ハイエクに学んで21世紀に生残る

ハイエクと私


池田信夫氏の、『ハイエク 知識社会の自由主義*1を読んだ。本の内容自体も面白かったが、ハイエク*2 に対して、どのように自分が相対して来たのかを振り返り、感慨に耽ることになった。


私は経済学部出身でありながら、あまり経済学を勉強したとは言い難いが、経済学説史は比較的興味を感じて、学生時代から多少の文献は読んで来た。そのころの標準的な経済学説史の教科書では、ハイエクは明らかに異端扱いで、中にはまったく扱われていないことも少なくなかった。だが、その後の評価は二転三転して、今では一番正しかったのは、結局ハイエクだったと言う人が私の周囲にも非常に多い。 


私が初めてハイエクの名前を知った頃、古典派経済学ジョン・メイナード・ケインズ*3マクロ経済学的分析を組み合わせた『新古典派閥統合』のポール・サミュエルソン*4が主流であったが、まだマルクス経済学も勢いのある時代だった。一方、政府の官制エコノミストのほとんどはケインジアンで、当時すでに巨額の財政赤字と恒常的なインフレを抱えて、ケインズ流の処方箋に疑念を持つ人は増えていたものの、現実的な代案がない、という空気だったように記憶している。


そこに非常に鮮烈な華やかさを持って登場してきたのが、シカゴ学派ミルトン・フリードマンだった。当時は、私自身、フリードマンハイエクの考え方の相違は必ずしもよくわからなかった。イギリスのサッチャー元首相がハイエクを支持していたことからも、同系列の経済学者として括っていた。(実際は違う。)



自由放任主義は万能か?


当時の私は、共産主義社会主義についてはこれ以上の発展はないであろうことはさすがにうすうす感じながらも、近代経済学の背景にあるあまりに単純化された人間観や社会観が、非常に複雑化してきている社会問題全般の解決策として、調和的に機能していくようにはどうしても思えず自由主義的な経済運営は前提としながらも、第三の道があるのではないか、といつも考えていた。


ゆえに、アダム・スミスを研究して、自由主義をベースとした近代の経済学の黎明期を振り返ってみたいという衝動に駆られ、『国富論』だけではなく、『道徳感情論』をあわせて読んでみた。そして、各人が利己心を持って自分の利益を追求する結果、(神の)見えざる手が働くのは、アダムスミスの時代の市民の持つ、道徳心、常識、宗教心等に裏付けられた、『共感』が背景にあるからということをスミス自身が論じていることを知り、それを卒論とした。


利己心と共感の矛盾という難問は必ずしも解決は見出せなかったが、『共感』とは何か、という疑問はその後長く私の研究課題となった。少なくとも、『共感』に相当する要素が社会から消滅すると、自由放任という自由主義経済のテーゼは成立が難しくなる、という仮説を得ることはできた。


共感の相当物は、必ずしも深い宗教心や神への信仰に基づいたものである必要はなく、場合によっては属しているコミュニティーでの村八分を恐れる気持ちから、利を他人におよぼすというレベルの意識を含めてもよいと思う。少なくともある程度の社会通念として、これが存在する社会であれば、市場のルールとして利己心を最大化するというゲームもまた成立しうる。自己の権利を最大化するためには、他人の権利を同等に尊重し、市場のゲームとしては最大限利己心を追求するが、歯止めのかからない弱肉強食の不毛な争いにならないような行動様式は、単に『自由放任』にしておけば、自生的に出来上がってくるようなものではないことは、文化人類学の数多くの業績を出すまでもなく明らかだ。


『後期〜晩年』のハイエクが、同様の問題意識を持っていたというのは、恥ずかしながら私は知らなかった。今回の池田氏の著書で教えていただくことになった。



市場は自然発生的に出現するのか?

市場が自然発生的に出現するものなら、西洋文明圏以外で大規模な市場が発展しなかったのはなぜなのか。この疑問についてハイエクは、市場は必然的に生まれたシステムではなく、偶然できたものだとする。では、偶然の産物がここまで広く世界に普及したのはなぜか。そもそも個人が欲望のままに行動すると予定調和が出現するという論理的な根拠は何か−そういう問題には、彼は答えていない。 同掲書 P139


そこで、ハイエクが依拠したのが、『集団淘汰』だという。これは、集団どうしが競争する場合、利他的な固体が多いと集団の効率が上がって、競争に勝つという説だ。ただし、これはその後、ベースとなる生物学自身により否定される。そして、ハイエク亡き後もさまざまな研究がなされているようだ。さらに、池田氏によれば、行動経済学や実証経済学の結果を、『進化心理学』で説明しようという実証研究が現在の経済学のフロンティアなのだという。私の率直な感想を言えば、どれも奇怪な方向に逸脱していっているように思う。感情・思想等を排して説明することがロジカルで科学的とする発想から抜け出ることができずに、人間理解において視野狭窄に陥っているように私には思える。



経済学は物理学とは違う


ただ、ハイエクがディビッド=ヒュームの流れをくむ懐疑論者で、人間理性が全体を俯瞰するような社会工学的なアプローチは徹底して反対したというところは、結果的にではあれ、賢明だったというべきだ。社会科学と言われる学問領域における公式やフォーミュラは、経験的な事実を積み上げる帰納法的な手法によって成り立っており、物理学のアナロジーによって構成することによって、科学を装っているが、実はこれは経験的な法則ではあっても、厳密な再現性などない。ここにもう一つのフィクションがある。

違うのはニュートン古典力学はすべての物理現象を説明できるが、新古典派経済学はほとんど現実の経済現象を説明できないということだ。とくにハイエクが批判したのは、時間の概念が入っていないことである。古典力学運動方程式は永遠の未来まで予測でき、時間について対称(時間がマイナスになっても成立する)だが、経済現象では未来の価格は予測できないし、一度やった失敗は取り返せない。だから古典力学をモデルにして経済をとらえること自体に無理があるのだ。 同掲書 P132


私が企業でマーケティングを仕事として取組みだした頃には、面白いことに、まだこの近代経済学の発想が忍び込んでいて、数学的な実証性をしつこく求められたものだ。社会変動があまりなく、条件が単純に統御でき、それ故に、時間のファクターにもあまり左右されないような環境であれば、それなりに通用していたとも言えるのだが、昨今のように、社会が価値のレベルから大きく変動し、不安定で、しかも文化の背景にあるコードも社会全体で共有しにくくなってくると、数学的な実証性や正確さに固執すること自体が問題になる。


21世紀に入る前に、マルクスケインズもほぼ過去の遺物となっった観があり、逆にハイエクの評価が高まってきたことは社会の成熟度が上がってきた印と私は評価している。ただ、ハイエクが正しく継承されていくには、もう少し紆余曲折がありそうだ。 個々の企業、個人の立場からはここで起っている事態を冷静に分析して、巨大なうねりに飲み込まれてしまわないようにしたいと思う。 個々の企業がそういう知恵を持つようになることは、ハイエクの遺産を正しく継承する第一歩であると信じる。