日本教を世界に通用する普遍的な知恵にしたい

アンカテのessaさんが語る『日本教


最近、アンカテのessaさんが、『日本教』について書いておられたのを読んで2008-07-31 - アンカテ、 その参考文献を見ると、阿部謹也山本七平、さらには井沢元彦らの名前が並んでいる。あらためて、essaさんが本当に私とものすごく近い関心領域を持った人であることを再認識した。日本が経済的に非常に注目された時期に、一斉に出て来た日本人論をきっかけに、他の文明と比較しても、ユニークな日本人や日本文化とは何なのか、大変議論が盛り上がった時期があったが、そのころの空気を共有した同時代人であろうことを感じさせる兆候も沢山見つけたように感じた。時代を代表するブロガーが、しっかりした裏付けと問題意識を持って、 webの言論空間に確固とした見識を示されているのを見ると大変元気づけられる。しかも、私のような文化系に偏った者ではなく、essaさんのように一流のエンジニアとしてのキャリアも持ち、高いレベルのバランス感がある言論人の存在は本当に頼もしい。


Googleのストリート・ビューをきっかけに


しかも、ちょうどGoogleのストリート・ビューのリリースにあわせて、日本の生活道路が撮影されていくことの違和感、居心地の悪さ、ということについて、非常に率直な見解を表明されて話題になっている、higuchi.com の樋口 理氏のエントリーGoogle の中の人への手紙 [日本のストリートビューが気持ち悪いと思うワケ]を、『広義の日本教』とGoogle等の海外勢との間に生じる違和感の問題としてご自身がエントリーを書かれるだけではなく、Global VoicesGlobal Voices · Citizen media stories from around the world を通じて、英語文化圏への発信を通じて、意見集約や議論の場を広げて行こうとされている。そういうリーダーシップは私などとてもまぶしく感じてしまうが、自分でも何かできることはないかという気にさせられる。せめて、essaさんや、Global Voicesのサルツバーグさんと近い関心領域について、私なりに考えていたことをできるだけ書いてみることで、少しでもこの輪の中に参加し、あわよくば貢献してみたいものだと思う。


日本に新しく生まれるプライバシー概念


Googleのストリート・ビューのタイプのサービスが日本で始まるかどうかについては、私も注目していた。しかも、その時に、プライバシー問題についてどのような議論が起こるのか、少なくとも従来日本ではほとんど喚起されてこなかった問題提起が起きるであろうことは予想されたし、もしかするとこの機会に今まで日本社会が発見していなかった、新しいプライバシー概念を見つけることになるのではないかとさえ考えていたのだが、樋口氏のエントリーを拝見して、いよいよそういうことが起きてくるのでははいかと思われてならない。日本のプライバシー概念の歴史の中で、大変ユニークな転換点となる予感がある。


世界中が不安に


そもそも、Googleは、日本だけではなく、世界中で、『プライバシー』に係わる論争を惹起してきた。これはその一部を私の5月25日付けのエントリー法的問題に見るGoogleの今後 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るでもふれておいたが、Gメール導入の時、Gメールのリスティング広告がメールの内容にあわせて広告が出る、ということが特に欧州を中心に大変大きなプライバシー論争を巻き起こしたことを記憶されている人も多いだろう。そして、このGメールでも、今回のストリート・ビューでもそうだが、これがGoogleの意図する、世界中の情報をすべて整理するという構想の中では、個人のあらゆる情報も当然その中に含まれるし、そうであれば、いくらGoogleが自分たちはevilにはならないと宣言しても、払拭できない潜在恐怖が大きくなって行くのは当然だ。


前回のエントリーの繰り返しになるが、Googleが中国の検閲要請に応じたように、国家権力という、場合によってはevilに容易に変貌する存在の要求に屈したという象徴的な意味は、大変大きかったはずだ。私自身も、今のGoogle の経営陣がevilであるとは全く思わないし、むしろ既得権益というevilと戦う解放者のイメージを感じるくらいだが、初めはそのように清廉で理想の高い集団が、ある時点から変貌してしまう例は、歴史にはいて捨てるほどある。そういう意味ではGoogleユーザーの潜在恐怖はけして、妄想とばかりは言えないはずだ。


Google =十字軍?


