『科学』という迷妄を超えて 

不確実性の時代


ジョン・K.ガルブレイズ氏が『不確実性の時代』*1を出版したのは、1978年のことだが、このタイトルは、実際に本に書かれた内容とは関係なく、というより、実際に本を読んだことのない人の心にまで浸透したように思う。ああ、我々は不確実性の時代にいるんだ、と時代の空気の何がしかを感じながら、多くの人がそのように思っていた。時代は、第二次オイルショックの直後で、戦後の安定した経済成長の枠組みが終わりを告げようとしていた。



しかしながら、本格的に不確実性の時代が来たのはいつからか、ということを今にして振り返れば、それは1995年以降だと思う。1995年と確信を持って言えるのは、この年に起こったことは、その後振り返って見ても、本当にその後の時代を変える出来事だったと思えるからだ。今では多くの人が異口同音に口にするその出来事は、オウム真理教事件(特に地下鉄サリン事件)』『阪神淡路大震災』『ウインドウズ95発売』だろう。いずれも実に象徴的な出来事であったことを今はしみじみと感じることができる。 私は、東浩紀氏が1995年以降を動物化の時代と規定していることはかなり後になって知ったのだが、自分自身が1995年という年に、何かのスイッチが入った年として、明確に記憶をしていたため、非常に感動した記憶がある。自分の直感は、他の人の直感でもあったようだ、と思ったのだ。



私のブログでも取り上げた題材でもある、この動物化の時代の描写は、客観的に見ても非常によく時代を活写していると思うのだが、私自身と自分の周辺を見ていて感じたのはむしろ、『科学の時代の本当の終焉が来た』ということだった。何でもありの時代が来ている、と当時の友人と語り合ったことを今もよく覚えているが、それを自分は、科学の時代の呪縛(イデオロギー)から抜け出てもいい時代が来た、と読み替えていたように思う。



科学イデオロギーが支配した時代


私の同世代の子供のころというのは、今では信じられないかもしれないが、科学、というより科学のイデオロギーが非常に強く生きていた時代だった。子供が生意気にも、『それは科学的でなないから信じない』とか、『証拠がないもの、自分の目で確かめられないものは信じない』だの、『迷信を信じている人は哀れだ』など平気で口にしていた。中でも私がどうしても反発を感じていたのは、『人類が月に行く時代に、死んだ人の墓参りに行くなんてナンセンスだ』というような言説だ。人が月に行けるほどのテクノロジーを手に入れたことと、人が死んだ後どうなるか、ということとは本来何の関係もない。単にわからない、というのが本当だろう。


科学が幽霊がいないことを証明したこともなければ、生まれ変わりはないと証明したことも、未だかつてないはずだ。それを実に大雑把な科学イデオロギーの元に否定してしまうのは、本来の意味で『科学的』とは決して言えないだろう。さらに言えば、死んだ人に対する思い出を大事にする気持ちは、科学がどんなに進歩しようがそんなこととは何の関係もない亡き人を思いやる気持ちの方は、誰からも否定されたくない『真の実在』だ。ところが、科学的の名の元に振りかざされるイデオロギーは、そんな感情などただの虚妄で、思いやりなんてただの気の迷いのようなものだ、と言わんばかりだ。


そもそも人間の心ほど複雑で神秘的な存在を、科学的手法でどうさばくことができるというのか。科学の手法は、確かに、時として鋭利な刃物のように鋭く、厳格な因果関係の元に関係づけることが可能なことだけを厳選する。結果として、作用とそれに対する反作用が極めて明確だから、曖昧さがない。つまり曖昧さをとことん排除するからこそ、明確な説明ができて、しかもそれをテクノロジーとして置き換えていくことができる。そして、その曖昧さを捨て去る代償として、それこそ月にまで行けるほどの成果を得て来たと言える。だが、本来作用に対して、必ず一つの反作用が呼応するとは限らない。特に心の問題はそうだ。時として、ある作用に対して非常に多くの異なった反作用がありうる。神経の反射とは違うのだ。科学の手法は、条件統御した中での実験の積み上げを基本とするが、自由を求めて雄飛する心、人を愛する気持ちなど、そのような条件統御とはまったく無関係だろう。語れないことは、正直に語れないと言う方が、はるかに科学的態度だと思う。


心理学も唯物論が支配していた!


