ルールや自己規制が競争を制する源泉?

私の間違いについて


7月28日に、インディ・ジョーンズの一シーンについて、『文化系トークラジオ』*1で、解説された内容として、インディ・ジョーンズがルール自体を変える自由で柔軟な発想を持っていたことを象徴しているというお話しがあったことを軸にして、ブログ・エントリーを書いたが、実は真相はそうではなくて、そのシーンは本当は大立ち回りをする予定だったのが、当日主役のハリソン・フォード氏が体調を崩していたため、銃で簡単に片付けて終わるというような簡単な撮影になったのが真相では? というご指摘をいただいた。


おやっと思い、再度、podcastで内容を確認してみたところ、実は放送の後半で、ハリソン・フォード氏体調不調が真相だった、というお話しが出てきたのを私が聞き漏らしていたということがわかった。ご指摘いただいた、チミンモラスイ?*2のp-article氏に感謝するとともに、ここに皆様に私の間違いを陳謝したい。


ただ、結果的にだが、様々な未成熟なままに記憶のかなたに沈んだ思考のかけらを引きずり出し、若干迷走気味ではあったかもしれないが、議論を展開することができた。私としては大変有益なきっかけではあった。作品は作者の意図を離れて、読み手(映画なので観衆?)の勝手な解釈が行われていくことがあるということをはからずも実践してしまったのだが、当時この映画のこのシーンを観て強い印象を持ったのが私だけではなかった、ということを知って、私にとっては有意義であった。そして、できれば私がここで展開したお話しについて、あらためて皆さんのご意見を伺いたいと思う。



ルール創造の『ポジ』と『ネガ』


ルールを自分で創っていく(=既存のルールを崩していく)ことの『ポジ』と『ネガ』、 また限界点については、特にネット系サービスに係わっている人も直面せざるをえない問題のはずだ。 前回は、Googleとアップルを例にあげたが、日本国内で言えば、最近では、にしむらひろゆき氏、少し前なら、堀江貴文氏のような人物の活動の『ポジ』『ネガ』をどう評価するのかという問題も、実はこの延長にある問題とも言える。


ただ、もう少し議論を限定して、私が例に出した、格闘技について少しお話ししておきたい。



空手界のイノベーターであった極真空手


極真会空手*3は、かつてそこに係わったものとしては非常に残念なことに、創始者の大山倍達*4の死後、ばらばらに分裂してしまっている。 今や、興隆期にあった、過剰に膨らんだ熱気は霧散してしまったといわざるをえない。


だが、そもそもその過剰を引き起こしたのはどうしてなのか。大山倍達氏の伝説的な強さがベースにあることは間違いないところだが、『空手バカ一代*5をはじめ、多くの著作で独特の物語を創り上げた、梶原一騎*6シナリオライター、およびプロデューサーとしての力量なくしては成立しえなかったことについては、今日ではほぼ評価が定まったと言っても良いと思う。 その偉大なシナリオライター/プロデューサーを失った極真会はあの膨らみきった物語世界を維持することは、もう無理だったのだと思う。


その極真空手のことを扱う、『空手バカ一代』は、寸止めルールに守られてスポーツ化して軟弱化していた空手に絶望した、若き空手家、大山倍達氏が空手のルールを真剣勝負に近いものにすることで、従来のルールを越えて自ら新しいルールを創出して、空手界を活性化させていく物語である。そのルールの制約の少なさから、今でいう異種格闘技が成立するようになり、その中で極真空手が世界最強であることを主張する。 まさに空手界のイノベーター物語なのである。


ルール無用ではない


ただ、『世界最強』を主張するとは言っても、けして武器を持ち出すわけではない。世界最強だけを追求するのであれば、素手にこだわることは矛盾する。また実際のケンカでは、一番強力なのは、金的蹴りであり目潰しなのだが、それを乱用するようなことはしない。さらには、極真空手の公式ルールでは、金的蹴りはもちろん、素手による顔面攻撃を禁止している。古いルールをなくして、ルール無用にしたということではない。 


物語としても、競技としても『ルール無し』では、成立しないし、長く繁栄しないということを再認識させられるのが、極真空手の歴史だったりする。 当然、ここには大きな矛盾があるのだが、稀代の天才シナリオライター/プロデューサーの梶原一騎氏がこの矛盾を独特の物語とフィクションで包んで、読者や関係者に納得させていた


最近では、空手もプロレスも、『格闘技』の大きなカテゴリーの中で、繰り返しルールを変えるイノベーションが行われているが、ルール制約が最も少なくてなんでもありという格闘競技団体が一番繁栄しているかというと、そんなに単純ではない。



暴力にもルールと自己規制は不可欠


さらに言えば、戦争で行われる、闘争でさえ、歴史的に身れば、ルールなり自己規制を厳密に守る美意識というのは、多くの文化圏で尊敬されたし、それを昇華したのが騎士道であり、武士道であるとも言える。 ルール無用の弱肉強食ではなく、暴力でさえ厳格なルールに位置づけ、やらないと決めたことは命をかけてもやらないという規律を持ち込むことで、多くの人を賛同者にしてきた。 それは、狭義の合理性では成立しえないもので、その文明の持つ『美意識』や『普遍性』との接点を見つけることができるかどうかが鍵となる。


グローバリズムを語るにあたっても、古いルールを淘汰していくこと、弱肉強食的になること、が現段階では強調されるきらいがあるが、最終的にはどこかに必ず、ルールなり自己規制なりが見出されて落着いていくはずだ。であれば、ルールや自己規制の構築に、できるだけ普遍的な美意識、正義感を大きく取り組むことができるかどうかが、重要な競争条件となってくると私には思える。