秋葉原事件に見るネット・コミュニティー育成の重要性

秋葉原無差別殺傷事件


秋葉原の無差別殺傷事件の被害者の皆様、特に不幸にして亡くなられた方々には、謹んで哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈りしたい。
時折秋葉原にも出かける私自身も、大変ショックを受けた。また、現代の元気な日本を象徴する場所での出来事だけに、『9.11』がアメリカ人の心に与えた傷と同種の傷を日本人に与えなければよいのだが、と思う。


本件は、当初から、様々な意味で非常にシンボリックな意味が込められて見えるため、多様な解説が出るだろうと予想していたが、案の定驚くべき量の解説記事が出て来ている。今回は、外国人レポーターの記事もとても多いようだ。今やかなりの外国人にとっても、聖地Akihabaraの一大事だから当然なのかもしれない。


このような中で、何か書いても、いかにも埋没してしまいそうなのだが、それでもあえて書き残しておきたいことがある。



酒鬼薔との類似性


今回の事件の報道を聞いた時、すぐに私が思い出したのは、97年に起きた、神戸市須磨区での『酒鬼薔薇聖斗と名乗った少年のことだ。(どうやら、今回の加害者も同年代らしい) 『酒鬼薔薇』少年の犯行声明文は当時非常に話題になった。私の記憶にもかなり鮮明に残っている。中でも特に印象深かったのは、次の部分だ。

ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として頂きたいのである。


なんというか、自分から壁の後ろに退いていて、どこにいるのかわからないようなところに身をおきながら、人が覗き込みに来てくれることを待っているような、アンビバレントで不可解な叫びを感じないだろうか。自分からは出て行けない。人が覗き込みに来て欲しい。でもどうせ誰も来ない。そんなメッセージが伝わってくる。



今や誰もが持つメンタリティー


一方、今回のケースでは、と言えば、犯人は一生懸命友人にメールを送っていたようだ。さらには、実際に犯行に向かう過程を、携帯電話の掲示板に逐一報告している。そして、誰かが止めてくれることを待っていたのだと言う。だが、誰も止めてくれない。二つの事件の犯人の心情は、この点であきらかに強い類似点がある。そして、それはこの年代の若年層に、中でも『オタク』にほぼ共通する風景と言ってよさそうだ。オタクは、対人関係が苦手で、他者との接触は避ける傾向にある。その一方で、インターネットや携帯電話によるコミュニケーションにはしばし非常に熱心だ。しかも、リアルであっても、同人誌のようなコミュニティ活動は、熱心に取組んだりする。


ただ、断っておくが、今の時代は、特定のマイノリティーとしての『オタク』という考え方はまったく通用しない。若年層の中で、広義のオタクはメジャーな存在と言うべきだ。もちろん、男性だけではない。女性のオタクも含めて、オタク的メンタリティの持ち主、という定義でくくれば、それは今の若年層だけではなく、かなり上の年代に至るまで、いわば『時代精神』と言ってもよいくらい広がりを持つ。そこに、問題があるのなら、誰かの問題ではなく、誰もの問題と言うべきだ。だから、今回の犯人が、アニメやマンガが好きな、オタク的な傾向があったことをもって、アニメやマンガ、特定の『オタク』に対するバッシングは全く的外れだし、かつての宮崎事件のようなオタクバッシングはもうおきることはないだろう。


日本のインターネットやSNSに集まるユーザーの特殊性、『匿名だが非常に活発』という状況は、まさに、『人をさけながら接触を求める』オタクのあり方、そして、二人の殺人犯に驚くほど共通するものではないだろうか。



現実的な解決策こそ


問題は、今の状況を、時代を20年くらい遡って、地域コミュニティの復活、学校の教師と生徒の人間的な交流、家族の復権等に求めるだけでは、解決はほど遠いと思われることだ。もちろん、そういう努力を否定するものではまったくない。ただ、今の現実をまずは認めるのが先ではないだろうか。

  • 学校の荒廃
  • 地域コミュニティーの衰退
  • 家族の崩壊
  • 年収の二極化(年収300万円以下世帯の増加)
  • ワーキング・プアーの増大
  • 非正社員化による伝統的会社コミュニティーの崩壊


いずれも微修正や改善で何とかなる段階はとっくに過ぎている。その現実を認めた上で、何を最初にするべきなのか、ということを現実的に見つけて行くことが大事だと思う。


そのように考えた時に、今回の秋葉原事件の犯人も利用していたような、インターネットや携帯電話を利用した交流やコミュニティーの健全な育成というのが、如何に大事なのか、ということがわかる。電子のコミュニケーションよりリアルなふれあいのあるコミュニティーや家族の復活を、と言いたくなる気持ちはわかる。最終的には、そういうあり方の復権は大切だと思う。だが、若年層からネットを遮断すればいいというのは、いかにも非現実的だし、場合によっては悲劇的だ。


秋葉原事件の犯人にリアルなコミュニティーへの参加の重要性を説くこと以上に、彼のネットコミュニティーでのつながりやふれあいをもっと豊かにする方法を指導してやることができれば、もしかしたら、犯行を踏みとどまることもありえたとは考えられないだろうか。インターネット自殺コミュニティーで集団自殺する人のことは話題になりやすいが、一方でインターネットのコミュニティーのおかげで自殺を踏みとどまる人も非常に多いことは意外に知られていない。地域コミュニティーでは村八分だった若者が、ネットコミュニティーであたたかく受け入れられることも実に多いのだ。以前にも書いたことだが、携帯電話という大人がいかにもよく知らない領域で、驚くように活性化しつつあるコミュニティーもあることが残念なことにあまりに知られていない。携帯電話と若年層のコニュニケーション革命 - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


青少年ネット規制法案は幸い、民間団体による自主規制という、ある程度納得性のある妥協案となったようだが、その過程で出て来た、いわゆる『大人』の無神経発言には、肝を冷やすものが多かった。自分たちの子供の頃には携帯電話なんてなかった、というだけの理由で子供から携帯電話を取り上げようというような乱暴な意見も実に多かった。特に最近は地域コミュニティーがすっかり衰退してしまった地方など、携帯電話をほとんど唯一の救いの窓、希望への接点としなければならない子供がどれほど多いことか。リアルの環境をこんなふうにしてしまった責任が私達を含む大人にあることを自覚しているのなら、とても考えられない発言だと思う。


もちろん、インターネットや携帯電話によるネット接続がリスクに溢れたものであることは理解できるつもりだが、今の時代のウエル・バランスは、一時代前とはかなり変わってしまっていること、ネットコミュニティーの重要性の認識と有効利用が、心の荒れた若者への対応の重要なファーストステップであることを、今回のような機会に是非じっくり考えてみてもらいたいと思う。