社会だったと思う。


それ以外の価値はすべて仕事をする上での補助的なものでしかなくなってしまった。仕事以外で何かをやろうとすれば、『趣味』であり『レジャー』であって、それは仕事の活力を取り戻すためのものであった。家族や共同体は、本来置き換えることが不可能であるはずのものにさえ置き換えるのを当然とされた。家庭生活は、これも仕事を支えるために存在するものとされた。そして、仕事の都合で単身赴任が必要なら、それを当然と受け入れさせられた。日本の場合、企業社会からおりるという選択肢は基本的には無い事が前提になっていたので、皆選択の余地がないところに追い込まれていたといっていい。しかも、右肩上がり経済の中では、若干の分け前と、将来への安心が与えられたので、見事な『アメとムチ』が機能していたと言える。



金では買えない価値を見つけることができなくなっている


旅でもスポーツでも読書や学びでも、本当にその楽しや充実を知るためには、真剣に取組むことが必要だ。勉強でも真剣に取組むと、ある時点から飛躍的に面白さが増してくるし、一生をかけてもやってみたい課題というのも出てくるものだ。スポーツでも一生をかけて取組むことのできるものを見つけるためには、ある時期真剣に取組むことが求められる。安易なレジャーでは、けして得られないものがあり、それはやってみない事にはわからない。


ボランティアでも、おそらくは信仰でも(私にはこれは必ずしもよくわからないが)そうだろう。ところが、企業社会全盛の日本では仕事以外の何かに真剣に取組むことは、基本的に社会的な高い評価は得られなかったので、安易に、短時間で、さわりだけを楽しむことができるよう、パッケージ化され、お金とちょっとした暇さえあれば、簡単に楽しむことができるような矮小化したものが溢れることになった。 だが、こんなものは、すぐに飽きるのが当然だ。


金銭では得ることのできない価値のすばらしさを感じることができるた時にはじめて、日本の社会の虚構性に気づくことができる。そして、本当に自立的な生き方を始めるきっかけとなる。だが、世の中のベクトルはそういう機会や人をどんどん少なくする方向に明らかに向いていた。



家庭まで浸透した金全能の価値観


家族の解体を嘆く人は多いが、家庭では、多くの親は自分たちの子供に何をしたか。企業社会で成功すること、そしてその前提として、受験に成功することのみを強要してきたのではないか? 家族や地域共同体こそ、企業が追求するような価値とは違った価値を滋養する場所であればこそ、各自が進んで維持しようとするものだったはずだ。だが、多くの家族は企業以上に企業的であることをメンバーに求め、その結果崩壊に向かった金銭価値以外のものを知ることのできなかった子供たちが、果たして自分の体験した家庭=恐るべき場所を再生産しようとするだろうか。内田氏の本から、下記引用する。

勉強が出来ない子ども、あるいはスポーツや芸能の領域で期待通りの成績をあげることのできない子どもを罵倒したり打揄したりする親がいるが、そのような親たちが、『子供の将来に対する懸念ゆえである』と言いつくろっても、私はそれを信じることができない。 『こんな日本でよかったね 構造主義的日本論』P119


もし、家族のそれぞれが、自分以外の家族に対して、外形的・数値的に周囲から容易に評価されるタイプの卓越性を要求し始めたら、家庭は『地獄』に等しいであろう。バブル期以降の夫婦たちは、相互に相手を『道具化』しようと相克的に戦う、ヘーゲル的な主人と奴隷の弁証法的構想のうちに巻き込まれた。 同掲書 P120


私の感じるところでは、バブル期以前の夫婦もあまり変わらないような印象があるのだが、確かにバブル期以降、エスカレートしてしまったのかもしれない。それは確かにありうることで、金銭的価値以外を見つけようとする意欲をいよいよ社会が失っていることは感じられる。そして、日本社会はどこもかしこも恐るべき場所になろうとしている。


だから、できることなら、この日本の社会で、金銭的価値以外を追求する場所をもっと活性化できないだろうか、と思わざるを得ない。ふとそれを感じた個人が一人押しつぶされてしまう前にだ。だが、押しつぶされずに、歪んだ方向にではあるが、別の方向に向かっていると思われる事例はあるようだ。



学ばないという対応文化

グローバリゼションと市場原理の蔓延、あらゆる人間的行動を経済合理性で説明する風潮を考慮すると、『学ばないこと』が有能感をもたらすという事実は、『学ばないことはよいことである』という確信が無意識的であるにせよ、子供たちのうちにひろく根づいているということを意味している。『学ばない』というあり方を既存の知的価値観に対する異議申し立てと見れば、それを『対応文化』的なふるまいとして解釈することも出来ない相談ではない。彼らは、そうやって学校教育からドロップアウトした後、今度は『働かない』ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる。 同掲書 P124


これは、所謂ニートのような存在を含意していると思われるが、加えて、速水健朗『ケータイ小説的』に喚起される多くの気づき - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るが指摘されるような、新しい『ヤンキー文化』を生む背景となっているのではないか。これは、今の日本では『救い』なのかもしれないと思う。少なくとも彼ら、彼女らは、家族や共同体をつくろうとしているように見える。


女性/母性的価値の不当な過小評価へ


それに比べて、普通の『女性』はグローバル資本主義的な価値に多くが飲み込まれたのではないかジェンダー*2という視点を社会学に持ち込んだこと自体は、社会を健全な方向に揺さぶる可能性を見せてくれたものだが、グローバル資本主義のもとに男女平等というのは、性差の差別を解放する方向に向かうことを前提としながら、実際には、日本社会から『女性的/母性的な価値』を深いところからごっそりとえぐり取ってしまったように見える。それは、『男性』にとっても致命的だった。いつの間にか、『結婚』も『出産』も『家族』も経済的な余力があるときにするかもしれない、いわばセカンダリーな価値へと押しやられてしまった。そして、労働条件が悪化するとともに、男女ともそれを選ばなく(選べなく)なってしまった。


内田氏は、格差社会』なるものの不幸のかなりは『金の全能性』に対する過大な信憑がもたらしていると思う、という。確かに、『格差社会論』は、金銭的な配分の不公平感を、金銭の配分を再構成することで埋めることが解決の道とするものばかりだ。それでは、問題の解決になるどころか、『火に油をそそぐ』というご指摘は、私もそうだと思う。まず、金銭的価値は、あらゆる価値の中のさほど大きくない一部でしかないことを社会が理解するようにならなければ、本当の解決はない。少なくとも、日本の『幸福感』は全く上がらないだろう。


私はけして市場やビジネスを否定するものではない。むしろ、市場はできるだけ簡便で効率的なルールで運用されるべきだと思う。ただ、それはいわば、ルールの決められた限定的なゲームであるべきで、人間の生活一般や、まして思想や哲学、共同体の価値まで影響を与えてよいものではないはずだ。ゲームだからこそ、存分に自由に活動することができるとも言える。



自分でできることは?


自分ができること、というより、やるべきことは、金銭以外の価値のすばらしさを自らどんどん体験した上で人にも伝えて、その仲間を増やすことだ。そのためになら、新しいテクノロジーを利用すること(SNSやブログを利用すること)はとても意味のあることだと思える。そして、その先には、グローバル資本主義的価値観を超えるような企業、事業体を実際につくってみせることだ。それはけして不可能なことではないと思う。もちろん言うはやすし、ではあるのだけれど。

*1:

こんな日本でよかったね─構造主義的日本論 (木星叢書)

こんな日本でよかったね─構造主義的日本論 (木星叢書)

*2:ジェンダー - Wikipedia