ただ、すでに『宗教』という分析タームを使いこなせる人たちなら気づいているように、Googleの、自分たちは閉鎖的社会に自由をもたらす解放者であり、正しい事を行っているという確信は、極めてキリスト教的だ。十字軍的というと多少言い過ぎかもしれないが、そのような確信に支えられていることは、少しGoogleのことを調べた人なら、誰でも感じた事ではないだろうか。そしてそれは、日本人の行動が意識されないままに日本教とくくれるような枠組みに影響されている以上に、Googleにとって自覚的なのだと思う。



日本教を意識しない日本人


一方、日本人のほとんどは、自らの宗教について聞かれれば、無宗教と答えるだろうし、それがまた常識ある社会人として期待される回答であると考えている。だが、これはずっと昔から言われていることだが、無宗教というのは世界ではマイノリティーと言わざるを得ないし、そもそも客観的に見ると、日本人の生活態度は十分に宗教的だ。昨今たしかに大きな変貌を遂げつつあることは確かだが、少なくとも今まではそうだったし、潜在的には今も濃厚に残っていることは、すでに私のエントリーでも何度も言及した。


危機にある世界


今、世界はとても危機的な状況にある。どの問題も世界という単位でしか解決できない問題ばかりなのに、アメリカの没落に見られるように、ますますリーダーシップ不在の方向に向かい、解決の糸口さえ見つからない状況だ。日本も、Googleの浸透に見られるように、パラダイス鎖国を決め込むんでいても、もう楽園で戯れていることが限界に来ていることは誰しも気づいているだろう。


世界の合意形成への試み


そもそも文明も思想も世界規模で見ると混沌としているのは、今に始まったことではない。宗教、思想、風俗というようなレイヤー(プライバシー概念もそこに含まれる)の合意を国や民族の単位で取り結ぶことは、実に難しく、それゆえ過去人類は戦争に明け暮れて来た。だから、そのようなレイヤーで合意を目指したり、一本化するようなことはせず、どんな思想や宗教を持つ人でも合意できる最低ラインとして、貿易や商業の決まりについて合意し合い、宗教や思想のような深いレベルの問題はお互いに干渉せず、尊重しあおうという考えが主流となって来た。(多元文化主義*1) そういう理想を夢見た人たちは、特にアメリカ人を中心に多かったのではないだろうか。冷戦終了直後に書かれた、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を読むと、その種のアメリカ人の楽観を読み取る事が出来る。


普遍的ではなくキリスト教


ところが、どんな宗教や思想の持ち主でも合意できるはずだった、『市場』『進歩』『科学技術』等の概念が、超価値的/普遍的な概念であるどころか、キリスト教的信念に強く裏打ちされたものであることに、早々に世界が気がつく事になる。そして、本来潜在していながらも、それまで必ずしも大きく顕在化していなかった問題が、大変グロテスクな形で顕在化して来ている。中でも、どうしても今後避けて通れなさそうな問題として、キリスト教的思想の持つ『非対称性』および『シャーマニズム』の問題があると思う。


キリスト教にある問題点:『非対称性』


『非対称性』とは、簡単に言えば、絶対的な神とその他、という構造のことだ。そして、神に一番近い人間が動物や自然の上位に立っているという思想である。よく言われるように、このおかげで、科学技術は進歩し、石油や森林等の資源を思うままに活用し、はては遺伝子の操作、原子力の利用というようなことを確信を持ってやって来た。そして、産業は発展し、人間の生活は、物的には非常に豊かになった。ただ、一方で、環境は疲弊し、資源は枯渇し、遺伝子や原子力など、人間がコントロールできない怪物を生んでしまった。(ある意味では、デリバティブなども、自分たちがつくりだしたはずなのに、制御不能の怪物となりつつあるという意味では、同じカテゴリーの現象かもしれない。)


そして、もう一つ、超国家的な帝国を構築していくという傾向の問題だ。(中には、カトリック帝国主義の先兵を務めたような歴史もある) 巨大国家、さらには超国家的な帝国が、覇権を求めて自己正当化を始め、その他の価値を圧殺して行く孫文*2の言うところの(王道ではなく)覇道の方向に進む詐術が織り込まれている。


