若者をポジティブに評価すると中高齢層の反省すべき点が見えてくる事


若年層の自動車離れに対する反響の多さ


私のブログに、検索エンジン経由で来ていただく人の、検索キーワードを見ていると、『若年層の自動車離れ』が非常に多い。これは私にとっては正直違和感がある。というのも、確かに市場が劇的に変化している要素として、『若年層』を深く掘り下げて理解していくことは、非常に重要だと言う問題意識があるため、しばしテーマとして取り上げて来たことは確かだが、『自動車』については、私自身がかつて自動車会社勤務経験者であるにもかかわらず、あえてあまり取り上げていないため、私のブログ全体でも、自動車に関係するキーワードはむしろ少ないと言っていいと考えているためだ。

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大きな構造変化が起きている


だが、どうやらこれは、それだけ『若年層の自動車離れ』というテーマに関心を払う人が多いということの一端のようだ。日本に自動車関連産業に現実的な利害を持つ人が非常に多く(かつて1人/10人と言われたものだが、最近はどうなのだろう?)、しかも現代の市場の構造変化につき、深い象徴的な意味があることは確かだからだ。


前回の私のエントリーでは、若年層のエネルギー小消費型とでも言えるようなライフスタイルが主流となって来たことをその原因の一つに上げておいたが、これが含意する文脈は、もはや単なるライフスタイルの変化という程度のものではなく、もっと大きな構造変化が起きていると理解したほうがよさそうだ。



草食系男子


先日、丸激トークオンデマンド*1社会学者の宮台真司氏と、ビデオジャーナリストの神保哲生氏が毎週主要なニュースを語ったり、ゲストを迎えてトークを行う有料ネットビデオコンテンツ)を見ていたら(8月23日配信分)、最近『草食系男子の恋愛学』という本を出版した、大阪府立大学森岡正博をゲストに迎えて、『なぜ日本人男子は結婚しなくなったのか』というテーマについて議論が行われていた。


結婚しなくなったのは、男子だけではなく女子もそうなのだが、ここでのサブテーマは、草食系というネーミングがなじむ男子が増えている事で、これを男性の伝統的なマッチョな価値観と対比すると、女性的というよりは、中性的な、まさにエネルギー小消費型の性向が見えてくる。以前、『乙女男子』ボーダーレス消費の拡大 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るのことを取り上げたことがあったが、『マッチョな価値観』との対比で言えば、草食系男子も乙女男子も、同カテゴリーというか、同じ原因から生じた結果と見てよいように思う。


結婚に対する全般的な意欲低下は別とすれば、草食系男子自体については、森岡氏も、宮台氏も総じて肯定的だった。結果的にではあれ、エネルギー小消費型文明/精神的価値重視への大きな流れという点では、私自身も、ある程度肯定的な姿勢で評価して、社会の中にある種の理解と位置づけを行っていくのが賢明なことだと思う。それが、いわば社会を成熟化させる取組みのように思える。



肉食系/旧エコノミックアニマルは?


ただ、一方で、まだ、社会の中に収まりどころを見つけて行くのは、相当に難しいだろうこともわかっているつもりだ。アップル社が提供する、ポッドキャストで、田原総一郎のタブーに挑戦!』*2という番組があるが、ここでも、若者の急速な消費意欲の減退ということがテーマに上がっていたが、興味深いのは、田原氏の『困惑と嘆き』が非常にストレートに伝わって来ることだ。日本の高度経済成長を実現し、『エコノミック・アニマル』とさえ言われた、『肉食系』(と言って良いかは厳密には難しいが)の世代にとっては、ただ困惑し、嘆くしかないというのが正直なところなのだろう。その証拠に、その後の番組で、世界に飛び出す意欲ある若者のことをとり上げ、彼らを賞賛し、彼らに続け! という主旨のコメントをされている。


田原総一郎氏から見れば、ずっと下の世代になる私でも、このメンタリティーは痛い程わかる。世界の情勢の中の日本を経済戦争という観点で見れば、草食系どころか、全員肉食系に変わらないと大変なことになるというのが本音だろう。(森岡氏の含意を若干超えて、草食系という言葉を拡大解釈しているが、このような応用範囲を含む概念として使えるように思う。)


さらに言えば、生徒の自主性を重んじる教育改革を行えば、イノベイティブな人材が沢山出て来て、経済的な競争を再び盛り上げてくれるというような錯覚を多くの人が持ったのではないか。というより、自主性をアピールすれば、アメリカタイプのイノベイティブな人材が沢山育ってくると、(全員ではないにせよ)比較的楽観的に考えていたのでないか。



中高齢層が置き去りにした問題群


ただ、これは日本の中高齢層が、結局バブルの狂騒から何も学んでいなかったということではないかと、少々鼻しらむものがある。物的な経済成長さえ達成できれば後はすべてついてくると言わんばかりに、経済以外にはほとんどすべてのことに思考停止をして、組織から脱落することを許さない独自のサラリーマン社会を作り上げ、すべて仕事、会社優先で家族や個人の生活を犠牲にし、達成した富で海外の不動産を買いあさり、あげくはバブルに踊って不良債権の山に沈む司馬遼太郎氏が生前バブルに狂奔する日本人を見ながら、日本人の変質をしきりに嘆いておられたものだが、バブル以降の失われた10年を反省してすごしたとはとても言えまい。


最近の若年層の声を耳をすまして聞いていると、もちろんポジティブな要素だけではないのは当然だが、少なくとも現在の中高齢層が『グロテスクに育ててしまった問題部分』を忌避し、嫌悪するかのような、非常に強烈なアンチテーゼがあることがわかる。少なくともそういう要素を沢山発見して、はっとしてしまう。


例えば、エネルギー小消費もそうだが、スノビズムに対する興味の減退従来型の社会階層での上昇志向の消失傾向等若年層と中高齢層と、ネガティブなのはどちらなのかと考えさせられる。若年層のポジティブな部分に目を向ければ向ける程、我々の世代以上の年代が決着を付けるべき反省点を見せつけられるような気がする。そして、それは、本当にきちんと決着をつけていかないと、社会全体がスタックしたまま、さらに長い時間だけ流れてしまうだろう。


まだ必ずしも言語化されていないか、言語化されていても、注目されずに埋もれている問題群を、せめて、出来るだけインターネットの言語空間にでもよいから引き上げるていくことに意義があると今は感じることができる。そう思えば、私のようなものでも、ブログを書き続けるモチベーションが湧いてこようというものだ。