ところが、その心を扱う心理学にも、行動主義心理学、という派閥があり、唯物論/機会論を思想的な背景として、心の独立存在を認めず、“自由意志は錯覚であり、行動は遺伝と環境の両因子の組合せによって決定されていく”とする。心理学でさえ、こんな理論が出てくるほど、唯物科学という迷妄が浸透していたと言える。だが、自分がマーケティングの仕事をするようになった時に感じたのは、日本の多くのマーケティング理論は、ベースにこの行動主義心理学の影響が色濃くあるということだ。正直なところ、ひどく失望したものだ。ものが不足している時代でなら、おおざっぱな効用や利便性さえ感じられれば売れたわけだから、こんな程度の人間理解でも何とかなったのだろうが、いつか近いうちに通用しなくなるに違いないと確信していた。そして、その確信は正しかったことは時代が証明してくれていると思う。



心身並行説の否定


このようなイデオロギーが安易にはびこる根本理由は、『心身平行説』つまり、心と脳は厳密に平行している、つまり脳髄はあるが心はない、と先決めしてしまっているところにある。しかしながら、これは、小林秀雄氏の『人生について』*2や幾つかの講演録にて、哲学者のアンリ・ベルグソン*3の研究をベースに、明快に否定されている。ベルグソン氏の失語症の長年の研究成果によれば、心身並行の仮説は成立しないと結論づけられている。脳のある部分が傷つけられれば、確かに人間は記憶を失う。しかしながら、記憶そのものは失われない。心身が並行しているという仮説が正しければ、その局所の損傷によって記憶は永遠になくなってしまうはずだが、記憶自体は傷つけられずに残っていて、何かの機会を得て、それを呼び出すメカニズムが働くと、また戻ってくることが確かめられている。つまり、脳髄と精神の機能(記憶)は厳密には並行していないということになる。



また、ジークムント・フロイト*4氏以降の無意識心理学の成果は、脳に物的な原因が何ら見つからなくても、体の機能が損傷を受けるような事例を沢山見つけている。つまり、心身並行説はすでに知の巨人たちが、明快に否定しさった仮説である。ところがイデオロギーとしてはまさに亡霊のように今でも彷徨い出てくる。まさにこれこそ無知迷妄だと思うのだが、いかがなものだろうか。それでもどうしても心身並行説が正しいことを主張したければ、先人の偉大な業績を乗り越えることにまず取り組んで欲しいものだ。繰り返すが、それこそが科学的態度というものだろう。


現代は混乱の時代ではあるが、旧いイデオロギーが死につつある時代でもある。生みのの苦しみは大きいが、真実を求めてゼロリセットができる可能性もまた秘めている。ここまで風呂敷を広げると、マーケティングや商品企画を取り上げると、矮小化のそしりを受けそうだが、本質は皆同じだ。マーケティングは人の心や精神を本当の意味で扱うものとして、生まれ変わる必要がある。ずいぶんと回りくどいエントリーとなったが、小林秀雄氏の次の引用をよく読んで是非今一度考えてみて欲しい。その価値は十分にあると思う。

人生について P233

(科学は)私達が、生活の上で行っている広大な経験の領域を、合理的経験だけに絞った。観察や実験の方法をとり上げ、これを計量というただ一つの点に集中させた。そういう狭い道を一と筋に行ったがために、近代科学は非常な発達を実現出来た。近代科学はいつも、その理想としての数学を目指している。近代科学の本質は計量を目指すが、精神の本質は計量を許さぬところにある

*1:

不確実性の時代 (1978年)

不確実性の時代 (1978年)

*2:

*3:アンリ・ベルクソン - Wikipedia

*4:ジークムント・フロイト - Wikipedia