これは、アニミズムの伝統が多く残り、仏教の影響を受けている日本人の感性には、本来受け入れ難いものだ。世界宗教の中では、仏教は対称的性格を持つと言われていて、人間も動物も本来的な差をつけない。人間と神仏も絶対的な違いはない。そのような思想を背景にしている文明からは、今の科学技術の進歩の方向はどう見ても異常に見えるはずだ。もちろん、日本も戦後はアメリカ文化の影響を受け、市場原理主義を受け入れようとしてきたわけだから、かなり薄まって来ているのは確かだが、少なくとも日本人であれば、キリスト教文化圏に育った人よりはるかに、この違和感を感じる人が多いはずだ。これが、日本ではグローバリズムの考え方を競争の必要条件と認めながら、自らコミットできない居心地の悪さを感じている人が多いことの本当の理由だと思う。そして、その感性がが完全に意識の底に沈んでしまう前に、もう一度顕在化させ、言葉として語ることで、日本人自身の自尊心の復活と、何も出来なくなってしまった世界の方向を修正していく役割が果たせるのではないかと思える。


もう一つの問題点:『シャーマニズム


そして、もう一つは『シャーマニズム』の問題だ。これも簡単に言えば、没我的な熱狂に安易に身を任せることを是とする性向のことだ。9.11以降のアメリカはどうみてもこのキリスト教シャーマニズムという怪物が野に放たれてしまっているとしか思えない。これは、河合隼雄氏と中沢新一氏の対談集である、『仏教が好き!』*3
に詳しく述べてあるので、是非多くの人に読んで自分で考えてみて欲しい。キリスト教の良い部分が表に出ているときは、理性的で寛大なアメリカ的価値は、日本人でありながら、私もとても好きだ。また、それを体現する、尊敬すべきアメリカ人の友人もいる。ところが、その背後に、時々爆発する爆弾としてのシャーマニズム的忘我が、処置されないままに残っているようなのだ。そして、そういう時のアメリカは倫理性までかなぐり捨てるような破壊的な面が表に出てくる。


残念なことに、シャーマニズムという点では、日本だけ例外というわけにはいかない。日本でもこの怪物が制御できなくなったとき、二・二六事件*4のようなことが起きるし、太平洋戦争前後の日本はあきらかにこの日本的シャーマニズムに乗っ取られていた。幕末の歴史を見ても、この怪物は危うく国を蹂躙するくらいに野に放たれていたのだと思う。多くの尊王攘夷派の武士などは、明らかに忘我の熱狂に捕われていたと思う。この時、リアリズムに徹した、大久保利通タイプの政治家の存在なくば、国は本当に滅びていたかもしれない。


戦後の日本の企業戦士が、会社の為に我を忘れて没我的に働いたのも、この伝統の影が見えていた。怪物は自覚的に飼いならさないと、個人でも国でも破滅してしまう破壊力がある。日本教は日本だけのローカルなものではなく、上記で言う意味での世界性を十分に持つものだが、そこに潜むシャーマニズム的没我という怪物を統御することにもっと自覚的になる必要がある。


正邪渾然一体の日本教


日本教には、禅に見られるように、どんなに深い瞑想の中にあっても、没我にならず、いわば個別自我の思考を超越的知性に昇華していくような知恵を持つすばらしい一面と、国家を滅亡の淵まで追い込んでしまう、シャーマニズム的な没我性という恐ろしい一面が未だ渾然一体となっている。普通の人にとって、宗教は危険なものであり、近寄らない方がいい、というとき、大抵、後者のネガティブ性が念頭にある。時に、善良な新宗教としてスタートしても、あるときこのシャーマニズム性を統御できなくなり、グロテスクで危険な存在になってしまう宗教は日本の歴史にも数多い。


我々がどうしてもやるべきことは、この恐ろしい部分を統御し、すばらしい面を育てて行く知恵を取り戻して行くことだと思う。それが出来て来た時、ことさらに宗教色を前面に出さずとも、生きる上での実用的な知恵として誰もが共有することができるものになるのだと思う。同時に世界を救う世界性を持つこともできるはずだ。


だから、essaさんがおっしゃるように、我々はもっとちゃんと勉強して、その上で、言葉として世界に発信して行く必要があると思う。