旧いシステムの中の気の毒な経営者に過度な期待は難しい

気概のある経営者はどこへ


秋葉原連続殺傷事件を契機に、派遣労働問題の悲惨さがあらためてクローズアップされているが、大方の経営者からは、グローバル経済のただ中で戦っているので、日本で労働条件を切り上げれば、日本から労働コストの安い海外へ生産拠点のシフトが進むだけ、というような、コメントが出るのを目にすることが多い。確かに、自分自身そこそこ経済や経営のことを勉強してきたし、彼らの言うことはもちろん十分理解できる。ただでさえ、負け組入りしつつある日本企業が、これ以上負け続けてよいのか、という開き直りも無理からぬほどの熾烈な競争が起きていることも事実だ。


だが、これは私にはどうしても違和感のある光景だ。社会正義とか、社会善とか、弱者救済の理想とか、特にあからさまに口にするのもみっともないが、その思いがにじみ出てくるような、そんな経営者をかつて沢山見て来たはずだという思いがある。


昨今、企業不祥事も年中行事となり、経営者の劣化が取りざたされる。それでも、厳しいビジネスの現場を勝ち抜いて来た経営者であれば、かならず人格が陶冶された人物が少なからずいると思っていた。いや、確かにいるはずだ。だが、あまりにそういう人の発言が伝わってこない。どういうことだろう。むしろ若い世代の経営者に、世の中を本当に良い方向に変えたいという気概を感じることがあるくらいだ。


ただ、冷静に考えてみると、自分たちの世代の前後では、器が大きな、熱意のある経営者候補と言える人の層が明らかに少なくなっている。 経営者全般を語るには、荷が重いが、自分たち自身、自分たちの周辺の経営者予備軍、自分たちの前後の世代等であれば、ある程度問題を指摘することもできそうだ。それは場合によっては痛烈な自己批判となるかもしれないが、問題があるのなら、せめて乗り越える努力をする気力は失いたくないと思う。



今の経営者がどうやって育って来たか


そう考えてから、いくつか参考になる文献等をあたってみると、森真一氏の『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』*1に非常に参考にできる部分を見つけて、考え込んでしまった。

P170

受験社会とは、受験がシステム化された社会である。(中略)目標と競争への焚きつけは主体の欲望からではなく、受験社会のほうからやってくる。ある学校に進学すると、つぎはこのような学校を目標とすべきだという暗黙のシナリオがそなわっているからだ。(中略)こうして何になるかや、何をするかの未来の野心を背後に退かせ、人々の野心や欲望は受験システムに刻印されたシナリオの採用になりやすい。(中略)自分はファッション関係に進みたいといっている学生が、就職シーズンになると、せっかく一流の○○大学生だから、やはり××銀行のような手堅く伝統のある企業に就職することにしようとする。(中略)受験社会?におかれた受験生は、『なぜか(自分でもわからないうちに)受験戦争にそれなりに頑張ってしまう』ということになる。受験社会?はシステムに飼育された(空虚な)主体の製造工場である。


ここは、教育学者の竹内洋氏の『立身出世主義』*2からの引用とされている部分なのだが、実に身につまされる。このようにして、銀行に就職した友人を私は何人も知っている。大学時代に私は経済学部だったのだが、自分自身同じ大学の中で一番偏差値が高いということが、経済学部を選んだ理由だった。内部進学で来た連中も、高校時代の成績が良かったからという理由で経済学部を選んだ友人は多かった。何をしたいというようなことを語ることがしばしば恥ずかしいような雰囲気さえあって、あぜんとしたことも少なくなかった。自分は本当は、文学や政治がやりたかったという、経済学部の学生を何人も見てきた。その後企業に入ってから、他の大学の卒業生たちも沢山知ることになったが、大学が違ってもそれほど大きな違いはなかった。


我々の世代は、企業は右肩上がり、終身雇用、年功序列、長期安定的維持向上というような予定調和的未来がずっと続くかのように信じられた時代に企業に入り、ほぼ決められたシステムの階段を上がること自体が目的だった。大学の学部が自分の選択ではなく、偏差値の選択だったように、大企業に入社すると、仕事の選択も自分がやりたいかどうかということは必ずしも考慮されず、力があれば企業の中の『出世部署』に入れてもらい、それに不満を漏らすこと無く頑張っていると、次に行くべき部署が用意され、また黙々と従って行く。自分の未来を大きな構想の元に描くとか、社会を変えるためにこの企業に入ったとかいう個人の思いは、仮にあったとしてもシステムの中に飲み込まれ、今の部署で最善を尽くすこと、それだけが個人の未来を保証する。そういうことに慣らされて行く。そして、余計なことを考えず、全体の中での最適というよりは、部分最適を最も要領よくやるタイプが階段を登って行く。

 
そして、やっと経営者になっても、大きな企業では平取締役ではいかにも肩身は狭い。常務、専務、副社長と登って行っても、社長になってさえ、実力会長がいたり、実力相談役がいたり、うるさいOBがいたりする。経営者になっても、というより経営者にでもなればますます、周囲に気を使い、空気を読み、内輪の競争に神経をすり減らす。とてもではないが、企業の狭義の目的である利益追求以外の理想を語る余裕などない。いてもほんの少数の例外だ。仲間集団の中で、つきあいがうまく、求められる役割をこなす、という意味での熟達者が日本の経営者の本流といってほとんど間違いない。


もちろん経営者といっても、伝統的な大企業の経営者だけではない。比較的小さな会社にも立派な経営者も沢山いるわけだが、日本の経営者団体に入り、政治に関与するレベルまで到達できるのは、今の日本ではやはり大企業に限られているのが実情だ。また、日本のおかれた環境は急速に変化して、このような体制では国際競争には勝てない、ということがリアルになってきてはいる。だが、実のところびっくりするくらいこの構造とマインドは変わっていない。だからこそ、若年層とのあいだに大きなギャップもある。



今できることはなんだろう


このような中で、経営者に大きな器になれと期待しても、やはり限界があろう。それは個々の経営者の人たちに誠意が足りないとかいう問題とも言えない。実情を知り、友人たちや先輩がその場にいるからある程度わかるのだが、彼らの本当の人間性とシステムの中におかれた経営者という役割は必ずしも同じではない。演じている本人が自己嫌悪を感じていることも実に多い。特に最近はそうではないかと思える。大きなシステムが、本来の目的が終わりつつあるのにまだ止まらないで動き続けている。


ではどうするのか、ということだが、年代に関係なく、新しい価値観を持ち、旧いシステムやしがらみとは無縁の経営者が沢山活躍できる環境をつくることでしか、事態は改善しないと思う。旧い世代と世代間闘争をするのも、ある程度は必要かもしれないが、それ以上に自分たち自身が気概のある経営者として立つ、あるいはそれができる経営者の元に結集する。それ以外に根本解決はない。そういう流れが太くなれば、既存のシステムにいる経営者からの合流も期待できる可能性はある。そのために、今自分ができることは何なのか、各自が考えて実行するべきだ。自分はそれをこれからの自分に課してみたいと思っている。

*1:

*2:

立身出世主義―近代日本のロマンと欲望 (NHKライブラリー (64))

立身出世主義―近代日本のロマンと欲望 (NHKライブラリー (64))