古い価値観を脱ぎ捨てる時

社会の本当の変化はこれから


最近、社会が変化しているという実感は、多かれ少なかれ誰でも持っている。ただ、問題なのは、それが多くの人にとってよい方向の変化というより、どちらかというと悪い方向への変化であることだ。だから皆『不安』を感じている。今のところ、この『不安』は年金問題に直面する高齢者、正社員になれずに安定的な雇用と将来が見込めない若年層が特にクローズアップされがちだが、これからはビジネスの中核にいるビジネスパーソンが大きな変動を自らの問題として感じ、多くのメンバーがついて行けなくなると思われ、一層社会全体の大きな問題になっていくと考えられる。日本にとっては、これからが本格的な大変動期を迎えることになるのは間違いない。願わくば一人でも多くの人が少しでも早く、この大変動を自分の問題として受け止め、自らと自らの家族を守り、そしてすっかり古く錆び付いてしまった様々な社会制度を変革していく中核なって欲しいと思う。



いよいよ来る『脱工業化社会』の常識


このブログでもたびたび述べて来たことだが、世界も日本も、変化しているし先が見通せなくなっているが、ただ方向性が全く見えないわけではない。時代のビジョナリストの声に耳をすまし、冷静に周囲で起きていることを見渡すことができれば、少なくともビジネスのフィールドで起きていることには、一定の方向性があることはわかる。フラット化、ソフト化、脱工業化、情報化・・・。中でも、今の日本のビジネスパーソンが最も意識しておく必要のある変化の方向、それは『工業化社会』から『脱工業化社会』への変化だろう。こう書くと、そんなことはとっくに知っているという向きもあろう。確かに、この『脱工業化』の概念は、すでに1960年代にダニエル・ベル*1氏に提唱され、その後様々な学者や研究家によって語られて来た。だが、日本では現実問題としてその影響を実感することは、ほとんど場合なかったはずだ。なぜなら、バブル期までの日本は、製造業の全盛期で、『ものづくり大国』の名を欲しいままにしていたからだ。


それが、崩れだしたのは、バブル以降であり、インターネット本格普及を迎える頃からだろう。長く低迷したこのポスト・バブル期にも、10年を過ぎたころから、本格的にインターネットの普及が見られ、さらにWeb2.0と言われる現在、いよいよ誰もが『脱工業化社会』『情報化社会』の到来を否定できなくなっている。実際には、今回の青少年のフィルタリング問題の反応を見ていると、また、実際に自分の周囲の中高齢者を見ても、驚くほど多くの人がまだ『工業化社会』の常識の中にどっぷりと浸かっていることに愕然とせざるをえない。だが、子供のころからPCや携帯電話等を通じてインターネット環境にいた若年層は一足先に、『情報化時代』の常識になじみつつある。つまり、世代間での価値の断絶が生じつつある。



中核にある問題


若年層の雇用問題は、中高齢者の雇用が流動化されずに過度に保護されていて、本来流動化して、人材資源も古い産業から新しい産業に移行すべきところができていないことにあり、日本の産業・労働政策に責任ありとする、池田信夫先生*2や、気鋭の論陣をはる、『雑種路線で行こう』の楠正憲氏*3のご指摘は、私もほぼ賛成だ。この雇用政策による断絶がすでに存在する。そして、上記の『情報化への対応』に伴う断絶がかぶってくることになる。


困ったことにこの世代間の断絶が今の日本の様々な問題の根幹にあると考えられる。若年者の多くが口にする、夢がない、停滞感が大きい、というのは日本経済が成長活力を欠いていることが大きな原因だろう。もともとアメリカやイギリスを習って、日本でも競争原理をもっと持ち込むべく改革を進めて来たのは、格差が大きくなることを怖れずそれ以上に日本経済全体の活力を上げて行くことが狙いだったはずだ。ところが、この労働政策のようなボトルネックを沢山残してしまった結果、一向に本当の意味での活力、競争力が戻ってこないのが、すべての問題の中核にあると私は思う。


『工業化社会』の常識の問題、それは、『製造業的マインドの問題点』でもあり、野口悠紀夫氏の著書から言葉を借りると『モノづくり幻想が日本経済をダメにする』*4ということだ。野口氏の本のカバーにまさに絶妙の説明書きが記載されている。

