経営者であるからには

『泥10問題』第二弾


昨日のエントリー原価低減/経費カットほど恐ろしいことはない - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観るの続編として、経営者のあり方のうち、見過ごされがちだが、私が非常に重要と考えているポイントについて、書き加えておきたい。


今回のエントリーでは、経営者であるからには、こんな人物であって欲しいと私が考えていることを3つ取り上げて説明してみたい。だんだんと論点が拡散して、『泥10問題』と関係なくなっていくのではとのご指摘も受けそうな気がするが、私の見たてによれば、このような素養とか心得がある人が応対すれば、おそらく今回のような問題発言と皆が受け取るような事態にはならなかったと確信している。



データがなくても決断する経営者



近代の経営にデータは基本的に不可欠だし、事実に基づかない経営者、安易な直感に頼る経営者は原則論外である
。ただ、ここで問題にしたいのは、過剰に分析/調査/資料作りをさせる一方で、決断しない経営者のことである。そう書けば、皆さんの周囲にも思い当たる人がたくさんいるのではないだろうか。確かに、これは人間の能力のタイプとも関係するし、あるとき徹底的に分析しつくすということ全般を否定するつもりはない。ただ、仕事は基本的に生き物であり、決断にはタイミングがある。どんなに資料が不足していると感じても、決断を下さざるをえない局面は必ず来る。まして、今日のように過去に例のないことが次々と起きて来る中では、きちんと資料化すること自体が不可能であることのほうが多いと言っていいかもしれない。



ただ、これはむしろ役割分担の問題と考えたほうがよいのかもしれない。管理職/マネジャーの判断レベルでは、できる限り事実に基づき、データで説明することに努めるべきだ。その習慣をつけておくことは大事なことだと思う。しかしながら、経営者はデータもなく、過去に経験も前例もない、そういう過酷な状況で如何に適格に判断できるようになるか、ということを研究すべきだと思う。このように言うと、経営者は直感的に物事を見抜く洞察力を先天的に持つ人物しか勤まらないのか、と反論されることもあるが、そうは思わない。むしろ先天的能力に頼る決断は、取り返しのつかない大きな間違いを犯す可能性のほうも大きいものだ。経営の神様ピーター・ドラッカー氏も、経営者に必要な能力は後天的に学習できるものだ、と断じている。私もそう思う。


今回はあまり細部に立ち入らないが、このために経営者ができる学習/努力と言えば、下記のようなことが上げられる。(細部は別途書きたいと思う。)



  • 普段から徹底的に現場を回って感覚を磨いておくこと

  • 歴史を勉強しておくこと

  • 内外ともに信頼できる情報網を構築しておくこと

  • シナリオ分析手法により起るべき未来を想定して普段から準備しておくこと



歴史に学んで歴史観と人間観を鍛えている経営者


これについては、抹香くさい印象を持たれる人も多いかもしれない。しかも、昨今、過去の経験が役に立たないと一方で言いながら、歴史が大事とは矛盾しているのではないかとも言われそうだ。 しかしながら、経営者にとってきちんとした歴史観と人間観を持っていることは極めて重要だ。歴史の知識があればよいというものではない。羅針盤亡き時代には、もしかするとこの歴史観だけが頼りかもしれない。IT業界おいてもだ。ところが、日本の最近の企業人で、歴史観とそれに基づく人間観を陶冶してきた人がどれだけいるだろうか。歴史好きの歴史知らずと言うのか、信長がどうとか西郷がどうとか、知識だけはやたらと詳しいが、その歴史観は教条的なマルクス史観だったり、ナイーブなただの進歩史観だったりする人はたくさんいる。だが、イギリスのチャーチル元首相が、修行時代にギボンの『ローマ帝国衰亡史』*1はじめ、歴史の名著から必死になって学ぼうとしたような鬼気迫る姿勢を感じることはほとんどない。


