グローバリズムを語る胡散臭さ

グローバリズムという重い課題


若者論や格差論に関連して、様々な文章を読んだり、実際に話を聞いたりしていると、『グローバリズム』という重くて大変な問題に対して、どのようなスタンスを取るのかという部分で、多くの人が大変混乱し、右往左往していることを感じる。中には、あまりにそれを忘れて、近視眼的に国内問題しか頭にないような議論もあるのだが、一方で、グローバルな競争に勝つためには今以上の弱肉強食やむなしとする議論も、救いがないだけではなく、現実に起きている格差問題等のリアルに対するまなざしが鈍すぎるように思える。


確かにグローバルな競争が過酷であることは、競争の現場にいれば誰でも感じざるを得ない。現在の日本がその競争にまだあまり巻き込まれていないように感じられるのは、日本語の壁と各種の規制の賜物である、ということのへ認識がなさすぎる。ここのところは、私自身も、若者に対しておじさん風をふかせながら語っているところでもある。(それどころか自分より年長のおじさんに対してさえ語っているような気がする。)


格差問題を語るにあたり、年収100万円〜200万円レベルで固定してしまっている人たちのことが例に出てくる事も多いが、私の記憶が正しければ、年収100万円レベルの所得階層にいる人というのは、世界の中では、上位15%くらいには入っているはずだ。つまり、仮に今日本を守る壁がなくなれば、その仕事をやりたい人が世界中からやって来る。しかも、おそらくはハングリーさでも、スキルでも今の日本人を上回る外国人は数えきれないほどいる。 今は外需に頼ってつかの間の好況を享受している日本だが、不況に逆戻りすれば、企業はこの安価な労働力を求めて、日本を脱出する流れが加速化することはほとんど間違いない。そして遠からず今度は外国人労働者の日本への流入が加速化するだろう。



あまりにセーフガードがない現代日本


ただ、それでも、今日本の状況をそのままにして、競争だけをあおる事には賛成できない。何より競争に勝てなかった人のセーフガードがなさ過ぎる。これも最近は語り尽くされたことかもしれないが、日本の場合わずか10年〜20年前には、一億総中流社会と言われていたわけだ。ところが、急激に格差社会が訪れつつあることに皆が気づく頃には、地域共同体の崩壊も一層進んでいた。それを補填するように機能していた、会社共同体も、ただでさえ若年層から背を向けられていたところに、正社員と非正社員に分断される過程の中で、機能不全になって来ている。家族も崩壊の危機にある。


格差や階級、人種問題等が非常に厳しいアメリカでは、宗教がセーフガードの役割を少なくとも日本よりはるかに果たしているし、ボランティアも日本人にはちょっと違和感があるくらい盛んだ。富豪の寄付も半端ではないくらいの規模がある。欧州は伝統的な地域共同体がちゃんと残っているし、イスラム世界は弱者の相互扶助がしっかりと機能している。もちろんどの国でも理想的にセーフガードが機能しているとは思わないが、それでも今の日本の空白感は大変危険だと思う。起きている変化に社会制度や慣習があまりについて行けていない。


競争環境も整っていない


さらに言えば、競争環境が公平に整えられているのかと言えば、これが全くそうは思えない。各種の共同体は崩壊しつつある一方で、社会にも、会社にも、妙な因習や拘束性が根強く残っている。今にして思えば、日本が全盛期にあった80年代でも、日本は拘束性の強い社会であった。ただ、拘束性と引き換えに安定性があったため、結果的に規律もしっかりしていた。ところが今は、安定性はなく、将来の保証もなく、競争は強いられる一方で、既得権益は強固に守られ、妙な因習も残っている。それが社会の強い停滞感の発生源になっているとさえ言っていいのではないか。


堀内 進之介氏の『知の即興空間』の以下のような捉え方は、私も実のところ、強い共感を覚える。

しかし、私やもっと下の世代は、端からそうした世界には生きてはいない。競争は熾烈には違いないが、この私たちのいま生きている社会は、本当に競争できているのか、と私はむしろ反問したい。私からすれば、この社会は、古い社会構造のネガティブな側面と、近代の苛烈さが綯い交ぜになったような、因習と競争が同居するウンザリする社会であるhttp://trickystar.blog59.fc2.com/blog-entry-99.html


胡散臭いか、ナイーブか


今の日本は、このような状況下、グローバリズム』を口にすることに胡散臭さがあり、しかも、上記のような複雑さを本当に知らずに『グローバリズム』を語る人たちの語り口からは、そのナイーブさがすぐに透けて見えてしまうのだ。しかもこういう人たちに限って、共同体がなくなったのなら、またつくればいいじゃないか、というようなことを簡単に言い切る。そういう時に私が感じる気持ちを、『知の即興空間』で堀内氏が見事に代弁されているので、もう一度引用する。

ほっといても競争が止みそうもないこの社会に、天真爛漫に古い社会の、「古き良き拘束性」を、誰にとっても妥当であるかのように「安定性」と指称して持ち込もうとするのだけは勘弁願いたい。ただでさえ、息苦しいのが輪をかけて息ぐるしいことになる、と私などには思われるのだ。http://trickystar.blog59.fc2.com/blog-entry-99.html


歴史が教えるところに従えば、こういう状況はどの国でも起きうることで、長い安定が続いた過去の日本のほうが、異例というべきだろう。そして、この状況に対処するために、歴史や社会学、あるいは法制度に深く通じた人達が求められていると私には思える。いわば、『分化の時代』が来ているのだと思う。そうであれば、私ももっとがんばらないといけないのかもしれない。