長かった『自身喪失期』から『自身過剰期』へと移行した日本経済。しかし、本質的な構造は何も変わっていない。危機感なき現状に警鐘をならす辛口経済エッセイ。企業も、政府も、国民も、いまだに古い夢を見続けるこの国の悲喜劇。


最近でこそ、原油を中心とする資源インフレや、サブプライム問題の影響、日本株の低迷等、リセッションの兆候が出て来ているが、つい一年くらい前は、小バブルと言って良いくらい、日本経済は自身を取り戻したかに見え、業績が回復した企業では新卒の大量採用が復活した。だが、冷静に見ると、世界経済は大変な好景気に湧いていた中、日本経済の成長はそれと比較すると非常に低いものだったし、ジャパン・パッシングは進んでいた。しかもその成長の牽引は自動車等特定品目の輸出、資源を扱う商社等、旧来から日本が強かった産業に限定されており、ITやソフト等先端産業の国際競争力は一向に上がらないでいた。とてもではないが、楽観できる状況にはない。そして、構造がそのままに小景気に沸く中で、あらゆる改革は後退する。この何とも言えない気持ち悪さに鈍感だとすると、すぐにすべては短い夢であったことを知って呆然とすることになるだろう。



日本の価値観に根付く製造業神話


私も、このようなことを言ったり書いたりすると、製造業関係の元同僚や先輩におしかりを受けることがしばしばある。だが、私も元は製造業にいて、その未来を真剣に心配した身であり、日本の製造業の競争力がなくなっていくことには歯ぎしりをする思いなのだ。製造業にこそ復活して欲しいと本当に考えている。ただ、『幻想』どころか、モノづくりが『宗教』になっているのではないか、とさえ感じるファナティックな反応も中にはあって、これではむしろ日本の成長の足をひっぱってしまうのではないかと心配だ。今の日本人は、ファイナンスやソフトウェアに対する不信感や嫌悪感が強い、ということは、野口氏の指摘にもあるとおりで、村上ファンドの村上元代表やライブドアの堀江元社長に対する扱いを見るとよくわかる。さらには、外資系ファンドに対する乗っ取り防衛策への寛容さ、裁判所の裁判官の反応など、まさに勧善懲悪に陶酔しているとしか思えないが、本当にそれが長期的に見て日本によいことなのだろうか。



ファイナンスやIT/ソフトであっという間に大金を稼ぐような人物は、日本では尊敬されない傾向がある
。如何に頭がよく要領が良くても、それはかえってマイナスイメージとなりがちだ。逆に、コツコツと苦心してがんばった結果仮に成功できなくても、その頑張りが尊敬される。だから、『泥のように10年働け』とおっしゃる経営者は、正味、それが日本の道徳意識だという気持ちもあったのではないか。同世代の経営者にもそのように感じられたように思えてならない。だから、昔のようにモノづくりに回帰しようとか、市場経済を否定してでも武士道に戻るべきだという意見にはいつも人気がある。



もう同じやりかたでは勝てない


しかし、その大量生産時代を一度は制した日本の製造業は、すでに中国やインドを中心とした競争に勝てなくなって来ている。ただ、労務費格差だけの問題ではない。中国やインド等はすでに輸出市場の開拓に乗り出している。ロシア、東欧、中南米等、資源を持つアフリカ等だ。中国、インド国内だけでなく、こうした輸出市場の多くも『グッドイナフ・セグメント』と言われる、ハイエンドと遜色ない品質でローエンドより少々高めの価格の商品を求めるセグメントで、日本の製造業が強さを発揮して来たコンセプトでは太刀打ちできないセグメントと言える。これに対して、中国やインド企業は、特許がすでに切れた、『ジェネリック技術』を利用する等、この急増する市場のベストプレーヤーの地位を確保しつつある。逆に、IT技術を最大限に活用する、欧米を中心とした企業は、従来の日本の製造業では創造もつかないような効率化を実現したりする。


古い労働哲学が有用でなければ、日本は世界の競争にはもう勝てない、と悲観することもない。製造業中心で日本が世界から怖れられたころには、信じられないことだが、日本のオタク文化が世界に高い評価をされているではないか。今の日本には、クリエイティブで、ソフトを中心に、生きて行くチャンスは残されている。私はそう信じている。


次回は、『脱工業化社会』の変化と、対応方法を中心に話を進めてみたい。