その証拠に、『失敗の本質ー日本軍の組織論的研究』*2に出てくるような失敗事例を、非常に多くの企業で、今に至るまで連綿と繰り返している。この本は本当に良い本なので、特に若い人には是非一度読んでみて欲しい。如何に平成の時代の経営者が、ノモンハンガダルカナルインパール等の悲惨な失敗とまったく同じ失敗を繰り返しているかがよくわかるはずだ。



人の能力の引出し方を知っている経営者


これは、もっと抽象的な話になってしまいそうだが、どうしてもここに入れておきたかった。経営者に限らず、管理職一般に求められる重要な能力なのだが、経営者にこれがないと、自分自信の仕事はできるが、部下を働かせることができない人を管理職として登用しがちだ。組織内だけの問題ではなく、往々にしてこのような人は他企業とのプロジェクトや営業等についても、うまく対処することができないことが多い。逆に、これが本当にできれば、自身の実務能力や経験に多少劣るところがあっても、経営者としては合格だろう。


お決まりのパターンはない。その人の個性に応じて型をつくることが重要だと思う。歴史の話をしたので、歴史に例を取ると、日本史上もっともこれがうまかったトップは、豊臣秀吉ということで大方異論はないところだろう。『人たらし』の天才と言われた彼は、誰にでも好かれる才能に溢れて見える。ただ、トップリーダーとしてしばしば比較対象に取り上げられる、織田信長徳川家康も、パターンはかなり違うが、人の能力を極限まで引出す彼らなりの方法を持っていた。徹底した実力・能力主義を貫いた信長、吝嗇で秀吉のような思い切った報償をすることはしないが、安定した安心感で働きやすい環境をつくった家康など、ともに部下の武将の能力は、彼らをトップにあおぐことで、大いに引出された。


昭和的価値観の中で成功体験を持つ経営者は、人間関係構築手法を、ノミュニケーション(『飲む』と『コミュニケーション』を合わせた造語)一本に頼っているケースが多い。前回のエントリーでも書いた通り、経済や企業業績が右肩上がりを前提として、均質で優秀な大卒男子を一括採用し、昼夜兼行で働かせ、OJTで企業なりの風土や習慣を叩き込み、夜はノミュニケーション、土日は会社行事、社宅に住まわせて会社の人間関係を持ち込む、ということが可能だった時代なら、確かにノミュニケーションは重要で有効な手段だ。部下の社員のほうも、会社カルチャーからはじき出されて、村八分になると、どんなに実力があっても仕事はできなくなってしまう。だから、この昭和的価値観を前提として、会社共同会を維持することが最大目的であった時代には、大卒新入社員は、『泥のように10年働く』ことに十分メリットがあったと思われる。(というより、それをやらなければ、村八分だ。)


ところが、今は従来の最大の前提だった『右肩上がり』は過去の遺物となった。新卒は年度によって入ったり入らなかったりだし、その分会社のカルチャーにはさめていて、一定の距離を置く中途社員や派遣社員が激増している。女性労働は活用されていないのが現実とはいえ、一昔前と比較すると女性の仕事志向は高く、人数も増えている。企業としても活用せざるをえない。そういう環境でも、人の能力が引出せる経営者が必要になっているわけだ。必要に応じて、ノミュニケーションを活用するのもいいが、同質のカルチャーに巻き込むことでしか、人間関係を構築できないということになると、社員の種類が増えてしまうと対応不能だろう。子供を抱えた女性や外国人には、ノミュニケーションは通用しないと思われる。そんな時代には、むしろ、『公正さ』『価値不偏的な正義感』等を持ったリーダーの存在が必要になる。


どの会社も、都合よく優れた経営者がいるとは限らないだろうが、理想のあり方をイメージできるかどうかというのは、大きな違いだと思う。『泥10問題』をコップの中の嵐とせずに、少しでも教訓を引出して、皆の認識レベルを上げて行きたいものだと思う。

*1:

[新訳]ローマ帝国衰亡史 上 <普及版>

[新訳]ローマ帝国衰亡史 上 <普及版>

*2:

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)